2024年07月16日

松山 中島  ヨット泊地




nakasima map 10.jpg
中島、クダコ水道 航路図

  堀江海の駅は北東風が吹くと直接ウネリが港内に入るので、中島へ避難しました。 停泊の問題は避難港になっているということで問題ないようです。

 入港して左側へいくとポンツーンがあり地元のヨットも定係している。 このポンツーンの反対側に2隻ほどの係留余地がある。

スーパーもレンタサイクルもある。 ウネリも入らないようで荒天を避けるにはふさわしい。



nakasima 20.jpg
  赤丸は停泊地



nakasima 30.jpg
  赤矢印 係留地


  忽那海賊の城




    2024-7-16



posted by 終活・克ヨット at 07:44| Comment(0) | 日記

2024年07月14日

黒岩城、本山城、泰ノ山城、熊磯城、九多児城    忽那水軍の城

  



 松山堀江海の駅から次の荒天を避けるため予定外の中島へ行きました。ちょうど柑橘類の受粉の時期であったのか、島中にミカンのような匂いが漂って化粧水に浸っているような気分であった。

 城廻の気分が沸き起こり、レンタサイクルにて島の城跡を見てきました。そこは忽那水軍に関するお城であったようです。


nakosozyo map.jpg
 中島・忽那島 周辺の城


   黒岩城


 さすがに水軍城のひとつ、城跡から大浦湾が望め見晴らしがよい位置にある。 



kutunazyo 20.jpg
  黒岩城



kutunazyo 22.jpg
  案合板



kutunazyo 25.jpg
 中島・大浦港を望む


  



 本山城

中島・小浜の大串海岸に面した標高106mの本山山頂に築かれた城跡です。

文治3年(1187年)、忽那兼平が水軍活動の根拠地として、初めて築いた城である。  東は睦月島に相対し松山の北条を見通す、西は長師、神ノ浦を眼下にし、怒和島、津和地島や広島湾を見通す、南は興居島、伊予灘、九州航路を見通す位置であった。

豊臣秀吉の四国攻略で、天正13年(1585年)、小早川軍が来襲し、落城した。


nakasizazyo 20.jpg



 



nakasimazyo 21.jpg
 案内板

 麓の公園和気まで行ったが登り口も分からず、整備もされていないようなので諦めて引き返した。



kutuna map 10.jpg
 忽那水軍 マップ

 忽那氏五代の兼平は3代将軍の源実朝によって、地頭職に補任されて鎌倉幕府政所の水軍となる。文辞3・1187年幕府の命で忽那島・中島に二城・本山城・泰ノ山城を築いた。



   泰ノ山城 

 文治5年・1189年に築城。泰ノ山は高さ289mで付近の忽那七島を一望する。北に安芸灘越に安芸の島々を見、広島を見通す。伊予・周防・安芸をまたぎする瀬戸内水運の関となり、西瀬戸の制海権を掌握する位置になる。  南北朝時代には瀬戸内最強の水軍になる。

 今回は訪ねることが出来なかった。 忽那水軍は中島に荒天避難のために予定外の停泊をするまで、ノーマークであった。本も2冊手に入れたので読んで機会があれば再訪したいものです。



   熊磯城

 岬の鼻にある小島に熊磯城はあった。 干潮の時は繋がって渡れるようであるが、当時もこの小さな面積では小さな砦、否、見張り所のようなものであったろう。


nakasimazyo 30.jpg

  




  九多児城・クダコ


 クダコ水道は上関ー弓削島へのヨットで航行する時によく利用する航路です。潮流もあり速度が2ノットくらいしかでないときもあり。クダコ島にあるこの城は難攻の城であったでしょう。 カタカナ名ばかり知っていたので九多児という漢字だとは気が付きませんでした。 ここを訪ねるのもなかなか難しいと思います。


nakazimazyo 40.jpg
  案内板

 


nakazimazyo 50.jpg
 赤矢印 九多児城



     2024-7-14


posted by 終活・克ヨット at 12:12| Comment(0) | 日記

2024年07月12日

お遍路16 50番繁多寺、45番岩屋寺、44番大宝寺、51番石手寺、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、48番西林寺  49番浄土寺、




  ヨット仲間のUさんが長崎から松山へ会いに来てくれました。 44番と45番の札所は久万高原の山中にあるお寺ゆえに大変であると思われた。松山まで乗って来られた彼の車により、山道を乗せてもらって44番から51番までのお遍路を助けて頂いた。



matuyama 88map.jpg
 お遍路 松山図


  51番 石手寺


 神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。



51isitezi 15.jpg
  仁王門、 国宝




51 isitezi 35.jpg
  三重塔、  重文




51isitezi 20.jpg
  本殿、 重文

 


  50番 繁多寺・はんたじ

 天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したという。後に徳川将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。



