2021年06月28日

館林城 と 館林散歩

    
    

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  館林城と惣構


  徳川家康が関東に入府したとき、各地の要所に主要な家来を置き城と城下町を作らせ防備を固めた。その一つが榊原康政が築いた10万石の館林城と町である。1661年には家光の4男・綱吉が25万石でここに入封した。
そして彼は1680年に5代将軍になる。


  東部伊勢崎線の館林駅より友人に導かれてタクシ-で向井千秋記念館に向かった。 そこは天文台を思わせるような建物がある。 しかし、それからは想像できない館林城の本丸のあったところである。 城好きの老人にはこの建物は新地の大きな道路わきに立つべきものであると思われる。 そこと田山花袋記念館の間を抜けると土塁が見られる。八幡社がありその地は八幡郭の地である。本丸、八幡郭、南郭には堀で隔てられていたが現在はこの城の堀は多くは埋められていてその幅も現在の道路幅よりは大きくあったように見受けられた。

 

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   八幡社

 八幡郭には明治まで続いた秋元家(1836-1869)の別邸がある。明治期の建物らしく欧風な感じもして中を見ることはなかったけれど、趣深い建物である。



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 旧秋元別邸  八幡郭にあると思われる



 尾曳橋に続がる道路から尾曳稲荷の旗が見られたのでそこへ行く。 稲荷郭のあった位置である。 同じように本丸、稲荷郭、外郭は堀で隔てられていたが、現在は埋められている。



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 尾曳稲荷神社



 稲荷郭には旧モスリン事務所(第2資料館)や田山花袋旧宅など興味深い建物が見られた。



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 旧上毛モスリン事務所





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  旧田山花袋宅



 2の丸には館林市役所が建っている。 本丸との堀は埋められているが、大きな広場がある。同様に3の丸との間も埋められている。 3の丸にある第一資料館は図書館の中にあります。 展示物に城郭模型があり、それを見ると良くわかります。


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2の丸にある 市役所



 3の丸にある土橋門は復元されたもの。 この辺りには土塁などよく残っていて唯一城跡の風情が残っているところである。




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  土橋門


  土橋門を出て分かりにくいけれど敷石がひかれた道路があり、それが歴史の小路と呼ばれている。 そこを駅に向かって歩いた。  途中で田中正蔵記念館、武鷹館、長屋門、見番組合事務所,などを訪ねて館林駅に着いた。





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 田中正蔵K記念館  足尾鉱毒事件を戦う




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 武鷹館 旧館林藩士住宅   尾曳町から移転した中級武士の宅





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  長屋門  豪農松澤家から移築





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  見番組合事務所  芸者置屋組合事務所





  昼食は館林名物のうどんを食した。 午後は惣構えの中にある町人町を散策する。 江戸口から佐野口に至る日光脇往還を歩いた。立派な案内パンフレットがあるが、実際にあるいてみると見るべきものが見当たらず、期待倒れであった。 江戸口は単なる交差点で碑も無く地図で推測しないと分からなかった。ひたすら熱いなかで車の行きかう道路脇を歩く。これが本当の日光湧く往還・道路であるか。 佐野口は土塀と堀が分かり古図どうりであった。





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 江戸口




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 佐野口御門跡石碑





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  佐野口  あたりの土塁と堀



 市立第一中学の敷地の北西角で直角に土塀と堀は曲がっている。 校舎内であるので立ち入りはできないが、ここらあたりは良く残っている。



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 中学校の北西角



 中学を過ぎると間もなく堀が埋められていてたどれなくなった。 地方道前橋館林線の道路(古河往還で大手門へ繋がる)脇に太田口門跡石碑を見つけた。



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 太田口御門石碑



 愛宕神社、 感性寺、 覚応寺、 応声字とお寺の集まる地域を歩く。 応声寺ではお城から拝領した城鐘を見た。



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  愛宕神社





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 応声寺  鐘楼堂  城から払い下げられた鐘



  ほどなく、館林駅に着いた。 朝9時から昼食をはさんで午後3時までの館林散歩となった。

 館林の惣郭は湿地・沼地の台地上に作られていたのが分かった。 堀の外側は一段と下がっている。 歩いていて高低差に注意すると境目が分かるようである。

 外郭の北側の総郭にある加法師口、下戸張の城への門口は確かめられなかった。友人もここに住んでいるので、また、訪れよう。



     2021-6-28


posted by 終活・克ヨット at 14:01| Comment(0) | 日記

2021年06月25日

深谷城、庁鼻和城, 東方城, 皿沼城


  


