2021年05月28日

来島海峡の海難事故



 5月27日 2353 来島海峡西側で日本船籍・自動車専用船(11454トン)白虎号とマーシャル船籍・ケミカルタンカ−(2696トン)が衝突した。 3時間後に白虎は沈没した。日本人乗組員12名のうち3名が行方不明になっている。

 当時の潮流をしらべてみる。  潮流推算 海上保安庁ホームペ−ジ



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   潮流推算   (mlit.go.jp)  
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 来島海峡の航法で順中逆西の規定により神戸方面に向かう船舶は中水道を航行し下関方面へ向かう船舶は西水道航路を航行しなければならない。 報道では現況の詳細な記事はないので各船どのように航行していたかは不明です。
 1万トンの日本人の船長ならここの航法を間違えるはずはないので、西水道を航行していて衝突したものと思われる。 西水道は屈曲しているので少し見通しが悪い場所です。 相手船が外国人(韓国人)なら航法を間違えて西水道へ連れ潮で進入してくるのは大いにあることです。 日本船が相手船が中水道を航行するものとして急に右に舵を切って西水道に突っ込んできた場合には避けるチャンスが少ないものになる。 おまけに連れ潮で航行してきた相手船は舵効きが悪くなる傾向があります。


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 詳細な記事を待ちたいところです。

 数年ごとに事故がおきます。 いつも外国船がらみになります。 ここは外国船籍の総トン数1000トン以上の船舶には、強制水先区としてパイロットの乗船を強制する法律がが求められます。


    来島海峡  小生のブログより
 http://hayame.sblo.jp/article/177528669.html 

    貨物船沈没、船長ら3人が不明 現場は海上交通の難所
 貨物船沈没、船長ら3人が不明 現場は海上交通の難所 (msn.com)   朝日新聞


      2021-5-28


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2021年05月26日

杉山城 (初雁城)

  



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 赤線は橋





  東武東上線の武蔵嵐山駅より2kmを歩いて杉山城へ向かう。 年のせいか右足のかかとが痛むのでダマシだましの歩行であった。 近くの嵐山町役場まではバス便があるようです。 帰りはタクシ-で1300円ほどであった。 車の方は専用駐車場がある。

 この城の縄張りを頭に入れて見学するとしないとでは大いに違うので、事前に調べておくか大手口の出郭にある案内板にパンフレット常備してあるので手に入れると良い。 

 私は搦手口から攻めることになった。 山城では標高300mの山城へ行くのは大変であるが、今回の搦手登山口から搦手口まで行くのは大変ではなかった。この城は山城ではなくて平山城と考えてもいいように思う。 東の郭から攻める時も同様である。

 南の大手からの敵に備えるのが杉山城の防備の主力だと思う。 大手から本郭にたどり着くには、橋を渡り、食い違い虎口や横矢を十分に浴びながらの戦となる。 郭もいろいろ趣向を凝らして10余もあるが大手からの攻撃に備えているような縄張りである。  この城は複雑な構造の割にはコンパクトな大きさである。 500人ほどの守備勢力がふさわしい。 16世紀の後半のように万を超える攻撃陣との戦いだと、杉山城は長くは持ちこたえることが出来ないように思われる。 また、この大きさゆえに現在の城好きな人には1−2時間で見られるのでうれしいことである。 再びここへ来てみたい気持ちになりました。

 



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 杉山城 遠景






  搦手口から北3郭から北2郭、本郭北虎口へ




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 搦手口 登山入口





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 搦手口横土塁



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 北2郭虎口



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 本郭北虎口



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 本郭 城跡碑がある






  本郭東虎口より東2郭、東3郭へ




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 東2郭



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  東2郭虎口




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 東3郭虎口




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 東3郭を出ると平坦な土地へ出る。 この城の弱点と思える




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 東2郭より南2郭虎口受けに続がる帯郭



  出郭、大手口から外郭、馬出郭、南3郭、南2郭、井戸郭、本郭南虎口へ

 

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   赤線は木橋、 現在は架橋していない




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 出郭、から奥の大手口を望む




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 大手口




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 左は馬出郭から奥の南3郭の虎口を望む(坂道)




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 南3郭虎口




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  南2郭 食違い虎口




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 井戸郭より本格南井戸郭虎口へ、 木橋があったもよう




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 井戸郭の下部にある井戸跡のある帯郭




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 井戸跡 石の蓋がしてある




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 井戸跡帯郭と北2の郭より南に続く帯郭の間の竪堀、 右に高い本郭




  ここは山全体がひとりの持ち物であり、ここの見学に気持ちよく地主さんは協力してくれています。 行政とボランテイアの協力で立派に保守整備されていて皆様に感謝の気持ちが大きいです。
 

  この城の複雑な縄張りは戦国時代の教科書のようと評価されています。 それゆえに専門家の間では後北条氏のものではないかと言われて議論が起きています。 最近の研究成果で山内上杉家により作られた城と云われています。




  杉山城問題  古城跡探訪のサイトから

 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.turedure7.htm






     2021-5-26





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2021年05月23日

武城と三ツ木城

 




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 青線 城跡、   赤線  JR最寄り駅



 前回の加納城と菅谷北城に続き武城と三ツ木城へ行ってきました。この地域では他に石戸城や東松山城もご覧になれます。




    武城

  桶川市の川田谷付近はおそらく荒川(支流かも)が昔は流れていたと思われる川底とみられる地形がある。 大雨の時は冠水してそこを横断する道路は通行止めになる。本来の荒川はここより西に現存する。 その両岸は台地になっていて川下に向かって右岸にこの武城があります。  グーグルマップでは竹内美容室や鈴木医院が目標となります。 

 下写真のように右が美容室で左奥の木立の場所が武城になります。 標識はないので地図の位置で推定する。 大きな民家があり土塁と道路になった堀で囲まれている。本郭と思われるところには小さな神社があり、その南側にはぐるりと曲がった形の土塁があり。 民有地のようですので見かけたらお断りを入れる必要がある。




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 竹内美容室の横道を奥へと行く







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 左道が美容室に続く、 右道路が土塁と堀(道路)




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 土塁 ( 曲線を描く )




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 本郭と思われるところの神社






    三ツ木城

  かってここへ写真を撮りに行った記憶があるがブログに載せた覚えはない再訪である。

  ここへはJR桶川駅より川越行きのバスに乗り川田谷支所で下車。 三ツ木城は城山公園の南西側の一角にある。3角の台地の上にあり、南側は現在民家が立っており確認は不自由である。また、単郭であると言われるが公園外の土地でもあり整備もされていないので、周りから眺めるのみとなっている。 整備が望まれる。 二重の堀があったように見受けられるがはっきりとはしない。 誰が建てたのかも判明していない。 鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられている。




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 公園にある案内板




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 地図




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 全体図





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 二重堀






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 東側の堀跡と見られている





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 堀跡と土塁




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  南側より望む



      2021-5-23

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2021年05月22日

加納城と菅谷北城

   


 早めの梅雨空の中小雨にぬれながらも武城と三ツ木城を訪ねた。 自転車で行きましたがコミュニテイバスなども走っておりそれを利用されるがよいでしょう。 桶川、北上尾や上尾のJR駅から出ていると思います。 詳しくないので地元で尋ねてください。



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 赤字 JR駅   青字 城跡





    加納城



  加納城は高速圏央道桶川加納インタ−の北西近くに位置します。 入り口は分かりに道路から少し奥まった駐車場にあります。 下記の写真にある石の案内標識が目安です。
 住宅街の南側に位置して北側土塁が残る。 住宅開発で堀などは消失した模様です。 内郭には私的な神社があった。 隣にある家のもののように見受けられた。 ここの本郭は現在の所有関係は明らかでないが隣の家の土地かもしれません。 ここを案内標識があるので訪ねても損はないでしょう。 

 ジャニ−ズ系の俳優本木さんは桶川の出身と聞いていました。 ここは岩槻の太田氏に仕えた本木氏の居城であったと言われており、どこかで彼はここと血のつながりがあるかもしれませんね。



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 石の案内標識



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 案内板にある地図





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 案内板にある古写真




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 北側にある土塁





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 内郭にある神社(私的なもののようです)





   菅谷北城



  国道7号線近くの埼玉中央青果市場の横“べにばな道り”を菅谷交差点まで行く。その北東100m位に菅谷北城はある。喫茶店山小屋をめざす。
 ここには案内標識が立てられていないので、とくに分かりずらい。 土塁と思われるものを最初に撮ったが、近くの地元の人に尋ねるとそれは土塁ではなかった。 彼に本当の土塁と堀跡、本丸位置を教えてもらうことが出来た。 彼の子供の頃はまだ城跡の痕跡がはっきりしていたそうである。

 本丸跡は住宅が建っており何もありません。 グーグルマップ上の城跡位置は公民館の敷地を示しているが何もない。 アウトドアカフェから20-30m先の交差点道路脇までまで土塁が残っている。 昔はその前には堀跡があったそうである。

 観応の擾乱で足利尊氏にくみした春日八郎行元sこの地菅谷村を拝領してこの城を築いたという。





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 本丸跡




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 公民館  グーグルマップ上の城跡位置





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  土塁





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 北東角地にある土塁



 首都圏近郊の30万都市上尾市でもここらあたりはまだ、開発されていない防風林を兼ねた雑木林があちこちに見られてそこには館跡があっても不思議ではない気がする。それでもここは開発されて城跡は余り残っていないのである。




     2021-5-21




posted by 終活・克ヨット at 03:44| Comment(0) | 日記

2021年05月11日

村上武吉



  

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      講談社刊




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 能島海賊 村上武吉の海賊城

        


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 青字 能島海賊城、 赤字 来島海賊城、 紫字 因島海賊城


 村上武吉は宣教師のルイス・フロイスにより日本の海賊王と評された。その村上武吉が書いた兵法書(村上舟戦要法)が秋山真之によって日露戦争での日本海海戦に貢献した。また、日本の海運業の主要部分を占める愛媛船主、最近の巨大コンテナ船がスエズ運河座礁事故を起こした船主の今治造船など現在にも彼の遺伝子は大きく日本に影響を与えています。

 村上武吉は因島、来島、能島村上家の頭領というべき能島村上家に1533年に生まれた。能島騒動と言われる家督争いで敗れて九州の菊池家に避難して育つ。叔父の笠岡に拠点を持つ村上隆重の支援を受けて能島に帰り当主を奪還する。陶春賢と毛利元就の戦い・厳島の戦い(天文24年・1555年)では毛利に加勢したと言われています。

 
 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。 当時の陸地勢力を概観すると九州の大友氏、中国の大内氏・陶氏,安芸の毛利氏、山陰の尼子氏、備中備前の浦上氏、四国の河野氏、近畿三好氏と織田氏らの勢力の伸長に影響を受け村上武吉は挙動した。 彼の最盛期には東は塩飽列島の本島、西は上関や下関の赤間に関を設け本拠地の能島とその支城群で瀬戸内一帯を支配した。


 毛利元就が死去すると村上武吉は毛利氏から大友氏につく。毛利の小早川隆景が能島城を攻めた。来島や因島村上は小早川に従う。孤立した武吉は降伏して毛利家に組み込まれる。 武吉は毛利と織田が対立した第1次木津川の戦いに出て勝利したが第2次では敗れる。豊臣秀吉の中国攻めでは来島村上家が秀吉につく。それで武吉は対立した来島を占領する。しかし本能寺の変後に秀吉と毛利は和睦し、武吉はこれに加わらなかったので再び小早川に攻められて能島を明け渡す。1588年秀吉による「海賊停止令」に背いたと詰問された。安芸竹原(鎮海山城)や筑前に移る。小早川家が隆景から秀秋へ代わると筑前を離れて、再び竹原に戻る。 能島村上の家督を嫡男の元吉に譲り、元吉は文禄・慶長の役で朝鮮で戦う、関ケ原の戦いでは西軍で戦い元吉は死亡する。毛利は防長2か国に厳封され三田尻で船手衆を務める。1604年武吉は72歳で死去。

 秀吉の全国統一と「海賊停止令」により独自の海賊衆としては終わる。 海賊といってもこの武吉の時代までには船荷を襲うようなことは無かった。 武吉の時代には海賊へ警固料を払って海賊を乗せる「上乗り」と呼ばれるシステムがあり、襲われないことの他に潮流の複雑なこの海域を水先人のように航行の安全をはかっていた。 武吉は文化的素養も高く大山祇神社で催された連歌会での多数の連歌が残されている。

 個人的には3年ほどかかってヨット巡行で訪れた地や城が関連付けられて、村上武吉によりまとまってきたように思える。 また、新たに訪れたいところが増えたようだ。



 村上来島海賊

  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-9 

 村上水軍まとめ

  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html 

  甘崎城

  http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-221
 

 笠岡城

 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-675 

 本太城

 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-704 

 鹿島城と得意通幸

 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#鹿島城 

 新居浜大島と村上義弘

 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#新居浜大島 

 上関

 http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-329 



 毛利元就の調略

 http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-318 



  2021-5-11





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2021年05月06日

深谷散歩

     



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 青点は散歩行き先



  ゴ−ルデンウイ−クの谷間の4/30に渋沢栄一の故郷深谷を訪ねた。 JRの駅にしてはお金をかけている深谷駅に着くとすぐにホームから東京駅風の駅舎が眺められる。



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 JR深谷駅



 駅中にある観光案内所でレンタサイクルを貸しているところを訪ねる。 2か所あるようだが10時代では深谷シネマにあるところを紹介された。 徒歩5分くらいの場所で元映画館にある土産物屋で貸してくれた。 市役所の横を抜けて深谷城をめざす。  城跡公園になっている場所で模造の塀があるようであるが重みは感じられない。 中学生が公園のあちこちで写生を行っていた。





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 深谷城跡公園



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 埼玉県立深谷商業高校



 深谷上杉氏がここ深谷城へ移る前の城である庁鼻和城(こばなわじょう)へ行こう。 その途中で立ち寄ってみたいような深谷商業高校の校舎が見られた。 その城跡は現在は国斉寺になっており本殿裏に土塁が見られる。大手門と物見櫓の跡は見つけられなくて訪れていない。




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 国済寺にある案内標識



 次は東方城である。 263号線をサイクルして北上するが危うく通り過ぎそうになり戻る、少しは城跡の地形を見極める力が少しあった。 城跡の案内様式を見つける。 その横にある土塁に上る。 城域は保育園の一部らしくかすかに園児の元気な声が聞こえた。 土塁は続いており2m程度の幅残っていた。



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 土塁



 続いて皿沼城に向かう。 そこは標識だけで城跡の感じはしない。 明治になって煉瓦の粘土採取のために土塁などが利用されたという。



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 皿沼城の標識と借りたサイクル


 いよいよ尾高淳忠と渋沢栄一の生家を訪ねよう。  道案内はスマホのマップに頼っていた、まだ習熟していないらしく反対方向へ行ってしまう。そこで、作業中の市役所の人に尋ねる。 かなり時間を要して尾高惇忠の生家に着いた。  ボランテイアのガイドさんより30分ほど詳しい説明を受けた。 なぜ討幕の尊王攘夷の志士が彰義隊や振武隊に入り幕府を擁護する立場に変わったのか質問を用意していたが、先の人が長引いていたので、ガイドさんいに聞かずに立ち去るこになる。




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 尾高惇忠生家  無料

  渋沢栄一記念館と中の家は公園沿いの川に並んであった。 記念館ではアンドロイドとかいうロボットが展示されていて、本物のように動くのに驚かされた。





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 渋沢栄一記念館 無料



 尾高惇忠の生家と比べて渋沢栄一邸は一万両の取引があった農・商家であったので倉も大きくさすがに豪農・大名主の家という感じであった。 父親が傾いていて困ったこの家に養子に来て一代でここまでになったのはスゴイことです。



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 渋沢栄一生家 中の家(なかんち) 無料





 予定していた岡部城と岡部藩陣屋跡へは午後4時半までのサイクル返却に間に合わせるためにそこへ行くのは断念した。 欲張りすぎるプランであったとも言えるのでしょう。帰りは4時半の期限までに自転車を返すのに大急ぎでこいでしまった。 片方の太ももがツリそうになってしまう。


      2021-5-6








posted by 終活・克ヨット at 20:52| Comment(0) | 日記