50 hantazi 15.jpg
  山門



50 hantazi 20.jpg
  本堂



50 hantazi 30.jpg
  大師堂





  49番 浄土寺

 天平勝宝年間(749年 – 757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗したという。



49 zyoudozi 15.jpg
  仁王門





49 zyodozi 20.jpg
  本堂、  1482年創建  重文



49 zyodozi 30.jpg
  大師堂





  48番 西林寺

 伊予鉄道 横河原線 - 鷹ノ子駅 下車 (0.8 km)

 大同2年(807年)に空海(弘法大師)が巡錫の折、今の場所に寺を移されたと云われている。日照りに苦しむ里人のため、奥の院になっている杖の渕の清水を湧出させたとも云われている。



48 sairinzi 20.jpg
  本堂、  本尊は秘仏でみるこよができない



48 sairinzi 30.jpg
  大師堂





   47番 八坂寺


 大宝元年(701年)に、河野玉澄の兄である伊予の国司・越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。このとき8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれ、ますます栄える彌榮(八坂)にも由来している。一時荒廃するが、弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。



47yasakazi 15.jpg
  橋門



47 yasakazi 20.jpg
  本堂、  本尊の阿弥陀如来は50年に1度の開帳



47 yasakazi 30.jpg
  大師堂





    46番 浄瑠璃寺  

 大仏開眼を前にした和銅元年(708年)に布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基したという。その後、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興したと伝わる。



46 zyoururi 40.jpg
  案合板





46 zyoururi 20.jpg
  本堂、  本尊は、薬師如来です




   45番 岩屋寺


 弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたという。

 本堂横にはしごがかけられていて、岩の中腹に登ことができます。


45 iwayazi 19.jpg
  いかにも岩屋寺の風情,本堂,  本尊は、不動明王です。絶対秘仏




45 iwayazi 30.jpg
  大師堂



 


  44番 大宝寺 だいほうじ


 百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。文武天皇の勅命によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が来錫、この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。



44 daihouzi 15.jpg
  石段を登ると本堂



44 daihouzi.jpg
  大師堂



   2024-7-12

posted by 終活・克ヨット at 08:01| Comment(0) | 日記

2024年07月10日

お遍路15   53番園明寺、52番大山寺




  松山堀江海の駅に昼頃着く。夕方から東北寄りの風が強くなるのが予想された。ポンツーンにその風をまともに受ける側より反対側にシフトするのを怠ったため、翌朝までハルが岸壁に当たり大変な目に会う。 ここの港は北東側に防波堤が抜けているので、充分な注意が必要であった。 少しは承知していたが、ナメていたと云うしかない。




horie 10.jpg
 松山堀江 周辺図


 53番園明寺はJR和木駅より2−3分である。 堀江海の駅はJR堀江駅まで5−6分で行ける。 ここはガソリンスタンドが潰れたので、給油だけはとても不便である。



  53番 園明寺

 天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基が本尊阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を刻んで開基した。その後、この地を訪れた空海(弘法大師)が荒廃した伽藍を整備して再興する。



53 enmeizi 20.jpg
  本堂




54 enmeizi 25.jpg
  龍の彫刻、 左甚五郎作という




53rnmeizi 30.jpg
  大師堂




53enmeizi 35.jpg
 キリシタン灯籠、  云われは定かでない、譜代の松山藩も武士に隠れキリシタンがいたのであろうか





  52番  大山寺


  586年豊後臼杵の真野の長者というものが近くで海難し救助された。そのお礼に木組みを整えて再訪し、一夜にして建立したと云う(一夜建立の御堂の伝説)。その後、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。



52taizanzi 35.jpg
  四天王門(3の門)



52taizanzi 20.jpg
  本堂  国宝 1305年



52taizanzi 41.jpg
  鐘楼堂



    2024-7-10



 
posted by 終活・克ヨット at 08:28| Comment(0) | 日記

2024年07月08日

国分山城 ・唐子山城

  

前日に59番国分寺に行って来た。天候待ちで今治の停泊が延びたので、今回の巡航で封印していた城廻りを解き、国分山城に行く。

 今治からバスで国分寺下車そこから徒歩15分位で行ける。この地は古くは国分寺があった地なので栄えていたであろうと思われるが、今は今治へ移ったのであろう、それを感じさせる面影は見受けられない。

 国分山城は藤堂高虎が今治城の築城の際にここの資材を持ち去ったので、石垣などは確認できなかった。 


kokubunnyamazyo 05.jpg



 


kokubunyamazyo 20.jpg
 唐子山 105m





kokubunyamazyo 25.jpg
 遊歩道を登ると城跡へ




kokubunyamazyo 30.jpg
  山頂にある案内板



kokubunyamazyo 60.jpg
 otaketamaさんからお借りしました。詳しくは下記をごらんください

  http://otakeya.in.coocan.jp/ehime/imabarisi02.htm




kokubunnyamazyo 35.jpg
  山頂

主な城主は河野氏、小早川氏、福島正則、池田秀氏、小川祐忠、藤堂高虎




kokubunyamazyo 50.jpg
  村上武吉が居城していたと云うから、海賊城としての眺望は良い



     2024-7-8


posted by 終活・克ヨット at 07:25| Comment(0) | 日記

2024年07月06日

お遍路14  55番南光坊、54番延命寺、56番泰山寺、57番栄福寺、58番仙遊寺、59番国分寺





 今治海の駅に停泊して55番から59番札所までお遍路した。 55番南光坊は港から徒歩10分位でいくことができる。そこからはタクシーに手59番国分寺まで参詣することになった。



imabari 88map.jpg
  今治 お遍路図



 55番 南光坊

 今治市内の街中にある札所である。 寺と云わず坊とつくのはここだけである。というのは、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。



