2018年08月17日

平野国臣



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 1828-1864

 
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 福岡市西公園にある像


 大河ドラマの「西郷どん」で僧月照と入水自殺するシ−ンがありました。西郷を助けた人をこのテレビドラマでは描かれていない。同行していた平野国臣によって救助・救命されたのです。
 
 平野国臣は足軽の2男として生まれる。小金丸の養子に行く。江戸で国学漢学を学ぶ。水戸の会沢正志斎に触れ尚古主義になる。それゆえに大刀をさげて古風な烏帽子・直垂姿で街を歩く、これを見て皆笑ったという、これには養家も迷惑し、彼は離縁された。

 宗像大島でお由羅騒動により薩摩から逃亡して保護されていた斉彬の側近・北条右門(村山下総)と親交を持つ。北条を通して西郷隆盛と知り合う。 安政の大獄から逃亡していた僧月照を彼は北条より依頼されて鹿児島まで同行する。 その際、月照・西郷入水事件で西郷を救命した。 安政の大獄がさらに吹き荒れたので備中に隠れる。 白石正一郎邸に移り、彼は薩摩・水戸浪人と井伊直弼暗殺計画を話し合う。 平野は藩主に大老が暗殺されれば混乱するのでその準備の建白書を提出した。 桜田門外の変が起こり、藩は驚愕して事前に知っていた国臣の捕縛を命じる。 村田新八・有馬新七らの手引きで彼は薩摩に逃げるが、久光に嫌われて薩摩から退去させられた。 その後に肥後や天草へ逃れる。 久光の上洛に合わせて有馬新七ら急進派と彼は京に上る。 寺田屋事件が起こり、有馬は死に国臣は捕縛される。福岡藩に引き渡され牢獄に入る。 長州が尊攘派公卿と朝廷を牛耳ると彼は釈放された。 8.18の政変で長州が京から退去させられる。 それで彼は生野の変を計画した。失敗して京で獄舎に入る。 禁門の変が起き京の大火災が獄舎に及び、未決であったが斬首された。


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辞世の句 「憂国十年 東走西駆 成敗天有 魂魄歸地」


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「大君に ささげあまりし 我いのち いまこそすつる 時は来にけり」

 野村望東尼が彼の死をいたんで祠を作り石に歌を刻んだ。乙丑の獄で彼女は遠島になりウヤムヤニなったが後に見つかり平尾山荘に小詞がある。

 彼は志士であり文化人で歌人でもあった。時により良い歌を残している。


 現在お騒がせのボクシングの会長・日大の総長みたいな夜郎自大なタイプになっていたのか、維新まで生存すれば、平野国臣はそのように見える誤解を受けたのかもしれません。しかし、禁門の変・蛤御門の変で死んだ久坂玄瑞のように平野国臣も惜しい人を亡くしたものです。その後に起こる乙丑の獄があるが、そこでは彼が生き残れたかは難しい問題ですね。

 今回は西公園にある像を見たのみであるが、福岡にはまだ平野神社や生誕地などのゆかりの地もあるようだ。機会があったら訪ねてみたい。


    2018-8-17


posted by 終活・克ヨット at 00:12| Comment(0) | 日記
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