  埼玉県・深谷にある4つの城をレンタサイクルにて見てきました。

 関東の戦国時代の覇権争いは小生には興味を持てないようで、 整理して出来てはいません。 上杉だれそれが新潟へ逃れたとか、川越夜戦の戦いで北条氏が勝ち、小田原攻めで秀吉が勝つまでの間北条氏が覇権を握った程度の知識です。 ここでは詳しくは述べまい。できない。


 山内上杉氏は深谷庁鼻和城を居城としていたが、上杉憲国の時代に深谷城に居城を移した。 1573年上杉憲盛のときに北条氏に属した。秀吉の小田征伐のときには深谷城主の氏憲は不在で深谷城を開城した。





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  深谷周辺城地図



  深谷城 



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 深谷城 想定図

 



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  深谷城跡公園



 深谷城は城跡公園の模擬塀がそれらしく感じられるが堀も埋められており、 かってを偲ぶものがない。 残念である。 訪れた時は中学生の写生の事業がおこなわれていて、あちこちに若い人の賑わいであふれていた。

 外堀の跡があるとのことだが、訪ねることはできなかった。





  庁鼻和城・こばなわじょう



 庁鼻和城は関東管領・山内上杉憲顕(のりあき)の6男である上杉蔵人憲英(のりふさ)により、新田義貞の子・新田義宗に対抗するために築かれた城です。山内上杉氏の分家・庁鼻和上杉氏(のちの深谷上杉氏)の居城として使われましたが、1456年(康正2年)、上杉憲房が深谷城を築いて本拠を移したことに伴い廃城となったと思われます。現在城址は憲英によって創建された国済寺の境内となっており、歴代当主の墓があります。入口には「庁鼻和城舊里之碑」と書かれた城址碑が建てられています。



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 国済寺にある案内板


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  土塁


 

   東方城・ひがしかたじょう


 東方城は深谷城を防衛する支城として、皿沼城や曲田城とともに深谷上杉氏によって築かれた城です。矢井伊勢守重家の弟、若狭守重任が城主をつとめたと伝わっています。1590年(天正18年)に徳川家康が関東に入封すると、戸田松平家の祖となる松平康長が一万石で入城しますが、1601年(慶長6年)に康長は白井藩に加増移封されたため、廃城となりました。現在城址には案内板が設置されているほか、土塁や空堀などの遺構が残っており、土塁跡近くには「史跡東方城塁跡」と書かれた標柱が建てられています。また近くの全久院に松平康長の五輪塔があります。



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  案内板

 

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  土塁


  国道263の脇にある。 城跡の一部は保育園になっていた。 子供たちのにぎやかな声が聞こえる。 土塁がぐるりと残っていたので歩いて廻ることができる。







  皿沼城・さらぬまじょう


 深谷上杉氏の家老深谷上杉氏の家老の一人岡谷加賀守香丹、清英父子の居城といわれています。延徳3年(1491年)古河公方との抗争に備えて築かれたと伝えられるという。

 訪れてみても城跡の案内板があるのみで、ここがそうなのかと思うばかりである。


 

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  皿沼城の案内板  石碑は放水路記念碑




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   2021-6-25
posted by 終活・克ヨット at 20:24| Comment(0) | 日記

2021年06月24日

砥石城 と 乙子城



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 砥石城へは岡山からJR赤穂線に乗り大富駅で下車して徒歩で30分ほどで行けた、標高100mの本丸へ上り、千町川に沿って高取山城の登山口まで歩き、そこで足が痛くなりタクシ−を呼び乙子城兵へ行き、帰りは再びタクシ−にて西大寺駅まで乗車した。

 タクシ−はグ−グルマップの音声検索で「近くのタクシ−」で電話して迎えに来てもらった。ヤットこの技を覚えた。しかし徒歩で歩けず年には勝てないのであろうか。



  砥石城


 徒歩での城廻は思わぬ場所にぶつかることが有る。 仁生田(荷蓋・にぶた)の攻防戦の地を見つけた。 宇喜多直家は浦上宗景に仕え戦功をあげて乙子城城をもらった。 1535年 砥石城主浮田山城守に謀反の様子があり宗景はこれ討つように命じた。 乙子城と砥石城の戦いは3年余りも続き、この地で合戦が行われたという。 直家は天神山勢とともについに砥石城を落とした。



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 仁生田(にぶた)合戦の地



 

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 千町川より砥石城を望む


 入り口から100m余りを歩くのだが、藪はないけれど石のゴツゴツし道になり、下りるときには滑りやすく適当な枯れ枝を使うことになった。

 

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 砥石城 入り口標識




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   砥石城  縄張り



 千町平野には備前国で栄えた西大寺や福岡の町がある。



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  本丸から見た千町平野



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  本丸







   高取山城

 1534年に砥石城主宇喜多能家(よしいえ)を高取山城主の島村豊後の上が夜襲で攻め滅ぼした。

 

