
浜田謹吾の像
大村城・玖島城を訪ねた時に少年の像があった。浜田謹吾の像という。大村藩は幕末の勤皇藩であり。ここで渡辺昇とその家を訪ねてや大村37志士の墓などをとりあげている。その少年は戊辰の役で鼓手として秋田で戦死した。 この場内には浜田弥衛兵の碑もある。弥平衛兵は長崎代官の末次平像配下の朱印船の船長であり、ノイツ事件によりオランダの台湾支配に抵抗した。
タイオワン事件 (タイオワンじけん)、別名 ノイツ事件 とは、 1628年 (寛永 5年)に 長崎代官 の 末次平蔵 と オランダ領台湾 行政長官 ピーテル・ノイツ との間で起きた紛争。 台湾では 浜田弥兵衛 事件 (濱田彌兵衛事件)と呼ばれる。それで末次平蔵家が取り潰されて浜田の家は大村藩に仕えて幕末まで続き謹吾を残す。
末次平蔵は平戸出身の博多の豪商・末次興善の次男として生まれる。元亀2年(1571年)に長崎に移住。朱印船貿易で安南・シャムなどと貿易を行う。元和4年(1618年)に長崎代官の村山等安を訴え、翌元和5年(1619年)に等安が処刑されると、代わって長崎代官となる。キリシタンであったが禁教で仏教に転向し、キリシタン弾圧に手を貸す。政直はノイツ事件により1630年に幽閉・惨殺された。 平蔵の名は2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も名乗っている。1676年茂朝が抜け荷の罪により末次家は断絶。
江戸幕府は将軍の名による朱印状を発給することで朱印船に保護を与えていたため、多くの朱印船が東アジアの海上を活発に往来していた。その一方で同海域において、従来のスペインやポルトガルが保持してきた覇権を奪取しようと、新興のイギリス・オランダといった国々が艦船を投入し、互いにしのぎを削っていた。そこでオランダの1624年台湾占領が起きる。
個人的には朱印船貿易が続き幕府の方針とうまくいき、そのまま発展して近代を迎えたいと望むがそうはならなかった。東南アジアの日本人町に住む日本人が戦い、中南米の植民地のようなジェノサイトのような悲惨な植民を防いだと云えよう。
家康が望んだ交易方針が家光により鎖国に至った歴史を見てみよう。
「鎖国」完成までの歴史 ウイキより転載加筆
「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。
1612年(慶長17年)幕領に禁教令
1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定、家康による関東の西洋人居住許可を否定。家康の死
1617年(元和3年)堺において外国人の鉄砲等の武器購入が禁止。
1618年(元和4年)イギリス・オランダの輸入鉛購入先は幕府のみとなる。
1620年(元和6年)平山常陳事件。イギリス・オランダが協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。
1621年(元和7年)日本人のルソン渡航禁止。イギリス・オランダに対して武器・人員の搬出と近海の海賊行為禁止を命じる。
1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。オランダの台湾占領
1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
1633年(寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年(寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航および日本人の帰国を禁じた[13]。
1636年(寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
1637年(寛永14年)- 1638年(寛永15年)島原•天草の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助した。
1639年(寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[14]。
1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。
2025-4-7