2019年06月27日

 佐伯城(さいきじょう)


 佐伯・大入島海の駅へヨットで行き、そこからマリンバス200円で佐伯に着く。 佐伯城を訪ねる。 徒歩30分くらい、JR佐伯駅からは徒歩20分程度で行ける。甍には武家屋敷の雰囲気の残る通りを歩いて登城口・登山口に至る。帰りはタクシ−を利用した。

 天守や櫓、塀は余り残ってはいないけれど、石垣は多く残っているのでお城の雰囲気は大いに感じられてよい。再建したら面白そうである。

 毛利(森)高政が一六〇六年に城を完成させた。2万石の外様であるけれど、城の規模は石高から想定されるより大きく感じた。山上の本丸と2の丸は焼失し、甍に3の丸を増設してそこに居館をつくり藩の運営をした。 高政の親は信長に仕え、高政は秀吉の近習として仕える。秀吉の光秀討伐の大返しの際には、兄弟で毛利に人質になった。その際に毛利輝元に気に入られて毛利姓をもらう。関ケ原では最初は西軍に属したが東軍に投降した。1601年に佐伯2万石に転封になり佐伯城をつくる。




 

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 佐伯城 案内図



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 三層の天守があったが一六一七年焼失した




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 本丸へ登山口



 

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 3の丸櫓門

 


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 本丸入り口

 

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  2の丸 




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 本丸から望む



  2019-6-27






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2019年06月25日

蒲江




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   赤丸 今回停泊位置 、 下の赤丸はウネリの入る時の避難位置・漁船のいないとき



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 係留位置  2−3隻は可能


 蒲江・大分県は、台風で避難したヨットもあると地元の人の話です。 しかし東よりの風が強いときはウネリが入り、今回の停泊位置では動揺する。その時はこの場所ではサイドアンカ−が必要でしょう。大きなフェンダ−を持っており助かったが、岸壁との間に浮かせていたフェンダ−が岸壁のハシゴにひっかかりライフラインを切断した。 船具屋でワイヤ−クリップを購入できて修理できた。

 東風が続いて5日ほど出られませんでしたが、ここは買い物、洗濯が便利です。おふろは近くのレストランを利用すると入浴できるという。利用しませんでした。

 佐伯にバスで行けるようですが、午後の便が見つからず行くことはなかった。

   2019-6-25



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2019年06月24日

日出城


 「関サバ」や「城下かれい」の地域ブランドは知られてきています。 小生はさっぱり食した覚えはないのですが。 さて、その「城下かれい」のお城はどこでしょうか?

 ヨットで日出城へ訪ねるつもりだったのが、杵築の漁港でアンカ−トラブルに巻き込まれて、巻き込まれたロ−プを除くために潜るハメになり、ここ日出の港への寄港を取りやめ別府に変更した。 そう、城下(しろした)とは日出城のことです。 現地を訪ねて分かった”にわか知識”ですが。

 お城近くに的山荘という格式の高そうな料理屋があり、お昼には城下御膳が5400円で食べられるといいますが、小生はその身分でないので「城下カレイ」はもちろん食べてはいません。

 別府から日出へはJR日豊線で320円20分ほどの近距離にあります。日出城跡のほとんどが小学校の敷地と化しています。 天主部もまたその敷地内です。 取り囲む石垣は残っています。

 初代藩主木下延俊が義兄の細川忠興の協力で築城した。 北政所に続がる関係で家康につき3万石の小藩として維新まで続く。

 

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 日出城下町図



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 日出城(陽谷城)図

 

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  外大手にある時鐘

 

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 鬼門櫓  鬼門・北東の隅がわざと角が切ってある珍しいもの

 

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 天守石垣 三層の天守があった


 明治初期まで城は存在し取り壊される前に実測が行われたという。規模も小さいことから復元されたら、良いものになるのではないかと思う。小学校は移転してもよいのでは? お城ファンの願望にすぎないのだけれども。



    2019-6-24








 
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2019年06月22日

「やどかり号」の九州一周


 老生が南下を断念して宮崎・延岡・土々呂から蒲江に入港した翌日に「やどかり」が入ってきました。大きなウネリに悩まされて避難してきたよし。それから悪天候が続き、彼らと4日に渡って宴会を愉しみました。やどかりは青島へ南下、小生は北上して臼杵へと別れる。 彼ら私とは違い、無事九州一周を成功させました。

 昨日に、我が家へキャンピンングカ−で「やどかり」オ−ナ−が訪れてくれる。 楽しいお酒を再びかわすことができた。その際に、彼らの寄港地を聞きましたので、ここに報告いたします。 GPSやWindyを手にした今のヨットマンには寄港地の情報が一番知りたいところです。

 やどかり  ヤマハ31Ex

 係留地は地図で赤星印で示しますが、飲みながらでしたので
間違いがあるかもしれません。

1. 大村湾ホ−ムポ−ト発
2. 佐世保 高島泊
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3. 福岡・能古島泊
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4. 福岡・門司泊
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5. 大分・豊後高田武田津泊
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6. 大分・臼杵泊
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7. 大分・蒲江泊
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8. 宮崎・門川泊
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9. 宮崎・青島泊
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10. 鹿児島・大泊泊
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11. 鹿児島・笠沙恵比寿泊
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12. 長崎・天草大江泊
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13 長崎・横瀬浦泊
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14. 長崎・大村着

   2019-6-22


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2019年06月19日

杵築城

 



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 守江湾・八坂川より見た都筑城・模擬天守



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 三方を川と海で囲まれた要害の都筑城



 北は高山川、東は守江湾。南は八坂川に囲まれた2つの台地に築かれた杵築城。 大友氏に属する木村頼直により築かれた。大友氏が秀吉により改易され木村続直も自刃し滅びた。 その後、前田玄以、秀吉の腹心だった宮部継潤、杉原長房、続いて慶長4年(1599年)には細川忠興の所領となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置いた。寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。その後、正保2年には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられ、その後明治維新まで居を構えた。

 譜代の能見松平家は、松平家の庶流を祖として三河の時代から徳川に仕える。長篠の戦いや大阪夏の陣で戦功を挙げた。家康6男の松平忠輝の付け家老となり改易になったが連座することなく、独立大名として取り立てられた。横須賀、出羽、摂津、豊後高田と転封を続け杵築に定着した。



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 都筑の漁港にヨットを係留し、そこから天守が望まれるので、目標として30分ほど歩いて城へ到着した。 天守(模擬)と上下台地にある武家屋敷がみることができる。こじんまりまとまっているが、それなりに風情がある町並みがある。5月の連休にお城祭りがあったようだが、当日は終わって後かたずけをしていた。


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  天守



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 北台武家屋敷



  2019-6-19
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2019年06月16日

2019年 九州周航



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救世主にえい航される


 昨日に家に2か月ぶりに帰りました。 昨年は長崎止まりで終えたため、今度は東回りでプランしました。
別府に入る時から、海藻ホンダワラがスクリュ−にからみつくことが多くなり。他のセ−ラ−に尋ねてみても、今年は異常にそれが多いとの意見です。1日おきに潜ってそれを取り除く作業を余儀なくされた。 最後はそれでエンジン出力が低下して港へ、えい航される事態に陥いる。そのため気力も失せ、おまけに悪天候で港に待機することも多くなり、延岡・土々呂で南下を断念して引き返した。

 廿日市に帰港して、次のホ−ムポ−ト岡山児島に向かう。そこへは3日で行けるところをあと1日の弓削でバケツ二〇杯のビルジがたまりました。冷却水ポンプの交換、児島に着いて、スタ−ンチュ−ブの交換と悪い事態が続き日数的にも費用的にも膨大な消費を被る。