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  高取山城 入り口


  今回は足のスネに痛みがきたので、入り口までで高取山城へ行くのは断念した。






  乙子城(おとご)


 吉井川河口部東岸、岡山市乙子にある。かつて児島は瀬戸内海に浮かぶ島であり、児島と岡山平野の間は、吉備穴海といわれる内海であった。

この内海は九州と畿内を結ぶパイプであり、源平の争乱の舞台にもなる重要な航路であった。乙子城は、この内海の東の入り口を押さえる拠点で

もあった。

 


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  戦国時代の乙子城 周辺図



 宇喜多直家は武功により宗景より新庄山城を与えられてここより移る。 そこから沼城、 岡山城と 大名に出世していく初めの城が乙子城である。





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  乙子城  登り口



 案内板に沿って登って行くと乙子神社に出る。神社にも案内板があり、進んでいくとお墓の中を登っていくようになる。

構わず進むと本丸へたどり着く。



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 乙子神社   2の丸だったともいわれる





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  本丸





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  乙子城 縄張りと古図



 帰りは吉川沿いの手すりと階段が整備されている道を下った。 こちら側が便利な世紀の進路のようだ。





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 この石垣は城に関係あるかどうかは不明





       2021-6-24
posted by 終活・克ヨット at 13:04| Comment(0) | 日記

2021年06月01日

新型コロナが本当にこわくなくなる

  

          松田学、井上正康さんらによる



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       方丈社刊





 自衛隊の広域と地元の申し込みサイトを何度も失敗してやっと地元サイトのワクチン予約ができました。 ヨット好きの小生は今年の春巡航の計画はまだすすんでいません。 緊急事態と蔓延防止の期間が6月半ばころまで3週間延長の動きです。  ワクチンを打つ打たないの議論がある中で、迷いながらも基礎疾患持ちの74歳としてはワクチンを打つことに決めました。 1000人に1-2人の感染で1000人ほどの死者の現況では、ワクチンの情報も偏りが見られるので、若い人にはじっくり様子見して最後の最後になってワクチン摂取を決めればよいと小生は考えています。 そのような訳で上記の本を読みました。
 テレビや新聞など日常的に接するマスコミは公正中立な報道には疑いがあります。ワクチンの是非を自分が判断する際にはYouTubeや書籍など違った意見にも目を通す必要があります。


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 毎日毎日感染者数が発表されて一喜一憂していますが、感染者数ではなくPCR陽性者数であるというのが真実です。 PCR検査の陽性は感染そのものを示すものではない。感染力のあるウイルスが検出されるのはPCR検査のCt値と呼ばれるサイクル数は20までとなっている。 (Ct値とは       )サイクル数の運用は20のニュ−ジ−ランド、30-35の台湾やスエ−デンです。40-45で運用しているのが英国、フランス、日本である。 35サイクル以上では感染力のないカケラばかりと云われる。 低いサイクルで運用している国が感染の抑え込みに成功している。
 PCR検査を感染症の診断に用いてはならない。この検査で見つけられた遺伝子のカケラ(陽性)はそれが感染力をもつウイルスのものであるかどうかは不明である。また、感染したからといって必ずしも発症するものではない。 無症状の人にはPCR検査を実施する必要はなく、症状が出たときにCT検査を行い肺炎の症状の時にPCR検査をすれば混乱がなくなる。

 日本は早い時期に集団免疫を獲得していた。 この時期になっても政府のコロナ対策を満足にしていないという世論調査が7割にも及ぶ。 昨年の春節前に中国からの入国者を止めればよいのに、入れてしまった。日本は運のよい国で先の原発事故の際にも幸運に恵まれたという。入国制限をしなかったゆえに新型の弱毒ウイルスに感染して、本来日本人が持っていた土着のコロナウイルスの免疫的基盤に加えてコロナ免疫力が強化された幸運になる。 その後入国してきた変異型強毒株に対処することができた。  まだファクタ−Xという欧米に比べて日本人が2ケタも被害が少ないことは研究中であるけれど。

 人類が初めて試す遺伝子ワクチンをこれから接種しようとしています。 英国やイスラエルのワクチン接種率の高いところでは劇的に患者数が抑えられていることは事実です。 日本でもこのままの接種率でいけばサザ波が凪になると云われています。 今後の事態は、人流の抑えや三蜜を避けること飲み屋の営業自粛が効果を上げることではなく、ワクチン次第であるといえましょう。

 しかし問題は今問題とされているアナフィラキシーショックや血栓の問題ではなくADE(抗体依存性感染増強)のリスクである。 ADEとは突然変異が激しいRNAウイルスの場合は、抗体と結合した変異ウイルスが白血球に取り込まれても分解されず、逆にウイルスが異常増殖してサイトカインスト−ムで、一気に重症化することです。新型コロナウイルスもRNAウイルスであることからADEが起こるリスクがある。 これをパンデミックで慌てて実用化した。 日本のような圧倒的に死者や重傷者が少ない国ではあえてリスクを冒す必要はない。 
生命保険はワクチン事故は補償しない模様、その代わりとして政府が保証するといっていますが。

 今回のコロナ騒動は、感染力が約6倍強くなった季節性ウイルスにより風邪を、世にも恐ろしい伝染病のようにメデイアが思い込ませたことによって引き起こされました。

追補


 日本の生命保険会社は今回のワクチン事故に関しての補償対象外とするということをウイキペデイアですが見つけられませんでした。


ごとう整形外科のサイトでワクチン事故を保証しないのではと述べています。

  https://karyukai.jp/column/3804

https://karyukai.jp/column/3822


日本の生保は補償するようです。 

      

       2021-6-2





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 松田学さんのYouTubeのチャンネルは松田さんと井上さんの動画が突然閉鎖された。その理由はAIによる検閲だったようだ。 松田さんが雑誌にプラットフォ−マ−が日本の言論を弾圧している。 それらのグロ−バルプラットフォ−マ−に対する国内法による規制の立法が必要であると松田さんの記事が雑誌に載った途端に、それゆえにAIより人によるチェックがなされたせいか、2か月余の閉鎖を解除されたと云う。 もうすでにAIで自由な言論を支配するデイストピアの世界に入りつつあるのか。

 政府の国内の緊急事態の適用云々を委員会にひっくり返されることがありました。 政府は決定を専門家に任せきっていた、又、医師会のポジショント−ク発言に振り回されている。 政府自身による政治判断がマスクを配ることなど笑止千万である。 政治が決断できない、責任を取りたくない。 後手後手に回りました。 政策決定がマスコミに誤誘導された庶民・老人による世論に惑わされる。  最近は高橋洋一さんによる事実による科学的判断を考えずに些末な表現を切り取り問題にするマスコミ。 松田さんによるとマスコミが作り上げた“コロナ脳”を捨てないと緊急事態から脱出ができない。

 MMPとは(マツダマナブプランの略)の詳細はこの本では書かれていませんが、日本の債務超過、過大な赤字国債を解消するプランであるらしい。 小生のような経済学の知識のないものには分からなさそうです。 行き詰まったかのように見える日本の財政経済運営にコペルニクス的転回でパラダイムシフトを起こす。 すばらしい形容詞がならんでいますが、小生には説明できません。 日銀保有国債を政府発行のデジタル円に順次変換してバランスシ−トを縮小させるプランだということのようです。

 新型コロナ・武漢風邪はスペイン風邪並みの強毒病原体ではなく感染力は強いが病原性は意外と低い季節性ウイルスであると分かってきた。これに対して国境封鎖、自粛,3密回避、8割減などがすべて無効であると世界的に証明された。 ウイルスに対して適度な暴露と軽度な感染をしながら、発症しても重症化しない免疫抵抗力を強化し続けることが大事である。

  小生が2人の著者の本をつたない要約をしたものですが、興味のある方はこの本をお読みください。


       2011-6-1


 

 ポルトガル政府、COVID-19の死亡統計を捏造との判決/裁判所:「政府発表は17,000件のところ、実際のCOVID死亡者は0.9%の152件/PCR検査の97%は偽陽性」

 昨年、ポルトガルの控訴裁判所は、PCR検査の信頼性は低く、PCR検査のみに基づいて人々を隔離することは違法であるとの判決を下した。

 裁判所は、PCR検査の信頼性は、使用したサイクル数と現在のウイルス量に依存すると述べています。Jaafarらの2020年を引用して、裁判所は次のように結論づけている。

 “35サイクル以上の閾値を使用したときにPCR検査で陽性と判定された人がいた場合(欧米のほとんどの検査機関でのルール)、当該人が感染している確率は3%未満であり、当該結果が偽陽性である確率は97%である。” としている。

 ドイツでは、訴訟問題で弁護士グループが入手した広範な電子メールのやりとりによると、ドイツ内務省が科学者を雇って、厳格な監禁を正当化するために偽のコロナウイルスモデルを開発させたことが明らかになっている。



   http://totalnewsjp.com/2021/06/29/covid19-79/



                  2021-6-29

 

 

 





posted by 終活・克ヨット at 03:11| Comment(0) | 日記