2020年12月02日

沼城、備前福岡城、、備前新庄山城


  豊臣秀吉は本能寺の変を知り、備中高松城の地で毛利と急遽和議を結んだ。ご存じのごとく、中国大返し」と言って意表を突くスピ−ドで大阪に進撃した。秀吉の大出世の始まりである。その時に最初に宿営した城が沼城・備前亀山城である。 小生はそこを見るべき沼城・備前亀山城を、そして備前福岡城、備前新庄山城を訪ねることにした。

 

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 赤穂線長船駅より 山陽本線上道駅まで



 それらはJR山陽本線と赤穂線の間の地にあるので、岡山駅にて先にホ−ムに来た赤穂線で長船まで行く。 そこから徒歩でまず、黒田官米兵衛の地で後の福岡の名前の由来となった備前福岡へ向かう。  ここは吉川の水運と山陽道の結節点であったので「市」が立ち中世以来にぎわったという。 訪ねてみるとそれを思わされる街並みが少し残っていた。



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 備前福岡の街並み



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 備前福岡郷土館

 備前郷土資料館を訪れたが休館で中へは入れなかった。 そこで備前福岡城の場所を訪ねる目的もあった。 というのは、備前福岡城を探しているうちにゴル場に迷い込んでしまって小生は見つけられなかったからだ。 ゴルフ場の事務所に戻りフロントで尋ねた。 福岡城はコ−スの端にあり周辺の道を歩かなければならない。かって事故でもあったのかケガをしても補償できないと言い渡された。 サッカ−グランドのあるところからその道を歩くことになる。



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 福岡城石碑

 備前福岡城は吉井川を西の守りとして湿地に立っていたので、川の氾濫で一時、廃城になったという。 
 1855年岡山藩は倹約令で被差別部落人々に対して渋染藍染を着ることの禁止を命じ、この差別に対して差別を受ける数千人が立ち上がり、ここに結集してそれを撤回させた。この一揆の石碑と説明版がここに有りそれも見た。



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 渋染一揆の石碑と説明板




 宇喜多直家は乙子城、備前新庄山城、沼城へと出世と供に上りつめて、一世代で備前・美作の領主となった戦国武将である。 新庄山城へは福岡城より邑上(ゆうじょう)橋を渡り徒歩30分くらいで着いた。砂川沿いの山城で標高127m、登山道が見つからずに地元の人に尋ねると1日がかりで挑戦しないと無理とのこと。 あきらめて、沼城へ砂川沿いに歩いて向かいました。 

乙子城主宇喜多直家が主君・浦上宗景の対立していたその兄に味方した砥石城を陥落させこの新庄山城をもらい受けた。



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 砂川と備前新庄山城

 直家は近くの沼城城主・中山信弘の娘と結婚し、舅・信弘を油断させて謀殺し沼城を与えられた。

 砂川沿いを歩いていくと20分ほどで沼城である。 現在は山陽新幹線が横を通る、トンネルを抜けてすぐのところである。



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 沼城 縄張り図

  本丸へは宗像神社の階段を上る。



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 本丸案内碑

 2の丸があったところは畑で面影はない、西の丸は小学校を含む土地である。



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 小学校と西の丸

 宇喜多直家は岡山城に移る1573年まで14年間ここですごした。 秀吉の中国大返しで3万の大軍がここに逗留したとは思えないほどのこじんまりした印象を受けた。けれど、大軍を順次の到着させたことでさばけたのであろうか? 
最近の説で秀吉が極めて短期に大阪へ繰り出せたのは、御座所という信長の休憩所の施設が整備されていたのがその理由だといいます。 御座所の所在を示すものは見つかられなかった。

一代で備前、美作を支配下に!戦国の「梟雄」宇喜多直家の恐るべき実像とは!?
【戦国こぼれ話】一代で備前、美作を支配下に!戦国の「梟雄」宇喜多直家の恐るべき実像とは!?(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース



  

    2020-12-2




posted by 終活・克ヨット at 10:01| Comment(0) | 日記
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