 今年のクル−ズは失敗です。 しかし、九州や岡山の地元のヨットマンの方々に親切なお世話を受けたり、クル−ジング中のベテランヨットマンの貴重なアドヴァイスなどで無事に乗り切ることができました。

   皆様大変ありがとうございました。

 他のヨットマンへ今度はあなたがお返しをしてやってくださいと云われましたが、69歳で復帰した初心者みたいな終活セ−ラ−の老生には、何か持っているものがあるのかと自問するばかりです。
 日本にはヨットの世界ではこんな貴重な人間関係の世界が存在しています。60歳以下の人はほとんどヨットをやっていないので、この世界も絶滅していくのでしょう。
 クル−ジングの楽しみは景色・文化・人間と有りますが、今回はヨットマンのふれあいに堪能したクル−ズでした。これはありがたい体験でした。 日頃の行いの良いとは思われない小生にも救世主が現れましたし。

 2019年 所在・ 県・ 訪問など

4月16日 火 北本発 廿日市・ 広島
4月17日 水 整備 廿日市・ 広島
4月18日 木 岡山 児島視察 廿日市・ 広島・ ハロ−キテイ号
4月19日 金 マリ−ナ退出届け 廿日市・ 広島
4月20日 土 整備 廿日市・ 広島
4月21日 日 整備 廿日市・ 広島
4月22日 月  五日市メ−プルマリ−ナ ドック 五日市・ 広島
4月23日 火 ドック休み 五日市・ 広島・ 草津城
4月24日 水 ドック 五日市・ 広島
4月25日 木 ドック 五日市・ 広島
4月26日 金 ドック 五日市・ 広島
4月27日 土 ドック 五日市・ 広島
4月28日 日 整備 廿日市・ 広島
4月29日 月 整備 廿日市・ 広島
4月30日 火 整備 廿日市・ 広島
5月1日 水 廿日市発 上関・ 山口
5月2日 木 上関発 三机・ 愛媛
5月3日 金 三机発 マリンピアむさし・ 大分
5月4日 土 マリンピアむさし・ 大分
5月5日 日 むさし発 杵築・ 大分・ 杵築城
5月6日 月 杵築発 別府・ 大分
5月7日 火 別府・ 大分・ 日出城
5月8日 水 妻着 別府・ 大分
5月9日 木 別府・ 大分・ 鉄輪温泉
5月10日 金 別府発 臼杵・ 大分・ 臼杵城
5月11日 土 臼杵発 大入島・ 大分・ 佐伯城
5月12日 日 大入島発 土々呂・ 宮崎
5月13日 月 延岡 土々呂・ 宮崎
5月14日 火 延岡 土々呂・ 宮崎・ 延岡城、西郷陣屋
5月15日 水 延岡 土々呂・ 宮崎・ 高千穂
5月16日 木 妻帰着 土々呂発 蒲江・ 大分
5月17日 金 蒲江・ 大分
5月18日 土 蒲江・ 大分
5月19日 日 蒲江・ 大分
5月20日 月 蒲江・ 大分
5月21日 火 蒲江・ 大分
5月22日 水 蒲江発 臼杵・ 大分・ 臼杵城
5月23日 木 臼杵発 三机・ 愛媛
5月24日 金 三机発 上関・ 山口
5月25日 土 上関発 廿日市・ 広島
5月26日 日 廿日市・ 広島
5月27日 月 児島行 廿日市・ 広島
5月28日 火 廿日市・ 広島
5月29日 水 廿日市発 大三島・ 愛媛
5月30日 木 大三島発 弓削・ 愛媛
5月31日 金 部品待ち 弓削・ 愛媛
6月1日 土 部品待ち 弓削・ 愛媛
6月2日 日 部品待ち 弓削・ 愛媛
6月3日 月 部品注文 弓削・ 愛媛
6月4日 火 因島部品到着 冷却水ポンプ取換え 弓削・ 愛媛・ 因島
6月5日 水 弓削発 児島・ 岡山
6月6日 木 児島・ 岡山
6月7日 金 UW-1 マリ−ナ 児島・ 岡山
6月8日 土 マリ−ナ 児島・ 岡山
6月9日 日 マリ−ナ 児島・ 岡山
6月10日 月 マリ−ナ 部品注文 児島・ 岡山
6月11日 火 マリ−ナ 児島・ 岡山・ 備中松山城
6月12日 水 マリ−ナ 部品到着 児島・ 岡山
6月13日 木 マリ−ナ スタンチュ−ブ修理完了 児島・ 岡山
6月14日 金 児島・ 岡山
6月15日 土 児島発 自宅・ 埼玉

   2019年 6-16




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2019年01月25日

三浦按針・ウイリアム・アダムス

 

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 1564-1620

 ヨットで平戸を訪ねたときに三浦按針のお墓や宅跡があり。どうしてここに足跡があるのか不思議な気がしました。召し抱えられて三浦に領地をもらったことは知っていた。 彼はちょうど関ケ原の戦いの前に「漂着した」といわれるが、そうではなく、豊後を目指してズタズタになりながらも目的地に到着しました。
大阪で豊臣政権の大老をしていた家康と謁見して気に入られ、外交顧問として重用された。英国には妻と子供がいるのだが、日本人女性と結婚して長男と長女がいる。
帰国することもかなわずに平戸で亡くなった。なお按針は水先案内人の意味である。



   三浦按針 年表

1564 三浦按針ことウイリアム・アダムスはエリザベス女王の時代にケント地方の町、ジェリンガムに生まれた。
1576 12歳のころには、船長の資格をもつニコラス・デイギンズの見習いとして12年間過ごした。
1581 オランダ独立宣言
1588 その会社と海軍で働いた後、およそ11年から12年の間アフリカの地中海北岸との貿易船で働いた。
1598年 6月 5隻のオランダ船団の1隻の航海士として乗り組み東インドに向かう。
 アフリカのギニア沿岸に停泊する。壊血病が蔓延して指揮官や乗組員の相当数が死んだ。
1599年 4月初め マゼラン海峡まで達した。(注. 喜望峰周りではなく困難な航路を航海した)冬になっていたので航海が困難で越冬をおこなう。
  9月まで釘付けになり食料も尽き多くの仲間が飢えで死んだ。やっと海峡を抜けたが、船団は離れ離れになる。アダムスの乗ったリ−フデ号(エラスムス号)は仲間を待つために南緯38度チリ・モカ(Mocha)島に向かう。強風で錨を下ろすことができずに、サンタマリア島に変更した。そこで原住民の策略にかかり船長や弟のト−マス・アダムスや同僚を失う。錨を上げることさえ難しくなる人数になる。2−3日して僚船・ホープ号と会うことができた。彼らは同様にしてモカ島で20-30人の仲間を失っていた。このような状況であったが、スペイン人と交渉して必要な食糧を得た。アダムスの船では互選された船長のもとで協議し、積み荷の毛織物が売りさばくのがふさわしい地として、日本行が決定された。
1599年  11/29 日本に向けて出帆。数か月にわたって貿易風に恵まれた。北緯16度付近の島で8人が人食い人種の犠牲になる。北緯27度から28度で風向きの一定しない嵐に遭遇した。
1600年 2/24 僚船を見失う。
 3/24 ウナコロナ島が見えた。このころには這いずっても働けるものは9−10人であった。
 4/11日本が見えた。めざした豊後であった。動けるものは24人中5人にすぎない。出港時は110人。
 4/12 小型の船で日本人が乗り込んできた。1軒の家があてがわれて、食事も供せられ休むことができた。ポルトガル人が長崎よりやってきて、我々を海賊であり処刑を主張した。我々の事が家康に報告されて、ヤンヨ−ステンと2人が会見のため大阪に向かう。
 5/12に大阪に着く。家康に質問攻めにあい、交易目的で布教のためでないと理解を得る。カソリックとプロテスタントの対立も家康に述べる。
  41日間牢に入り釈放され船に戻る。 その間にリ−フデ号は大阪に曳航さ。積荷・備品などすべてはすべて持ち去られたが、家康が戻すよう命令した。
      5万レアル相当の食糧や必需品を支給される。 江戸に行くよう命令される。
      これから2年間船に戻ること禁止された。お米と生活費を支給される。
      江戸湾に係留されたリ−フデ号が沈没する。
1602    オランダ、東インド会社設立
1603    江戸幕府
1604    伊東で80トンの帆船を完成させる
1605    オランダ、ポルトガルよりモルッカ諸島を奪う
1607    120トンの帆船を完成させる。この船はアカプルコにスペイン人遭難者を送り日本へ戻る。
1609    オランダが平戸に商館設立
1611頃  250石の旗本となる。横須賀逸見に領地を得る。オランダ船ブラック号平戸に入港。オランダが日本と交易するのに貢献した。
1613    イギリス船クロ−ブ号が通商を求めて来航した際に、家康への謁見と朱印状の交付を助けた。
      家康、全国に禁教令
   9/1 イギリスとの通商許可がおりた。 オランダ商館の手伝いを辞めてイギリス商館に勤める。
1614 クロ−ブ号での帰国許可が日英より出たが、司令官と折り合わずに見送る。
1616 4月 家康死去、 秀忠が鎖国体制を敷いたため、不遇となる。
1619  オランダ、ジャワ島にバタヴィア市建設
1620  平戸で死亡


