2020年12月24日

黒山城・倉敷

 


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  黒山城付近図


本太城を訪ねてバスにて黒山城へ向かう。( 水島臨海鉄道の福井と浦田が最寄りの駅になる) いつものように城位置をグーグルmapを使用してスマホに表示して山道を登る。 携帯の山上アンテナ施設があるだけで城跡の気配はない。ふもとに降りて地元の人に尋ねた。 子供の頃にはそこで遊んだことがあるということで親切にも入り口まで案内してくれた。 
 胸まで届く高さのあるヤブを手で折り分けて進む。 とげのある蔓が混ざっているので時々ささって痛い。 木の生えていない日光が当たる場所がこのような植生になるようだ。搔き分けカキワケ40m位進んで木立になりブッシュを抜けた。


  ご注意!
 Googleマップで城跡までのル−トは点線で表示されるところ、主にふもとから山頂までであるが、単なるル−ト表示であり、山道・登山路を示しているのでないことに注意が必要です。




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 入口付近のブッシュ状態




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  縄張り図





 現在は倉敷市の街中にあるけれどもそこは海と湿地に囲まれた要害であった。 毛利氏と三村氏、宇喜多氏との戦いがあったようだ。 案内板もないのだが、それにしては土塁、堀、桝形虎口などよく残っていて、今秋の城廻では一番のものであった。




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 かって島であった児島の北西端にある黒山城。西の連島とは海峡があった。




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 堀







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 所々に多くのお地蔵さんが忘れられたように建っていた




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 お地蔵その2


      2020-12-24










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2020年12月16日

大原美術館

   
   


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 大原美術館は倉敷の美観地区にある。 それは倉敷の絹織・紡績で財を築いた大原孫三郎(1880-1943)が、自身の奨学金において養成して見出した洋画家・児島虎次郎に収集させた芸術品を展示したものである。
小生は高校のクラブで油絵のマネごとをしたことがあります。 その当時は、ミロのヴィ−ナスやモナリザなど世界の名品が日本の美術館へ、それが例え単品での出品であっても、当時の人々には稀有な機会で盛大な観客を集める時代であった。 また、親戚が海外旅行に行くのに飛行場へ父親が見送りにでかけることがあり、それを考えても、とても海外渡航に出かけることは稀有で縁遠い時代であった。また、成人になっても友人はシベリア鉄道経由で欧州に出かけたほどだ。
 教科書に載っている有名な作家の作品を直に見られない時代であり、 それゆえに大原美術館はあこがれの的であった……. 
 今回は実際に行く機会があり、大原美術館を見て大いに期待外れであった。 学生の時から半世紀以上も経てしまったので、海外旅行も高度成長期に急速に普及して、小生でもプラド美術館、ル−ブル美術館、大英博物館などは現地で見たことがある。 テレビでもウフィツィ美術館なども詳細に放映している時代になり、 毎年のようにルネッサンス時代の画家の単独企画展が催されるようになった。 これらの理由でその気持ちは、時代が急激に発展した時期があったがゆえに受容する側が変わってしまったからであろう。あくまで個人的な感想にすぎないのだけれど。 期待が裏切られたと感ずる個人がいたとしても、大原美術館が変化したわけではない。

  貧しかった時代に地方の一個人が私有財産を投じて蒐集してくれた美術作品を現在から判断するのは良くないことだと思う。 限られた予算で海外の一流作品を買うことは無理な話である。 我々は素直によくやってくれたものだと感心しなければなりますまい。 大原孫三郎さんはノブレスオブリ−ジな人だと思います。 孤児の救済や行員の福祉向上、病院の設立など業績もそれに値するものです。



