2019年09月06日

別府



 別府へは2度訪れました。すぐ近くに大型ス−パ−や安い温泉がありとても良い。 最初の入港の時には入り口が分かりにくいので注意が必要です。 2度目の時は入港間際にホンダワラに突っ込んでペラにそれが絡みました。 上架してもらうつもりでしたが、あいにく船底塗りの先客があり、同時には上げられないようです。 ハ−バ−で潜って海藻を取り除きました。

 ここは別府駅にも近く申し分はないのだけれど、2000円位で係留費が済むとよいのだが。 他のヨットマンに聞いてもワイフがまた連れていってくれとせがむようなところだと聞いています。おもしろい夜のクラブ、妻同伴ですが有ると言っています。 ハ−バ−近くに温泉も100−200円で入湯できるものがあります。

 鉄湯・かんのわ温泉に行ってきました。 バス便があります。ここにも安く入湯できる温泉が町のあちこちにあります。 地獄めぐりに行きました。各地獄で500円程の入場代を徴収するので興ざめです。入場料をとるせいか、関係のない余計な展示物も見せられます。 各地獄をまとめてもっと安くする方法を採ってもらえないものでしょうか? これではいずれ人気が無くなるのではないでしょうか。



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 別府北浜ヨットハーバー 人気があるので予約が必要でしょう




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 竹瓦温泉  200円



 

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 鉄湯のあちこちにある温泉 100−200円



 

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 鉄湯 むし湯温泉



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 地獄めぐりのひとつ


   2019-9-6


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2019年08月07日

これで正気に戻るか 女子ゴルフ報道



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  渋野日向子   いいねえ



 ゴルフは生まれてこの方、一度もやったことがありませんが、これからプレ−することもなく人生を終えるでしょう。 それでも流れてくるゴルフのニュ−スは耳にします。

 最近聞いたのでは、男子の石川遼さんが長いスランプから脱出してきたのには安心です。 というのは震災の時に石川さんは、獲得した賞金を2億円余り寄付してくれました。 あのタケシ、サンマ、タモリですら、震災時にそんな高額の寄付をしたとは聞いていません。 石川遼さんは、ありがたいけど、やりすぎではと思っていました。その後に石川さんはパットしなくなり心配をしておりましたので。

 男子ゴルフのことではなく、今日、渋野日向子さんが全英オ−プンで優勝しました。前日からの報道で笑顔のカワイイ人だと注目でした。
 試合でプレシャ−に負けることもなく、見事栄冠をとりました。 テニスの大阪さんのようにこの後がたいへんなのかもしれません。

 ここで言いたいことは、日本の女子ゴルフの報道も新しいスタ−の誕生で、改心して正気に戻ってくれることを期待します。 というのは、少し前のたいした成績でもない韓国美人女子プレ−ヤ−の報道、さらに古くは不動裕理さんが絶頂で活躍していた時の報道が特にひどかった。不動さんが毎回優勝しても、下位のカワイ子ちゃんプレ−ヤ−ばかり取り上げていた。それはむごいものでした。 ゴルフに関心の無い小生でも、当時はニュ−スを目にして、大いにこれは「ひどい」と感じていたことです。

 他のマスコミも感心しない今日この頃だが、さわやかな新しいスタ−の誕生で女子ゴルフ報道は断固変わってください。



   2019-8-5

  余談

 カミさんにPINGの意味はときかれました。 彼女の帽子にPINGと書いてあるのだそうです。 気が付きませんでした。 というのは30年ほど前に友人と地中海で「PING906」というヨットを所有していたからです。 中古のオランダ人家族が乗っていたヨットを購入して船名はそのまま継承しました。「海底2万マイル」から名前をつけたと聞いています。 今回は{ピン}と呼ぶそうですが私たちは{ピング}と呼んでいました。

