2018年08月01日

平戸


 平戸はヨットで訪れたが住んでみたいと思わせるような街であった。

 平戸は観光バスでもヨットでも訪れると、徒歩で回れる素敵な観光地です。行政も電柱を地中化するなど景観に配慮をしていて、力を入れているのが感じられます。


hirado 14.jpg

 平戸は遣唐使や空海渡海の時代から日本の出入り口を担った歴史があります。 フランシスコ・ザビエルが平戸に来て布教をした。 来航記念教会がある。


hirado 09.jpg
 ザビエル記念教会

 ポルトガル人との宗教と貿易との諍いで、宮の前事件がおこり、ポルトガル船は横瀬浦に去る。 松浦鎮信が家康より6万3千石が安堵され、松浦藩が確立。 オランダとの国交が1609年にされ、平戸に商館を設置。 1641年に長崎出島に移転まで続く。 オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など遺構が残る。 吉田松陰が平戸を訪れた時に14−5隻の唐船を目にしたと記していることから、平戸において中国との交易は幕末まで続いた模様である。

hirado 10.jpg
 宮の前事件がこの先でおきたという 案内板あり


hirado 11.jpg
オランダ商館


hirado 12.jpg
 オランダ井戸跡


hirado 13.jpg
 オランダ塀


hirado 20.jpg
 オランダ商館倉庫跡  平戸川内町 平戸より バス10分


hirado 17.jpg
 英国商館跡の碑


 オランダ船リ−フデ号は豊後に漂着した。ウイリアム・アダムスこと三浦按針はその船の航海士で250石の旗本に取り立てられた、家康亡き後は不遇で平戸で死去した。


hirado 02.jpg
三浦按針の館跡  お菓子処 カスド−スで有名


hirado 04.jpg
三浦按針終焉の地


hirado 06.jpg
 三浦按針の墓


hirado 15.jpg
 松浦資料博物館 500円 陣屋跡


 山鹿流兵学の祖。山鹿素行の孫が平戸藩に仕えた。 吉田松陰は兵学師範の家を継いだために、修行のため平戸へ行く。 山鹿流軍学の家元へ入門する、彼は50日滞在したようであるが、陽明学の葉山左内の蔵書を読んで過ごしたという。松浦博物館には山鹿流陣立ての屏風が展示されていて興味深いものであった。


hirado 05.jpg
 吉田松陰宿泊紙屋跡



  2018-8-1

三浦按針
  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-550





posted by 終活・克ヨット at 04:38| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: