2018年08月31日

幕末・明治の殉教 「浦上四番崩れ」


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 幕末・明治キリシタン殉教地図、 頭が島,鯛の浦、久賀島牢屋の窄殉教会


 ヨットで上五島を訪ねた時に、明治になってからのキリスト教徒の弾圧の跡を目にし、その事実を聞き及んだ。 帰航して調べてみると、明治6年にやっと解禁になったのであった。

 明治政府は明治元年・1868年5月17日に大阪で御前会議を開き、幕府の禁教政策を受け継ぎ「キリスト教徒の流罪」を決定した。信徒は流刑先で棄教を迫り江戸時代と同様以上の厳しい拷問をした。

 明治元年、世界遺産の「頭ヶ島」教会のある地では、訪ねてみると極めて少数の人が住む地である、そこで戸主十数人が逮捕拷問されたという。 

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 頭が島教会 世界遺産

「久賀島」では世界遺産の「旧五輪教会」を訪れたのですが、その島では同年に、6坪の信徒囚獄に200名の信徒が収監された(畳1枚で17人)。棄教させるために拷問が行われ劣悪な環境により8か月余りで42人の殉教者をだした。アウシュビッツにある収容施設より狭いところに押し込められて、座ることも出来ずに、人の圧力で皆が持ち上がる状態で、垂れ流しのありさまであった。現在その地に「牢屋の窄殉教記念教会」がある。

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 旧五輪教会  世界遺産・重要文化財


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 牢屋の窄殉教記念教会(ろうやのさこじゅん)

明治3年には中通島・鯛の浦教会近く「鷹の巣」では池川郷士による信徒6人の斬殺事件が起こる。 その地は有川から鯛の浦教会へ行く手前にあった。

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 旧鯛の浦教会


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 鷹の巣(鯛の浦) キリシタン受難の碑 信徒六人が斬殺された

 「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。


 幕末・明治のキリシタン年表

1840(天保11) 浦上のキリシタン5人発覚。
1853(嘉永6) ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
1856(安政3) 浦上キリシタン80人発覚。
1858(安政5) 日米修好通商条約締結。
1865(慶応1) 大浦天主堂竣工。プチジャン神父と浦上の潜伏キリシタンが出会う(信徒発見)。
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 大浦天主堂・創建時
外海、出津海岸にプチジャン神父ら上陸し、潜伏キリシタンと出会いキリスト教復活。
1866(慶応2)
五島列島に74のキリシタン集落があった。長崎港外伊王島のキリシタン長崎から帰島する。帰島しなかった吉富卯太郎外12人、和歌山、松山、伊勢、岡山に配流。
1867(慶応3)
 今村地区の潜伏キリシタン、浦上の信徒深堀徳三郎らと交流。当時今村地区のキリシタン500人、今村近隣のキリシタン868人。 今村の弥吉、大浦天主堂に行き、教理を学び受洗。後今村の9人長崎で受洗。キリスト教復活。 五島、水の浦の帳方久三郎、長崎に行き、クーザン神父と会う。
1868(明治1)
5/17 「五榜の掲示」の第3条で再びキリスト教の禁止が確認される、御前会議で 信徒の流罪が決定、 以後明治3年まで信徒は捕縛され流罪となった。流刑先で旧幕以上の苛酷な拷問・私刑が行われた。(浦上4番崩れといい明治6年まで続く)

五島、水の浦のキリシタン農民32人投獄。 五島、久賀島のキリシタン農民200人逮捕。うち42人牢死。 伊王島のキリシタン21名佐賀に護送され入牢。五島、頭カ島の住民が十数人の戸主が全員逮捕され拷問。ド・ロ神父長崎に上陸。
1869(明治2)
浦上のキリシタン3400人余全国年各地に配流。
1870(明治3)
1/27 五島、鯛の浦の鷹の巣キリシタン6人惨殺される。
1871(明治4)
戸籍法改正。 宗門人別改を廃止。馬渡島のキリシタン宣教師と接触。トーマス勘兵衛受洗。
1873(明治6)
 切支丹宗禁制の高札撤去。 長崎、神ノ島の漁師、海路天草下島の大江に上陸、 キリスト教を説き、道田嘉吉外長崎にて受洗。キリスト教復活。 九州各地の切支丹宗禁制の高札撤去。 浦上キリシタン釈放される。(流罪3394名のうち662名死亡)

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 津和野に流されていた信徒の浦上天主堂での帰郷記念写真

 迂闊にも、これらの事実を五島に訪ねるまで知らなかった。私が浅学なだけでは無いと思うけれど、後世にはよく知られていない。 なぜ、幕府以上の苛酷な弾圧をしたのか分らない。その廃止も欧米に渡欧した新政府の要人が非難を浴びて、不平等条約の解消にためにならないと知った故であるという。廃仏毀釈も起こるので、尊皇は神道の精神であり、他を排する思想であった故なのでしょうか?


  2018-8-31




posted by 終活・克ヨット at 00:17| Comment(0) | 日記
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