今度の九州クル−ズで住んでみたいなと思った街は、先に書いた平戸とこの長府の街です。下関は既知であっても長府はボイラーの名でしか知りませんでした。功山寺を訪ねるのに訪れましたが、落ち着いた街並みには魅力を感じます。

長府地図 下関駅からバス23分
長府藩は、1600年・関ケ原の役後に、毛利秀元が長府5万石に入府した。 現在は、高杉晋作の功山寺挙兵・回天義挙により「明治維新発祥の地」となったと街の入り口に記念碑を掲げている。 長府藩は長州藩の支藩であり、長府藩の支藩に清末藩・1万石がある。 維新後に豊浦藩,豊浦県を経て山口県に編入された。下関市の一部となっている。

維新発祥の地記念碑
成人するまで名古屋に育った小生であるが、尾張藩の支藩に高須藩があるとは最近まで知りませんでした。支藩の大事な使命の一つは親藩の血が絶えた時に養子を出すことで、高須藩も長府藩も何人も差し出しています。
坂本龍馬の護衛に三吉慎蔵が活躍しますが、彼は長州藩ではなく長府藩の侍であった。彼の墓は功山寺にある。

功山寺

忌宮神社



長府の町並み 写真3枚
藩校「敬業館」の他に長府藩の松下村塾というべき藩校「集童場」があった。集童場は15歳以下の少年で、身分の別なく人材を育成しようとした。福田扇馬が自宅で開いていた私塾・「桜柳亭」を母体に熊野則之が福田扇馬や福原和勝らとともに創設した。そこでは乃木神希典などを輩出した。

集童場設立の地

私塾 「桜柳亭」跡 福田扇馬による設立
主な長府藩の人物

三吉慎蔵 1831-1901 小坂家の次男として誕生、三吉家の養子となる。 印藤聿の紹介で龍馬を知る。長府藩報国隊軍監になり第2次長州征討に活躍する。宮内省御用掛として北白川家の家令となる。

三吉周亮(みよしかねすけ)1842-1903 家老三吉家に誕生、5卿を功山寺にかくまう。功山寺挙兵で切腹を命ぜられるが、加藤司書のとりなしで中止、龍馬の理解者、維新後県参事・権令を歴任。

熊野直介 1847-1868 熊野家長男として誕生、福田扇馬と集童場を開き場長、報国隊参謀、龍馬と知り合い、小倉口に戦い北越戦争長岡軍の逆襲により戦死。

印藤聿(いんどうのぼる)1831-1911 下村家の3男として誕生、印藤家の養子となる、報国隊軍監、龍馬と藩とのパイプ役、
維新後は製塩業を営み、衆議院議員となる。

乃木希典 1849-18 乃木家3男として誕生、報国隊で小倉口に戦う、西南の役歩兵連隊長、旅団長、台湾総督、第3軍司令、
妻と殉死。

右・福原和勝、左・山県有朋
福原和勝 1846-1877 村上家の3男として誕生、福原家に養子、報国隊結成を願い出る、初代軍監、小倉口で戦う、戊申戦争参戦、明治2年英国留学、陸軍教導団司令長官心得、西南戦争に別働第3旅団参謀、熊本で戦死。

福田扇馬 1846-1892 私塾「桜柳亭」を設立、龍馬の協力で若者を長崎に率いて英語を学ぶ。

瀧川辨三 たきがわべんぞう 1851-1925 集童場に入学、報国隊、北越戦争や会津戦争に参戦、マッチ製造会社を興し日本のマッチ王と呼ばれる。

服部潜蔵 1850-1886 江本家の次男として誕生、服部家の養子となる、集童場に学び、1867年第2次長州留学生として英国へ。
テムズ航海学校に入学、英国海軍見習士官となる。同郷の福原和勝が英国に留学しており英国から引き抜かれて官費留学生となる。岩倉使節団の渡英中の伊藤博文の説得により帰国、海軍に勤め海軍大佐。
2018-9-9
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