
中央は龍馬、右は伊藤助太夫、左は伊藤家使用人
坂本龍馬は脱藩後に白石正一郎邸を目指したといわれている。ここで白石のことはとりあげています。下関にはもう一人の豪商の龍馬支援者がいました。 龍馬が書いた手紙で現存している数では、乙女姉さんへの手紙が多いその次は伊藤助太夫である。
不覚にも小生は彼についての知識が欠けていて、下関にある白石ゆかりの地は訪ねた、赤間神社・阿弥陀寺へも行ったが、すぐ近くというより彼の広大な邸宅の中にその神社があるほどであるのに、伊藤関連の地へは行っていません。
彼は長府藩赤間関の大年寄である。本陣伊藤家の当主で、下関を代表する豪商です。龍馬とは慶応元年・1865にあって以来交友が深かった。彼が長府藩のお歴々と龍馬を繋げたという。
慶応3年・1867竜馬はお龍をつれて長崎より下関に来る。伊藤家の一室「自然堂」を借りて夫婦の部屋とした。妻のお龍さんはここで龍馬の死を三吉慎蔵から受けとった。
慶応3年・1867 9月20日、龍馬は久しぶりに伊藤家に泊まった。後年伊藤の妻がその時のことを語った。
「坂本さんは、普段は汚い風をしておって、顔つきも恐ろしい人だが、この間は顔もきれいに肥え、大変立派になっていらした。きっと死に花が咲いたのでしょう。間もなく(2か月弱)亡くなられた」

伊藤助太夫宅跡碑
龍馬の最後の4年年表 大竹仁一さんによる
http://www.gajoen.jp/ryoma_den.html
2018-8-11
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