
西園寺公望 1849-1940、 仏留学中の写真
小生には18歳年上の友人がいて武漢ウイルスにやられて最近に友を亡くした。 彼は少年時代にド−リトルの東京空襲を実際に目撃している。歴史的な生き証人・少年であった、彼の時代は尋常小学校で教育勅語を諳んじていた時代である。彼にそのことを聞く機会は失った。
西園寺公望が明治の時に教育勅語の改正に望んだ歴史があったこと初めて知った。文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と言明していた。また「人民がすべて、平等の関係において、自他互に尊敬し、自から生存すると共に、他人を生存せしむることを教へねばならぬ」として、自由主義的な教育を施すべきと考えていた。
明治23年(1890年)には井上毅らが作った「教育勅語」に対して「あの教育勅語だけではもの足らない。もっとリベラルの方に向けて教育の方針を立つべき」と考え、明治天皇に奏上して「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ。この草案には「忠孝」や「愛国」といった語はなく、女子も含めた日本臣民が列国国民と対等に対応できるようにするというものであった。しかし西園寺が病気がちとなったこと、伊藤首相が教育勅語の尊厳性を侵す行為として難色を示したことによって、結局成案とならず、草案のみが残った.
【逆説の日本史】「改定」や「補正」では無く「追加」として構築された西園寺の「第二教育勅語」 https://www.news-postseven.com/archives/20221207_1819286.html?DETAIL
その改正に成功していれば、その後の日本の歴史は変わっていたであろう。西園寺については小生は歴史的な見方を改めることになる。彼は岩倉具視のような維新の功業に貢献した貴族もいたが、戊辰戦争ではお飾りのトップの公卿の一人の認識であった。
これから西園寺の公動を振り返る。成人した20歳の時には維新に参戦していたので現役に学んだ志士であったのであろう。その後10年も仏で学んだ。そこで普仏戦争やパリ・コンミュ−ンの時代を眼にしている。明治憲法成立のために伊藤博文の下で西欧で学ぶ。立憲君主の創生に尽くした。 彼は伊藤博文による立憲政友会に参画し後に総裁になる。桂太郎と桂園時代と称して交互に政権交代した。 衆議院における多数党の党首が首相となる、イギリス方式を導入してはどうかと提案している。 原敬を奏薦した。こうして原内閣が成立するが後に後任と期待した原は暗殺された。 最後の元老となる。 張作霖爆殺事件に対して断固とした処罰を勧告。 ロンドン軍縮会議を成立させるべきとの考え。 満州事変に処罰行う考え。 犬養毅内閣を成立させ憲政の常道を守る。 満州国の建設に反対。 国際連盟の脱退に反対する。 2.26事件の襲撃を免れた。
開戦前の1940年11月に亡くなるので、維新から太平洋戦争前までの長い期間を生き抜いた人生であったが、自身の意識とは別の道を歴史はたどることになってしまった。 他の道を往ける方法があったので、それを妨げたものに対しての検証が必要であろう。
西園寺公望 年表
1849 徳大寺公純の次男として誕生、2歳の時に西園寺の養子となる
1868 岩倉具視の推挙により参与となる。戊辰戦争で総督となり会津戦争などに転戦、
1869・明治2 「立命館」を創始、
1870・明治3 大村益次郎の推薦で仏へ留学のため出国
1871・明治4 仏到着、パリ・コンミュ−ンが成立
1877・明10 西南戦争
1880・明13 帰国
1881・明14 中江兆民らと東洋自由新報を創刊廃刊、国会開設のための参事院官補になる
1882・明15 憲法調査のために欧州歴訪の随員となる
1894・明27 文部大臣
1894・明27-1895・明28 日清戦争
1898・明31 再・文部大臣、 第2次教育勅語作成す実現せず
1900・明33 伊藤博文とともに立憲政友会立ち上げ
1903・明36 政友会総裁
1904-5・明37-38 日露戦争
1906・明39 第1次西園寺内閣 1908 総辞職
1911・明44 第2次西園寺内閣 明治天皇崩御
1912・大正元年 2個師団増設要求 総辞職
1913・大正2 元老会議に加わる 大正5 正式に元老となる
1918・大正7 原内閣 第1次大戦終結
1921・大正10 原敬暗殺 高橋是清内閣
1922・大正12 山県有朋病死 大正13 松方正義の死により 唯一の元老になる
1926・大正15 大正天皇崩御
1928・昭和3 張作霖爆殺事件
1930・昭和5 ロンドン軍縮会議 浜口雄幸狙撃され総辞職
1931・昭和6 満州事変 犬養毅内閣
1932 昭和7 5・15事件 犬養暗殺 血盟団事件
1936・昭和11 2・26事件
1937・昭和12 盧溝橋事件
1940・昭和15 日独伊三国同盟 11月 死亡
2025-4-27