  下記の地中海クル−ズをご覧ください
  http://hayame2.sakura.ne.jp/details1044.html#地中海クルーズ

   2019-8-7




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2019年08月03日

新島襄と快風丸



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 新島襄 1843-1890


 新島襄は安中藩士に生まれた。安中藩は備中松山藩の分家です。 新島は幕府の軍艦操練所で学んだことから、備中松山藩が購入した洋式帆船(スク−ナ−)快風丸の廻航を頼まれた。 その縁で、快風丸の函館行の運行があり、米国への密航の思いで乗船し、函館に行く。 藩の乗船許可が下りないのでわざわざ備中松山藩から安中藩へ願い出て許可をもらう。 函館でアメリカ密入国をさせてくれる船を捜す。坂本龍馬の親類の沼部琢磨などの協力を得て、米船ベルリン号にて上海に渡り、ワイルド・ロ−ヴァ−号に乗り換えてボストンに着いた。
 その船主であったA,ハ−デイ夫妻の援助を受ける。この当時の米国の慈善はすばらしい。彼だけではなく他の日本人が援助を受けた話は耳にします。
 アマ−スト大学では学士を取得。札幌農学校に来日するクラ−ク博士の授業を受講。そのきっかけで彼は来日することになったという。
 新島は岩倉使節団の通訳として参加。ヨ−ロッパに渡り教育制度の報告書を提出し、それが明治の学制改革に大きな影響を与えた。 宣教師となり日本に帰国。 大河ドラマ「八重の桜」では、学校設立のために講演を行い5000ドルの寄付を集めるシ−ンがある。ハ−デイ夫妻が演説原稿を読みこの内容では寄付は集められないと、事前にアメリカン・ボ−ドの有力者に寄付を頼んだ故であるという。日本へ来て同支社大学を建設するくだりは皆様ご覧になってよくお知りになっているでしょう。
 彼は因縁の有る快風丸で備中松山へ行き、伝道しています。その演説で女子教育に活躍する福西志計子に大きな影響を与えた。



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 快風丸

  快風丸諸元

 155トン、全長31.5m、全幅 6.8m、 ニュ−ヨ−ク建造「ゴ−ウルノルワラス」 1862年・文久2・9月 18,000ドルで購入


    2019-8-3




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2019年08月01日

福西志計子・ふくにししげこ



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 1848-1898



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 山田方谷像  王陽明の一節、至誠惻怛(しせいそくだつ)真心といたみ悲しむ心・慈愛の精神を説く




 女性尊皇攘夷志を取り上げることが多いのですが、福西志計子は山田方谷から薫陶を受けた人ですので、幕末に活躍した人ではない。 牛麓舎が隣家であったから、父を亡くした後、母親・飛天子(ひでこ)が方谷に寡婦の娘と侮られぬよう、学問を身につけてほしと頼みにいった。

 「人の一生には思いがけない悲劇が来るものです。現在は動乱の中であるから多くの人が戦乱で亡くなっています。先行きの不安の中で生きている。そのような悲劇に打ち勝って生き抜かねばなりません。夫が死ねば妻が一家を支える事態も起こる。そのために強固な意志と技能を身に着けておかねばならない。今の福西家ではそのような悲劇に直面している。私・母には一家を支える手立てがないため、やむを得ずあなたを実家に連れ帰り生活することになりました。あなたが成人したら家の再興しなければなりません・そのためには技能を身に着けて生き延びることです、先に読み書きを学習することです。隣家の山田方谷先生は百姓の身でありながら学問を身に着け、元締役になり藩政を改革なさりました。学問を身にるけることこそ不安な時代生き抜く確かな手立てです。あなたは女子だから武士になることはできませんが、技能を身につけるためにも、学習をしておくことが必要です」 志計子は男の子と一緒に当時としては珍しく学問に励んだという。

 山田方谷は明治10年に死亡した。陽明学徒は明治になってキリスト教に改宗した人が多い。 明治12年に高梁(たかはし)にキリスト教が伝わった。方谷がキリスト教に理解を示したという伝承があり、小生にはわからないけれど、陽明学にはキリスト教を理解することが容易であったのでしょう。

 福西は方谷門下で身に着けた儒学的素養を基礎にしてキリスト教を受け入れた。 方谷精神に接ぎ木されたキリスト教徒といえよう。方谷の「至誠惻怛」はキリスト教の「人類愛」と矛盾することなく融合していた。

 福西は明治5.6年ごろから女子の覚醒ということを云い。女子も男子も変わらない、教育が悪いのだから女子教育が大切だ。必ず生活が出来るだけは心得ておかねばならない。

 藩主の中に天草の乱で死亡したものがおり、藩内ではキリスト教には厳しくあたるものがいた。福西は町議会からキリスト教の伝導活動と教職の矛盾を問われて、職を辞すことになる。 何度も町民に押しかけられて迫害を受けたという。ほどなく支援者の大いなる援助を得て私立裁縫所を開設した。

 生徒数が増えて手狭になってきたので、新築趣意書が書かれた「ここ7.8年の女子教育の実態を見ると、西洋と東洋の社会の違いを無視して、いたずらに欧米人の方式を模倣したため、女子教育には弊害が現れている。それは社会にも家庭にも役に立たないものになっている。学問は公演を説くだけで現実から離れ。芸術は実際の役に立っていない。ことに徳育では日本の婦人が、古来の優美で貞淑が失われているから、これでは役に立たないばかりでなく、社会に害をもたらす恐れがある。このような状況であるからこの2,3年女子教育は大いに衰微している。然しながら女子教育はおろそかにしてはならない。学問によって知識を磨き、徳を修め、技術は身を立て家族を養うものであり、妻は良妻たるべく、母となっては賢母でなければならない。わが校はこれを実現している。」この間全国に女子高は建設されては消えているが創立以来13年以来順調に順正女学校は発展してきた。趣意書を作り校舎建設資金の寄付金の募集をした。

 福西女史の活動はすさまじいものであった。資金の目途が立ち新校舎が姿を現すころ過労がたたって病勢が進んだ。衰弱がすすみ医師は余命は長くないと診断する。福西は「神様は今まで自由に働くことができる健康を私にお与えくださったので、不十分ながら活動して曲がりなりにも学校の順が着きましたから、今からは祈るようにとこの病気をお与えくださったのだと思います。それゆえ感謝しております」と述べた。病魔と闘いながら讃美歌を歌い、聖書を読み祈りの中で神の意志を悟って従容自若、満面に笑みをたたえて昇天されたという。



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 倉田和四生著  吉備人出版刊



   福西志計子・順正女学校 略歴

1848・弘化4   備中松山藩士の長女として誕生

1852・嘉永4   父と死別、山田方谷に学ぶ

1861・文久元年  14-5歳で井上助五郎を婿養子にむかえる

1875・明治8   29歳、岡山裁縫伝習所に入学、翌年卒業、高梁小学校付属裁縫所教師となる

1879・明治12  キリスト教徒になり、新島襄らに薫陶を受ける

1880・明治13  木村静と共にキリスト教婦人会設立。信仰か職かを町議会に問われて両人は教員の職を辞す

1881・明治14  34歳、私設の裁縫所設立

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1882・明治15  高梁基督教会堂設立に伴い洗礼をうけて正式のキリスト教徒になる。

1884・明治17  郡集が教会に押しかけて礼拝を3度にわたって妨害、プロテスタント史上最大であったと云われる。

1885・明治18  裁縫所に文学科を設置して順正女学校として改組。これは全国9校のひとつ

1887・明治20 上京して、神田職業学校に学ぶ、洋服仕立て、西洋洗濯、毛糸編み物、造花などを勉強

1895・明治28 頼久寺町に新校舎完成、裁縫科1棟、文科1棟、翌年に寄宿舎完成

1908・明治41 伊賀町に新校舎、講堂、割烹教室

1898・明治31 52歳で死去

1912・明治45 順正高等女学校となる

1921・大正10 県立順正高等学校と改称

   2019-8-1


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2019年07月26日

九州東岸・豊後水道・日向灘 ヨット泊地

 
  杵築

 杵築漁港は漁船の数の割には広い漁港である。中央の泊地の堤防の内側に着岸した。 始めはアンカ−を打って槍付けのつもりであったが、アンカ−が効かない、とうとう舵に引っかける始末。スペ−スがあったので最初から横付けにすれば良かった。潜ってロ−プを外した。 錨の効かない原因は底質が海藻であったようだ。 着けた防波堤の外側にもスペ−スがあるが、海を覗いてみると背の高い昆布のような海藻が水面近くに見える。干潮でも着岸が難しいと思われる。 漁船は1隻も利用していない訳だ。東風の強風が吹いたけれど港内は平穏であった。避難港には良いと思われる。

 買い物もスタンドも不自由です、橋のある道路まで20−30分歩くことになる。 杵築城まで歩いたが、帰りはタクシ−を利用した。

 

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 杵築漁港



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  赤印に着岸





   日出港


 日出港には停泊していません。杵築でアンカ−が海藻の底質で効かずに潜るハメになったので、ここを忌避して別府に入りました。どっこいその入り口付近でホンダワラがペラにからみ別府でも潜らねばならなかった。

 JRで別府から陽谷駅で降り。日出城跡に行く。城下カレイで有名な漁港が麓にある。ヨット停泊にはスペ−スの問題があるようだ。その対岸に岸壁があり、ここならヨットを着けられそうです。 

 

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 日出港  赤印は予想停泊地

 

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 日出漁港と対岸の商業岸壁




   臼杵



  臼杵港の下図赤地点に着桟したが、管理している臼杵港運で尋ねたところ、その岸壁を利用する商船があるということで対岸の青地点へシフトした。 この岸壁は商業港によくある下の部分が凹んでいて、干潮時にはヨットのハルがそこへ入ってしまうマズイ岸壁であった。 おまけにウネリも入ってくる。 徹夜でのワッチを覚悟したが、地元のヨットマンが隣の漁港板知屋を勧めてくれてそこへ移動した。 まったく静かでぐっすり眠ることができた。 買い物など不便であるがオススメです。


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 青は岸壁シフトした位置



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 青色地点へシフトした岸壁   サイドアンカ-を入れる必要あり



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 板知屋漁港に舫う



   土々呂


   蒲江


     2019-7-26



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2019年07月24日

因島散歩

  


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  因島マップ


 因島は本四連絡橋・しまなみ海道のなかにある向島と生口島につながる島です。造船業が盛んな島でもある。 以前に因島水軍城へ行きました。今回は注文したヨットの部品の受け取りに弓削海の駅より因島へ行く。

 往きは弓削より因島土生まで今治発の連絡船に乗る。土生で下船して、弓削にはホ-ムセンタ−がないので因島モ−ルまでタクシ−で行く。そこで工具等を購入した。 ここより土生発三原行の別会社の船便があり、乗船して途中の重井で下船した。 ここから因島マリ−ナへは徒歩になる。途中の民家は独特な作りで左官のワザなのか土蔵風の塗りこめの窓が珍しくこの土地だけのものなのかと思われる。



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 重井の民家その1


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 重井の民家その2

 
 丘を越えて次の入り江まで歩くのだが、途中の丘上には除虫菊畑があるようで、その入り口の看板があった。因島ではキンチョ−の島なのであろうか。 丘を下ったところにコ−プの店があり、弁当と水を購入。島の中でこの種の店をみつけるのは珍しいので、それなりの人口があるのでしょう。 ほどなく青木城跡の案内板を見つけた。 すぐ近くに因島マリ−ナがあり部品を引き取り一刻も早くそれをエンジンに取りつけて出港したいので城跡へ行くのは断念した。


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 青木城跡 海抜50.6m


 重井まで来た道を帰り、土生までの乗船時間が長いので、バス便にして土生まで帰った。 島の常だが交通の乗り換え待ち時間が長く、今度は弓削の船便を待つ間に、船具屋に立ち寄りバルブ関連の用品を買う。 その向えにホテルがあり、そこは村上水軍の長崎城跡です。 ちょうど昼時でランチをやっていて2800円也とのこと。 部品代にお金が掛かったおり、分不相応と辞退しました。


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長崎城  海から眺める


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 長崎城

  海賊城は見張りが重要で、船舶の動静を常に監視する必要がある。従い、水道・水路の脇には城跡があることになる、今回は見ることができなかったが、荒神山城、島前城、山伏山城、天神山城など因島には多く城・砦があるようです。弓削に立ち寄った際には自転車で見て歩きたいと思っております。