55nankoubou 20.jpg
  山門


55b.jpg
  本堂




  54番 延命寺


 聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)行基が不動明王を刻み現在地の北の近見山(標高243.5 m)の山頂に堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年 – 824年)には空海が嵯峨天皇の勅命によって再興した。 明治初年の神仏分離令で四国遍路は神社に参拝することがなくなったことから、本札所の大山祇神社を四国遍路として参拝することがなくなった。 53番54番と同名の札所が続く混乱を避けるため、当寺は通称の延命寺を寺号とした。





54ebneizi 20.jpg
  本堂



54enmeizi 30.jpg
  大師堂




   56番 泰山寺


 空海が川の氾濫を治めたという。地蔵菩薩像を刻み堂宇を建て本尊とした。



56taisanzu 20.jpg
 境内入り口、  城を思わせるたたずまい



56taizanzi 30.jpg
  本堂  本尊は地蔵菩薩



56taizanzi 40.jpg
  大師堂





   57番 栄福寺


 弘仁年間(810年 – 824年)巡錫に来た空海(弘法大師)が、嵯峨天皇の勅願により、瀬戸内海の風波海難の平易を祈って府頭山々頂で護摩供を修し、その満願の日に海はおさまり海上に阿弥陀如来が影向した。その尊像を山頂に引き上げ堂宇を建て本尊として開基したと云われている。



57eihukuzi 15.jpg
 




57eihukuzi 20.jpg
  本堂




  58番 仙遊寺



 天智天皇(在位661年 – 672年)の勅願によって伊予の大守越智守興(おちもりおき)が堂宇を建立した。本尊の千手観世音菩薩は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったという言い伝えがある。また、40年にわたって伽藍を整備した阿坊仙人という僧が当寺に暮らしていたが養老2年(718年)に雲と遊ぶかのように突然姿を消してしまったことが「仙遊寺」の由来になっているという。



58senyuzi20.jpg
 本堂





58senyuzi 30.jpg
 大師堂





   59番 伊予国分寺


 天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。

 今回のお遍路でもいくつかの同名の国分寺を訪ねることになる。各県すなわち徳島の15番、高知の29番、愛媛の59番そして香川の80番の国分寺を参詣することになった。




59iyokokubunzi 20.jpg
 本堂、 1789年に再建、 本尊は薬師如来で秘仏である



59iyokokubunzi 30.jpg
 大師堂



    2024-7-6


 
posted by 終活・克ヨット at 14:01| Comment(0) | 日記

2024年07月04日

伊予西条氷見 森家住宅  国有形文化財



  60番札所の横峰寺からの帰りに登山バスを降車して乗り継ぐ路線バスの時間が2時間余りあったので、JR氷見駅まで歩いて下山した。 途中で森家(住吉屋)を見ることが出来た。 内部まで見るみることができなかった。見学会は月1回であるという。 

 江戸時代末期(1841年)に建てられた大地主のお屋敷。 下記でお雛様や内部をごらんください。

       https://www.lovesaijo.com/education/sumiyoshiya202303/



 



morike 05.jpg
  案内標識


morike 10.jpg



 




morike 20.jpg
  玄関、他に門もある




 


morike 30.jpg
 門




     2024-7-4

posted by 終活・克ヨット at 09:03| Comment(0) | 日記

2024年07月02日

お遍路13 横峰寺登山バスにて 60番 横峰寺




60yokominezi.jpg

 

 JR伊予西条駅よりバスにて横峯山行きの登山客と同乗して、横峯登山口で下車、すぐ近くの横峯寺登山バスに乗り換える。 路肩の狭い山道を専用マイクロバスでいくことになる。自家用車でも行けるけれど、路の譲り合いで苦労するでしょう。

 帰りは路線バスの乗り換え時間が長く、JR氷見まで歩くことになった。下り路ゆえに1時間余りかかったが難儀というほどでもなかった。

 本堂の高さ745mは66番雲辺寺に次ぐものである。蔵王権現を本尊として、脳病にご利益があるという石仙菩薩像がある。



60yokomine 31.jpg
  路線バス




60yokomine 35.jpg
  登山マイクロバス





60yokomine 20.jpg
  本堂



     2024-7-2



posted by 終活・克ヨット at 09:06| Comment(0) | 日記