2019年01月25日

三浦按針・ウイリアム・アダムス

 

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 1564-1620

 ヨットで平戸を訪ねたときに三浦按針のお墓や宅跡があり。どうしてここに足跡があるのか不思議な気がしました。召し抱えられて三浦に領地をもらったことは知っていた。 彼はちょうど関ケ原の戦いの前に「漂着した」といわれるが、そうではなく、豊後を目指してズタズタになりながらも目的地に到着しました。
大阪で豊臣政権の大老をしていた家康と謁見して気に入られ、外交顧問として重用された。英国には妻と子供がいるのだが、日本人女性と結婚して長男と長女がいる。
帰国することもかなわずに平戸で亡くなった。なお按針は水先案内人の意味である。



   三浦按針 年表

1564 三浦按針ことウイリアム・アダムスはエリザベス女王の時代にケント地方の町、ジェリンガムに生まれた。
1576 12歳のころには、船長の資格をもつニコラス・デイギンズの見習いとして12年間過ごした。
1581 オランダ独立宣言
1588 その会社と海軍で働いた後、およそ11年から12年の間アフリカの地中海北岸との貿易船で働いた。
1598年 6月 5隻のオランダ船団の1隻の航海士として乗り組み東インドに向かう。
 アフリカのギニア沿岸に停泊する。壊血病が蔓延して指揮官や乗組員の相当数が死んだ。
1599年 4月初め マゼラン海峡まで達した。(注. 喜望峰周りではなく困難な航路を航海した)冬になっていたので航海が困難で越冬をおこなう。
  9月まで釘付けになり食料も尽き多くの仲間が飢えで死んだ。やっと海峡を抜けたが、船団は離れ離れになる。アダムスの乗ったリ−フデ号(エラスムス号)は仲間を待つために南緯38度チリ・モカ(Mocha)島に向かう。強風で錨を下ろすことができずに、サンタマリア島に変更した。そこで原住民の策略にかかり船長や弟のト−マス・アダムスや同僚を失う。錨を上げることさえ難しくなる人数になる。2−3日して僚船・ホープ号と会うことができた。彼らは同様にしてモカ島で20-30人の仲間を失っていた。このような状況であったが、スペイン人と交渉して必要な食糧を得た。アダムスの船では互選された船長のもとで協議し、積み荷の毛織物が売りさばくのがふさわしい地として、日本行が決定された。
1599年  11/29 日本に向けて出帆。数か月にわたって貿易風に恵まれた。北緯16度付近の島で8人が人食い人種の犠牲になる。北緯27度から28度で風向きの一定しない嵐に遭遇した。
1600年 2/24 僚船を見失う。
 3/24 ウナコロナ島が見えた。このころには這いずっても働けるものは9−10人であった。
 4/11日本が見えた。めざした豊後であった。動けるものは24人中5人にすぎない。出港時は110人。
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 ウイリアム・アダムスが上陸した黒島

 4/12 小型の船で日本人が乗り込んできた。1軒の家があてがわれて、食事も供せられ休むことができた。ポルトガル人が長崎よりやってきて、我々を海賊であり処刑を主張した。我々の事が家康に報告されて、ヤンヨ−ステンと2人が会見のため大阪に向かう。
 5/12に大阪に着く。家康に質問攻めにあい、交易目的で布教のためでないと理解を得る。カソリックとプロテスタントの対立も家康に述べる。
  41日間牢に入り釈放され船に戻る。 その間にリ−フデ号は大阪に曳航さ。積荷・備品などすべてはすべて持ち去られたが、家康が戻すよう命令した。
      5万レアル相当の食糧や必需品を支給される。 江戸に行くよう命令される。
      これから2年間船に戻ること禁止された。お米と生活費を支給される。
      江戸湾に係留されたリ−フデ号が沈没する。
1602    オランダ、東インド会社設立
1603    江戸幕府
1604    伊東で80トンの帆船を完成させる
1605    オランダ、ポルトガルよりモルッカ諸島を奪う
1607    120トンの帆船を完成させる。この船はアカプルコにスペイン人遭難者を送り日本へ戻る。
1609    オランダが平戸に商館設立
1611頃  250石の旗本となる。横須賀逸見に領地を得る。オランダ船ブラック号平戸に入港。オランダが日本と交易するのに貢献した。
1613    イギリス船クロ−ブ号が通商を求めて来航した際に、家康への謁見と朱印状の交付を助けた。
      家康、全国に禁教令
   9/1 イギリスとの通商許可がおりた。 オランダ商館の手伝いを辞めてイギリス商館に勤める。
1614 クロ−ブ号での帰国許可が日英より出たが、司令官と折り合わずに見送る。
1616 4月 家康死去、 秀忠が鎖国体制を敷いたため、不遇となる。
1619  オランダ、ジャワ島にバタヴィア市建設
1620  平戸で死亡


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 貿易風の風向     赤線は三浦按針の想定日本への航路

 
      2019-1-25


平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」


4/2(火) 11:05配信

長崎新聞より



 長崎県平戸市は1日、平戸市崎方公園内の「三浦按針(あんじん)墓地」で出土した人骨について、ヨーロッパ人男性と断定したことを明らかにした。平戸市は、徳川家康の外交顧問を務めた英国人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)の可能性が高いとみている。

 平戸市は2017年に墓地の発掘調査を実施。頭蓋骨など複数の骨片が入ったつぼが見つかり、山口県のNPO法人「人類学研究機構」に骨の鑑定を依頼していた。

 鑑定では、骨の残存状態が悪いため個人の特定に必要な核DNAの抽出を断念。母から子に受け継がれ祖先をたどることができるミトコンドリアDNAを分析した結果、日本人には見られず北・西ヨーロッパ人に多い「ハプロタイプH1」と呼ばれる塩基配列を確認した。

 このほか骨に含まれるコラーゲンを抽出し、炭素成分を年代測定。1590年から1620年に死亡した可能性が高いと分かった。按針は1620年に死去している。

 平戸市によると、1561年から1640年までに平戸で死亡した外国人は計約70人。このうち1590年から1620年に死亡したのは按針を含む英国人とオランダ人の計10人だった。

 平戸市は今後、墓地を再調査し、西洋風の長方形をした墓の遺構が残っていないか確認する方針。按針の子孫も捜しているが有力な情報は得られておらず、「今後も多くの研究者らの協力を得ながら調査を進めたい」としている。



 平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」 長崎新聞

  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190402-00000002-nagasaki-l42


   2019-4-2











posted by 終活・克ヨット at 04:45| Comment(0) | 日記
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