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 貿易風の風向     赤線は三浦按針の想定日本への航路

 
      2019-1-25


平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」


4/2(火) 11:05配信

長崎新聞より



 長崎県平戸市は1日、平戸市崎方公園内の「三浦按針(あんじん)墓地」で出土した人骨について、ヨーロッパ人男性と断定したことを明らかにした。平戸市は、徳川家康の外交顧問を務めた英国人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)の可能性が高いとみている。

 平戸市は2017年に墓地の発掘調査を実施。頭蓋骨など複数の骨片が入ったつぼが見つかり、山口県のNPO法人「人類学研究機構」に骨の鑑定を依頼していた。

 鑑定では、骨の残存状態が悪いため個人の特定に必要な核DNAの抽出を断念。母から子に受け継がれ祖先をたどることができるミトコンドリアDNAを分析した結果、日本人には見られず北・西ヨーロッパ人に多い「ハプロタイプH1」と呼ばれる塩基配列を確認した。

 このほか骨に含まれるコラーゲンを抽出し、炭素成分を年代測定。1590年から1620年に死亡した可能性が高いと分かった。按針は1620年に死去している。

 平戸市によると、1561年から1640年までに平戸で死亡した外国人は計約70人。このうち1590年から1620年に死亡したのは按針を含む英国人とオランダ人の計10人だった。

 平戸市は今後、墓地を再調査し、西洋風の長方形をした墓の遺構が残っていないか確認する方針。按針の子孫も捜しているが有力な情報は得られておらず、「今後も多くの研究者らの協力を得ながら調査を進めたい」としている。



 平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」 長崎新聞

  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190402-00000002-nagasaki-l42


   2019-4-2











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2019年01月01日

2019年 元旦


 今年もよいお年をお迎えください。

        速魚


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    2019-1-1
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2018年12月28日

大畠瀬戸 その2  貨物船と橋の衝突

  
 10月22日大畠瀬戸の瀬戸大橋でドイツ海運会社が所有する貨物船「エルナ・オルデンドルフ」マルタ船籍・船長インドネシア人・乗組員21名が橋桁に衝突した。送水管が破断して周防大島の全域で断水している。