  大原孫三郎の略歴


1880・明治13   倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の3男として誕生
1897・明治30  東京専門学校(早稲田大学)入学
1901・明治34  放蕩のすえ退学し倉敷へ、孤児の救済をしていた石井十次を知り社会福祉活動に興味を持つ。倉敷紡績入社
1902・明治35  工場内に尋常小学校設立、倉敷商行補習校設立、大原奨学会を開設。
1906・明治39  社長就任。 飯場制度を改める。社の利益数百億円をのほとんどを日露戦争で増えた孤児救済にあてる。
1914・大正3  大原奨農学研究所設立し農業の改善を図る、後に名産品となるマスカットや白桃を開発
1919・大正8  大原社会問題研究所設立。 マルクス経済学研究の中心となり、特高ににらまれる
1923・大正12  倉紡中央病院設立
1928・昭和3  幼稚園を作り市民に開放
1930・昭和5  大原美術館開館
1939・昭和14  引退
1943・昭和18  死去62歳

  ここに少数の作品をかかげておきます。 日本人の作品は充実したものがあるように感じます。




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 児島虎次郎 



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 岸田劉生

 

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  青木繁




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 モデイリア−ニ


 
 https://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3b04.html

     2020-12-16


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2020年12月11日

本太城(もとぶとじょう)

 

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 児島周辺図

 児島と云っても、それどこ?と聞かれる。 小生のような古い世代には児島の干拓の名前には義務教育で習った記憶があるので、その内容はとっくに忘れても児島は聞き覚えがある。 児島市と水島市は倉敷と合併して現在の児島は倉敷市の一部です。 瀬戸大橋の本土部分の接続地点でもある。
 児島は昔は島であった。本土とは藤戸の鳴門といわれる海峡で隔てられていた。 本太城は児島西岸にある本太岬の要害にあり、北に本太湊を備えた山城と海城の複合城郭であったという。
 永禄11年・1568にこの城で能島村上水軍の村上武吉の家臣島吉利(しまよりとし)・と讃岐の香西氏が争った。村上が勝ってこの城を奪う。しかし今度は三好氏の後援を受けた香西氏の反撃を受け大友氏の仲介で和睦した。能島村上氏は豊後の大友氏と組み反毛利となったので、小早川隆景により落城した。天正8年1580まで存在したがその後は不明である。


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 案内石碑

 Googl mapはまだ習得していないが、この時は成功した。 児島駅より倉敷行きの下電バスに乗った(2系統の倉敷行きがあるので水島に寄るバスに乗る)。 車内でスマホのマップで太本城をクリックして特定し、バスの運行にあわせて現在地の表示がその位置に接近したところで停車ボタンを押し下車した。 ほどなく案内の石碑を見つけた。


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 この武家屋敷風の建物の上の山が太本城

 一帯が公園になっており遊歩道を上がっていく。 本丸を囲む低石垣があった。


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 本丸を囲む石垣


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 山頂には天満宮がある。 この階段は利用しなかった。

 海側の崖を望むとすぐ近くに水島工業地帯の工場がある。操業している音がまじかに聞こえる。事故で爆発したら危ういなあと思いながら散策した。


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 水島の工場群


   2020-12-11


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2020年12月09日

讃岐広島(香川県丸亀市)




 香川県にある中部瀬戸内海の広島へ行きました。 ヨットで備讃瀬戸をよく航行したことがあるが、讃岐広島は比較的大きな島で沖から眺めるとビルもあり一度訪ねたいと思っていた。
ちなみに、発音は「ひろ↑しま↓」と発するようで広島県のは「ひろ→しま→」は平坦に発声するという。





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 丸亀沖の備讃広島



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 江の浦  赤丸は停泊位置



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 連絡船の反対側に係留



 讃岐広島は丸亀市に属するので丸亀より江の浦への連絡船がある。その反対側のフロ−テイング桟橋に今回はヨットを係留した。 1年ほど無駄に積み込んでいたフリ−パワ−の自転車をすぐに桟橋に降ろして島1周をもくろみ意気込んで、まず時計回りで東海岸へサイクルする。



