2018年07月18日

名護屋城


 名護屋は秀吉が尾張中村の出だから、名古屋と関係があるのかと思っていました。よく考えてみれば名古屋は、秀吉死後の関ケ原以降に家康が作った名古屋ですので、関係がないと分かる。 当時に尾張の中心は信長以来の清州だった。

  松浦水軍である波多氏一族・名護屋経述(つねのぶ)が領した垣添城がここにあったとされる。それゆえに名護屋城と命名されたのか。

 秀吉の朝鮮出兵の前線基地として、わずか5か月で築城された。大阪城に次ぐ城であったと云います。 地図を見るとこの位置が、朝鮮・対馬・壱岐・名護屋と一直線になる。朝鮮への出兵へ、この立地は好都合であった。 秀吉の死と共に廃城となる。わずか7年余であった。城の周りは諸大名の陣屋があり10万とも20万人が住んだといわれる。島原の乱のときに原城のように利用されるのを嫌い一層破壊された。 唐津城や仙台城に遺構が一部移されたという。

 この地がその後も開発利用されることがなく、長い間忘れさられていた。 幸いにも、最近よく目にする、本丸に野球場や役所・学校等が建つこともなく現在まで残る。城の遺構が櫓や天守は無いけれど、そのまま残った。 入り口には博物館があり、まずそこを見学するとよいでしょう。陣屋跡は時間が無くその詳細を見ることはできなかった。由緒ある広沢寺も行けませんでした。


nagoyazyo 02.jpg
 名護屋城博物館


nagoyazyo 13.png


nagoyazyo 04.jpg
 大手門


nagoyazyo 05.jpg
 本丸大手


nagoyazyo 09.jpg
 天守台


nagoyazyo 08.jpg
 天守柱石跡


nagoyazyo 11.jpg
 天守から望む


nagoyazyo 10.jpg
 遊撃丸


nagoyazyo 14.jpg
 馬場跡


nagoyazyo 12.jpg
 搦手口


nagoyazyo 06.jpg
 馬場櫓台


nagoyazyo 07.jpg
 2の丸長屋建物跡

ittyuunogoku 06.jpg
福岡 聖福寺 方丈  名護屋城から移築


nagoyazyo 03.jpg
 博物館の展示 安宅船


nagoyazyo 01.jpg
 丹羽長重陣屋跡

  2018-7-18


posted by 終活・克ヨット at 05:54| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: