ヨットで与島を再訪した。そこは今では瀬戸大橋で架橋され本四がつながっています。その橋げたのような小さな与島です。徒歩で一周する。「人名(にんみょう)」の石碑を見つけました。それを説明するものはありません。「人名」とは何でしょう。
与島人名の碑

塩飽列島 赤点は「人名政」のあった浦々

塩飽勤番所
塩飽諸島は本島、広島、与島、手島、佐柳島、高見島、牛島、櫃石島 、沙耶島、瀬居島などからなる。現在は埋め立てられて坂出の一部になっている島もある。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

年寄の墓
耕地面積は狭く米作は少数で麦作であった。 また、付近の漁業権も許されたが、漁業に従事するものは少なかった。 川村瑞賢の西回り航路(1672年)の開拓により塩飽衆は一手にその輸送を担い繁盛したが、「菜の花沖」の高田屋嘉平のような廻船問屋に押されて廻船業は衰退していった。しかし船大工の技術が優秀であったのでその後は大工業・船乗り渡世になっていく。優れた操船能力は維持されて、幕末には咸臨丸の船員の大半を占める。「人名政」は明治まで続いた。塩飽の島々は次第に忘れられて過疎の島になる。
テレビの鑑定番組で、旧家の倉庫に退蔵されていたものが、「若冲」の鶏の絵であったのが注目された。往時の繁栄がしのばれる。
2018-1-10
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