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 広島案内図



 江戸時代の廻船問屋であった尾上邸を見た。 すぐに坂道が続くようであったので、早くも東岸よりにて島一周するための北上を断念して引き返すことになった。



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 城を思わせるような尾上邸



 南岸沿いに行く。 沖からからよく見えていた小中学校は10年前に廃校になっていて、どうりで校庭が静かな訳だ。 大きな島の割には人口が少なく450人ほどである。



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 元小中学校  現コミュニテイセンタ−



この島は青木石の採石で有名、あちこちに関連の施設が見られる。



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 青木石の採石場



 かって海技試験を受けてものにはなつかしい、試験によくでる問題には備讃瀬戸の航法がある。  海上交通安全法施行以前であったと思うが、「波節岩(はぶしいわ)を左舷にみて航行する」は必須の知識であった。 その岩礁と灯台が大島の南岸沖1kmにある。



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 波節岩 灯台



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 大島西岸からの風景




     2020-12-9



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2020年12月07日

プロペラ交換

  
 小生のヨットにはレース使用のゴリのフォ−ルデイングプロペラを装備しています。それはセーリング中でエンジン不使用の時には、折りたたんで水中抵抗を減じて船速を上げてくれるスグレモノです。 しかし、プロペラ効率が悪いのとアスタ−ン(バック)が効きにくいので、また、己の操縦ベタもあり、着岸作業に苦労していた。 わが艇は31fもあるにも関わらず、27fクラスのヨットに簡単に横を追い越されて不満に思っていた。

 2年ほど前に広島で上架した時、業者に3翼の固定プロペラに交換する概算を聞いたところ6万程で上架期間が少し長くなるとのことであった。 その後、係留地は岡山へ移った。そこで今秋にプロペラを交換することにした。 今春にはペラを2万円ほどの費用で取り外し、事前に計測をして秋の作業を効率よくするよう準備する。
 10月21日に上架し、ゴリプロペラとシャフトを取り外して新プロペラシャフトと新プロペラを注文。 10月30日にプロペラ交換作業終了。10月31日下架。そのため要した上下架期間は11日で、作業日数は1.5日であった。途中2日ほどで船艇塗料の1回塗りを終えたので、部品到着待ちの日数7日は幸いにもGoToキャンペ−ンを利用して岡山周辺を観光することになった。 上架中はホテル泊になりその費用も大変であったが。今回は35%引きになり助かりました。
 問題は費用が予定よりかかり過ぎたことで、宿泊代を除いても22万程要した。 シャフトやカットレベアリング2個などプロペラ以外にかかったこともある。 最初からこの費用がかかると分かっていたら、今までのバックの効きが悪い、速度が出ないのをガマンしたかもしれない。 今回のペラ交換の成果による速度上昇は0.5ノット程度であった。

 今後の反省点をまとめると
1.  事前の計測がその後の部品注文や作業日数の軽減に役立たず無駄に終わった
2.  費用の見積もり概算をはっきりとさせておくべきであった。
3.  上架中は宿泊代がかかるので、日程管理も大事である。


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 交換前のゴリ フォ−ルデイングプロペラ


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 交換後の3翼固定プロペラ


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 左から 樹脂製軸中間新カットレスベアリング、 スタフィンボックス内のカットレスベアリング樹脂製とゴム付き樹脂製


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 樹脂製 軸中間カットレスベアリングの抜出作業  ボルトナット4本で慎重におこなう


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 新しいステンレスプロペラシャフト(25mm)と交換した真鍮プロペラシャフト

 先のオ−ナ−は良くしてくれていて。今回も交換作業をやってあげる申し出があったが、その際にはプロペラの交換だけでかなり安価に出来たであろう。しかし、余り甘えるのもできずに業者に頼んだ次第である。 業者は良い人で昼も食べずに専念してくれました。 すべての結果にはオ−ナ−が負うべきものであるのでしょう。