    2019-7-24



 
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2019年07月21日

高梁散歩


 新幹線を岡山で途中下車してでも、寄りたいところ山田方谷と備中松山城の高梁(たかはし)へ行きました。 広島県から岡山県へヨット本拠地を移す。 さっそく、そこを訪ねた。 岡山駅から伯備線に乗り、JR高梁駅まで行く、東京から鎌倉へ行くような距離と感覚です。伯備線は1時間のうちで鈍行と特急それぞれ1本位の運行をしています。 帰りは特急を利用しました。

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 山田方谷像 至誠惻怛(しせいそくだつ)真心と慈愛の精神を説く、


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  特急やくも

  お城への乗合タクシ−出発まで少し時間があり、駅より高梁川の方向へ行く。郵便局で用を済ませて、橋のほうへ歩いた。 城下町らしく弓之町、鉄砲町の地名があった。名残を求めて探してみたが、落ち着いた街並みがあったのみ。 時間も無くなってきたので、駅に戻る。 タクシ−で城へいく途中に山田方谷の塾跡の看板を見つけた。帰りはそこで降ろしてもらい高梁のまちを散策する。

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  弓之町

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  山田方谷家塾跡  牛甍舎跡 隣家の寡婦になった娘(福西志計子)に学問を教えた


 方谷塾跡は藩主からこの地を受領したもの。隣家の主人が死亡したので、寡婦の娘とあなどられないように残った娘の教育を方谷は頼まれた。その娘は藩士の男たちに交じって方谷から教育を受け、長じて福西志計子として明治の女子教育にの草分けになる。 ここから坂道を少し下ると、平時は藩政をしたという御根小屋跡に着く。現在は県立高梁高校になっている。しかしここには福西女史が創立した女学校が転じたものである
という。

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 元御根小屋・県立高梁高等学校 福西志計子の順正高等女学校の伝統を受け継ぐ


 ほどなく武家屋敷群が見られる。旧新井家と旧植原家が見学できる。 籠入れの土間が珍しかった。山田方谷の資料も豊富である。1本下った道には商家屋敷群が通りに沿って見られる。 現在も魚屋で営業している店があった。

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 武家屋敷の町並み

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 商家の町並み

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 魚屋で営業中


 紺屋川に沿って登っていくと、河井継之助が宿した花屋跡があるが現在は郵便局で案内碑があるのみである。塵壺(平凡社刊)という河井継之助日記の本にはここの滞在の様子が書かれている。 すぐ近くの幼稚園は旧藩校有終館跡があり、今は子供たちのにぎやかな声で包まれている。ここでは方谷が40近くまで教えていたという。

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  花屋宿 案内板 河井継之助の滞在宿

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 武家宿 花屋跡 現在郵便局

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藩校 有終館跡 現在幼稚園  山田方谷が教えていた


 また、すぐ近くの角に高梁基督教会堂がある、木造による教会では日本で2番目に古い建物である。中を見せてもらうが、昨年の五島の教会群を見た身としては内部は質素な雰囲気である。五島の人々はここよりは貧しかったのであろうが、ステンドグラスや装飾には信仰の熱意が感じられた。

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 高梁基督教会堂  福西志計子が通う


 頼久寺の庭園を見て、郷土資料館に入ったが、ここは個人的に興味が薄かった。隣に山田方谷記念館があり500円の割には大いなる期待に応えてくれませんでした。 最近に出来たものらしい、方谷の資料はあちこちに散逸しているようで、他の見学場所でも見られます。集中してここへ持ってくる努力を期待いたします。

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 頼久寺 庭園 小堀遠州の作庭という


 駅に向かう途中に松連寺・薬師院があり、まるでお城の土塀のような風貌です。いざという時の防御拠点として機能したのでしょう。 ほどなく駅に到着して、特急「やくも」にて帰路につく。

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  薬師院・松連寺  応急の時には砦として使うつもりであったのか




 コンパクトにまとまった地域で散策しやすい。さくらの春や紅葉の秋にはさぞかし良いのではと思われます。下記地図・写真参照。


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  高梁散歩図  青線を歩行

     2019-7-21
































 








 



 
















     


 
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2019年07月19日

備中松山城 


 天守の残る唯一の山城、日本の現存10天守の一つである備中松山城に行く。JR高梁駅にある観光案内所で情報を得て、乗り合いタクシ−の手配をしてもらいました。 麓からも行けるでしょうが、健脚に自信のある方のみです。 時期によりますが、ふいご峠(8合目)までのバスもあります。 そこでタクシ−を下りて天守に向かう。 登りは思ったよりキツク休み休みで時間がかかった。2時間ぐらいの見学時間だったが、登り降りの帰りの時間も含むことから思いを残す状況になった。待ち合わせ時間が迫り急ぎ降りることになる。 じっくり見たいのなら車が便利ですが、利用できる時期があるようなので下調べが必要です。

 雲海に浮かぶ城でも有名ですが、城を望む隣の山から見ることになり、時期と行程は観光案内所で尋ねてください。また、案内所のある駅と一体にになった図書館は、洒落た建物で同じ設計者なのか宮崎県延岡駅でも似たものがあった。

 この城は鎌倉時代からの歴史があり、北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその 頂を中心に全域に及んでいます。

 現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430M)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二 重櫓、土塀の一部が現存している。

 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。

 この藩には山田方谷が有名です。彼の行った藩政改革は幕末までのモデルと言われている。司馬遼太郎「峠」の河井継之助は方谷から学ぶためにこの地を訪ね花屋に泊まった。 方谷は後に明治政府が行った殖産興業と軍制改革を先立って行う。 藩主は譜代の老中筆頭を勤めた板倉勝静であった。最後の将軍と共に大阪城より江戸へ船で逃げ帰ったほどである。 しかし、方谷は体面を保つ形で恭順をして、備中松山城を無血開城した。 また、函館にいた藩主を撤収させて謹慎させる。藩の存続を許された。



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 天主



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 本丸入り口



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 天守から見た本丸





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 重要文化財 2重櫓



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 復古図





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 新しい守将 本丸にいる 先の豪雨でここへ迷い込んだという



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 2の丸





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 野面積 城内で一番古い






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 御膳棚跡



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 4の平櫓跡





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 厩門跡





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 黒門跡



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 3の平櫓跡



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 足軽箱番所跡



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 重要文化財 3の平櫓土塀



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 NHK 真田丸で使用された風情



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 上太鼓丸





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 御根小屋復元図





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 御茶屋橋と高梁高校



   2019-7-19




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2019年07月17日

西国海道 草津まち散歩


 草津城を見て川沿いを南に下ると、西国街道沿いの町並み保存地区に至る。 草津湊は埋め立てられたせいか、痕跡は見られなかった。草津は古くは軍津(いくさつ)呼ばれていたようで、水軍の地として栄えた。

 明治天皇が休憩したという小泉酒造の小泉家、幸福稲荷、大釣井、西楽寺、福溝稲荷、西氏功徳碑などを見て回ることができます。



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 西国街道  草津まち地図  赤マ−クは写真あり

 

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 西氏功徳碑 広島藩の支藩三次藩の飛び地であったので西氏は三次藩医の家系であった。



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小泉家と記念碑 明治天皇と皇后が小泉家で休憩された記念碑



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小泉家 酒造



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 福溝稲荷と地蔵



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 大釣井 塩分少なく共同井戸



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 西楽寺



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 幸福稲荷大明神


2019-7-17




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2019年07月15日

草津城・安芸

 
 スマホのグ−グルマップを利用していると、城跡がよくのっています。それで草津城へ行ってみました。 瀬戸内海沿岸の地形は海岸近くまで200-300mの山がせり出していて、平地の部分は限られている。 そこで近代化が進むと、その土地は鉄道や道路用地が土地を寸断されてしまう。 この草津城も山陽線、広島電鉄、道路で分断された。すぐ高層のマンションも隣接している。

 草津城は麓にある草津湊(現在は埋め立て)を水軍の拠点として重きをなしていた。 城主は厳島神社、安芸武田、大内・陶、毛利と変遷した。毛利氏になって、水軍の将である児玉氏が治めた。大阪の本願寺に米を届けたのもこの児玉氏である。明治の児玉源太郎は子孫にあたる。 関ケ原以降は福島正則が受領して、ここに大門を作り、城を廃した。



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 草津城跡、 道路が迫る



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 山頂本丸跡にある城跡石碑と案内板



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 草津城登山口


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隣接するマンション



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南海側から草津城を望む

  2019-7-15





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