 ここで大畠瀬戸で取り上げています。 ヨットで6回ほど通航しました、ここでは500トン程度の内航船と小型フェリ−と行き会うことがほとんどでした。

 かって鳴門海峡を今回のような中国の外航大型船が通航して事故を起こしたことを思い出しました。日本人船員には常識はずれの行動です。 

 日本人外航船員の絶滅した現在では、輸出入の船舶は船籍・船員・所有国が異なる便宜置籍が主力になっています。 おまけに水先法の規制もゆるいようで不慣れな外国人船長の判断で運航されている現状です。 今後も同様な事故は起こるでしょう。


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 赤線が事故船の推定航路
 
   
 ブリッジクリアランスという数値があります。プレジャ−ボ−ト・ヨットの世界でも背丈の高いものにはスペックシ−トに記載されています。大型カタマラン60f以上では70-80fのクリアランスのものがあります。この瀬戸大橋は31.9mの高さですので航行する際には注意が必要です。

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 事故を起こした貨物船 レダ−マストが後方に折れ曲がっている


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 切断され橋から垂れ下がった送水管


 ヨットで柳井へ向かう場合は山口県寄りに航行する。上関に向かう場合は周防大島・屋代島寄りを航行したほうが距離的に近い。


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大畠瀬戸の航法


    2018-12-28

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2018年11月01日

関門海峡と進路警戒船


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 初代「速魚」による通峡

 40年前に初めて関門海峡を通ってから4回目になります。しっかりと潮汐表を準備しての通峡でしたが、サイトで調べられる時代になったので、表なしで今回は通航しました。

 新門司マリ−ナを出て2時間余りで門司埼・関門大橋の近くに着きます。 そこでエンジンの音が変わったので潮に当たったのだと思いました。速度も1ノット落ちて4ノットになる。その後に池島で潜ってその原因がロ−プのスクリュ−への巻き込みだと、2週間も過ぎて判明します。余りスキルのあるヨットマンではないとバレてしまいました。

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 その時に門司埼の方向から真向かいの行き会い状況に作業艇らしきものと衝突の恐れが生じました。法令に従い舵を右に切り避航動作をとる。 相手船はそのまま接近してきて、左に寄るようスピカ−で怒鳴るように
指示される。その船は巨大船の関門海峡通航にまつわる進路警戒船であった。 彼の意図は、海峡の最も狭くて潮流の速い門司埼でのこちらのヨットと巨大船の接近を避けようとするものであったのでしょう。 指示どうり左に針路を向けて、こちらの意図しない門司埼にごく近くを通航するハメになりました。こんなに近くても門司埼を航行できるものだと思いましたが。

 警戒船が自分の意図どうりにしようと思うなら、真向かいの航法が適用されるこちらへの接近は避けるべきでしょう。ヨットに左へ舵をきらせて、右舷対右舷での通航をさせたいのでしたら、ヨットへは警戒船の右舷を見せてヨットに接近すべきである。なぜなら真向かいの航法では互いに右に舵をきるからです。

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 この警戒船ではないが、進路警戒船には赤の吹き流しを揚げているようである。

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 関門海峡 通常は右側航行であるが、100トン未満の船は門司埼に近寄って航行できる特例

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 真向かいの航法

 元船乗りで巨大船に乗ったこともあるので、舵効きが遅くサイズの大きい本船では瀬戸内海などでは、本当に進路警戒船はありがたいと実感したことがある身の上ですが、今度は指示をうける小型船に乗ってみると、適切な行動をとってもらいたいと思うものです。

  帰りにも再度逆から通峡しましたが、ブイ近くを航行していました、後ろから追い越される船にブイの岸よりの浅いところへ追い込まれそうになりヒヤ汗を掻くことになる。 峡水路の通航の際には潮止まりの時刻を狙うことが多いのですが、関門では連れの追い潮4ノットでも行けるようです。

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 下関からみた関門大橋

   2018-11-1


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