 尚、交換したフォールデイングペラヤシャフトは船内に保管しています。もし次のオ−ナ−が必要としたときのために。
 

     2020-12-7

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2020年12月02日

沼城、備前福岡城、、備前新庄山城


  豊臣秀吉は本能寺の変を知り、備中高松城の地で毛利と急遽和議を結んだ。ご存じのごとく、中国大返し」と言って意表を突くスピ−ドで大阪に進撃した。秀吉の大出世の始まりである。その時に最初に宿営した城が沼城・備前亀山城である。 小生はそこを見るべき沼城・備前亀山城を、そして備前福岡城、備前新庄山城を訪ねることにした。

 

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 赤穂線長船駅より 山陽本線上道駅まで



 それらはJR山陽本線と赤穂線の間の地にあるので、岡山駅にて先にホ−ムに来た赤穂線で長船まで行く。 そこから徒歩でまず、黒田官米兵衛の地で後の福岡の名前の由来となった備前福岡へ向かう。  ここは吉川の水運と山陽道の結節点であったので「市」が立ち中世以来にぎわったという。 訪ねてみるとそれを思わされる街並みが少し残っていた。



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 備前福岡の街並み



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 備前福岡郷土館

 備前郷土資料館を訪れたが休館で中へは入れなかった。 そこで備前福岡城の場所を訪ねる目的もあった。 というのは、備前福岡城を探しているうちにゴル場に迷い込んでしまって小生は見つけられなかったからだ。 ゴルフ場の事務所に戻りフロントで尋ねた。 福岡城はコ−スの端にあり周辺の道を歩かなければならない。かって事故でもあったのかケガをしても補償できないと言い渡された。 サッカ−グランドのあるところからその道を歩くことになる。



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 福岡城石碑

 備前福岡城は吉井川を西の守りとして湿地に立っていたので、川の氾濫で一時、廃城になったという。 
 1855年岡山藩は倹約令で被差別部落人々に対して渋染藍染を着ることの禁止を命じ、この差別に対して差別を受ける数千人が立ち上がり、ここに結集してそれを撤回させた。この一揆の石碑と説明版がここに有りそれも見た。



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 渋染一揆の石碑と説明板




 宇喜多直家は乙子城、備前新庄山城、沼城へと出世と供に上りつめて、一世代で備前・美作の領主となった戦国武将である。 新庄山城へは福岡城より邑上(ゆうじょう)橋を渡り徒歩30分くらいで着いた。砂川沿いの山城で標高127m、登山道が見つからずに地元の人に尋ねると1日がかりで挑戦しないと無理とのこと。 あきらめて、沼城へ砂川沿いに歩いて向かいました。 

乙子城主宇喜多直家が主君・浦上宗景の対立していたその兄に味方した砥石城を陥落させこの新庄山城をもらい受けた。



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 砂川と備前新庄山城

 直家は近くの沼城城主・中山信弘の娘と結婚し、舅・信弘を油断させて謀殺し沼城を与えられた。

 砂川沿いを歩いていくと20分ほどで沼城である。 現在は山陽新幹線が横を通る、トンネルを抜けてすぐのところである。



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 沼城 縄張り図

  本丸へは宗像神社の階段を上る。



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 本丸案内碑

 2の丸があったところは畑で面影はない、西の丸は小学校を含む土地である。



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 小学校と西の丸

 宇喜多直家は岡山城に移る1573年まで14年間ここですごした。 秀吉の中国大返しで3万の大軍がここに逗留したとは思えないほどのこじんまりした印象を受けた。けれど、大軍を順次の到着させたことでさばけたのであろうか? 
最近の説で秀吉が極めて短期に大阪へ繰り出せたのは、御座所という信長の休憩所の施設が整備されていたのがその理由だといいます。 御座所の所在を示すものは見つかられなかった。

一代で備前、美作を支配下に!戦国の「梟雄」宇喜多直家の恐るべき実像とは!?
【戦国こぼれ話】一代で備前、美作を支配下に!戦国の「梟雄」宇喜多直家の恐るべき実像とは!?(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース



  

    2020-12-2




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