
オスマン帝国憲法
アジアで初の憲法制定はと問われると、大日本帝国憲法・1889年制定とかオスマン帝国のミドハド憲法と言われています。 トルコはEUに入れるの入れないとの議論されている。EUに入ればアジアとは云えないでしょう。 最近の動きは入れてくれないのならトルコ独自の動きをしますよ........となっていますね。
いずれにしろオスマントルコでは1876年にミドバト憲法を制定した。 制定当初は「基本法(カヌーヌ=エサーシー)」と言われ、のちにミドハド憲法と呼ばれるようになった。その主な内容は
全119条からなり、以下のような内容を含んでいた。
スルタン=カリフ制の明文化(第4条)
ムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等(第8条)
オスマン語(トルコ語)が公用語であること(第18条)
上下両院からなる議会の開設(第42条)
西洋式の法律に基づく裁判所とシャリーアに基づく裁判所の並立(第87条)
皇帝は戒厳令を発令し、危険人物を国外追放に処すことができる権利を持つこと(第113条)
1877年議会が招集された。しかし露土戦争の敗北により憲法は1877年に停止された。再び立憲君主制から専制政治になり1908年まで続いた。これは1906年に日露戦争に日本が勝利した。その影響を受けた青年将校の反乱により、憲法の復活をみた。
イスラム国のような鬼っ子がでてくるイスラムについては、まだ合点がいきません。 トルコの近代化が他のイスラムには影響を及ぼさなかったということでしょう。
明治の日本のようにオスマントルコは早く近代国家と認められてロシアなどの西欧列強と対抗しようとしていた同じ悩みの国であった。 それを見透かされてすぐにロシアが南下してきて露土戦争が起きる。すぐにこの憲法を停止して専制君主国に戻ってしまった。
トルコまとめ
2016-6-26、 2025-1-15更新
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