2019年08月07日

これで正気に戻るか 女子ゴルフ報道



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  渋野日向子   いいねえ



 ゴルフは生まれてこの方、一度もやったことがありませんが、これからプレ−することもなく人生を終えるでしょう。 それでも流れてくるゴルフのニュ−スは耳にします。

 最近聞いたのでは、男子の石川遼さんが長いスランプから脱出してきたのには安心です。 というのは震災の時に石川さんは、獲得した賞金を2億円余り寄付してくれました。 あのタケシ、サンマ、タモリですら、震災時にそんな高額の寄付をしたとは聞いていません。 石川遼さんは、ありがたいけど、やりすぎではと思っていました。その後に石川さんはパットしなくなり心配をしておりましたので。

 男子ゴルフのことではなく、今日、渋野日向子さんが全英オ−プンで優勝しました。前日からの報道で笑顔のカワイイ人だと注目でした。
 試合でプレシャ−に負けることもなく、見事栄冠をとりました。 テニスの大阪さんのようにこの後がたいへんなのかもしれません。

 ここで言いたいことは、日本の女子ゴルフの報道も新しいスタ−の誕生で、改心して正気に戻ってくれることを期待します。 というのは、少し前のたいした成績でもない韓国美人女子プレ−ヤ−の報道、さらに古くは不動裕理さんが絶頂で活躍していた時の報道が特にひどかった。不動さんが毎回優勝しても、下位のカワイ子ちゃんプレ−ヤ−ばかり取り上げていた。それはむごいものでした。 ゴルフに関心の無い小生でも、当時はニュ−スを目にして、大いにこれは「ひどい」と感じていたことです。

 他のマスコミも感心しない今日この頃だが、さわやかな新しいスタ−の誕生で女子ゴルフ報道は断固変わってください。



   2019-8-5

  余談

 カミさんにPINGの意味はときかれました。 彼女の帽子にPINGと書いてあるのだそうです。 気が付きませんでした。 というのは30年ほど前に友人と地中海で「PING906」というヨットを所有していたからです。 中古のオランダ人家族が乗っていたヨットを購入して船名はそのまま継承しました。「海底2万マイル」から名前をつけたと聞いています。 今回は{ピン}と呼ぶそうですが私たちは{ピング}と呼んでいました。

  下記の地中海クル−ズをご覧ください
  http://hayame2.sakura.ne.jp/details1044.html#地中海クルーズ

   2019-8-7




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2019年08月03日

新島襄と快風丸



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 新島襄 1843-1890


 新島襄は安中藩士に生まれた。安中藩は備中松山藩の分家です。 新島は幕府の軍艦操練所で学んだことから、備中松山藩が購入した洋式帆船(スク−ナ−)快風丸の廻航を頼まれた。 その縁で、快風丸の函館行の運行があり、米国への密航の思いで乗船し、函館に行く。 藩の乗船許可が下りないのでわざわざ備中松山藩から安中藩へ願い出て許可をもらう。 函館でアメリカ密入国をさせてくれる船を捜す。坂本龍馬の親類の沼部琢磨などの協力を得て、米船ベルリン号にて上海に渡り、ワイルド・ロ−ヴァ−号に乗り換えてボストンに着いた。
 その船主であったA,ハ−デイ夫妻の援助を受ける。この当時の米国の慈善はすばらしい。彼だけではなく他の日本人が援助を受けた話は耳にします。
 アマ−スト大学では学士を取得。札幌農学校に来日するクラ−ク博士の授業を受講。そのきっかけで彼は来日することになったという。
 新島は岩倉使節団の通訳として参加。ヨ−ロッパに渡り教育制度の報告書を提出し、それが明治の学制改革に大きな影響を与えた。 宣教師となり日本に帰国。 大河ドラマ「八重の桜」では、学校設立のために講演を行い5000ドルの寄付を集めるシ−ンがある。ハ−デイ夫妻が演説原稿を読みこの内容では寄付は集められないと、事前にアメリカン・ボ−ドの有力者に寄付を頼んだ故であるという。日本へ来て同支社大学を建設するくだりは皆様ご覧になってよくお知りになっているでしょう。
 彼は因縁の有る快風丸で備中松山へ行き、伝道しています。その演説で女子教育に活躍する福西志計子に大きな影響を与えた。



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 快風丸

  快風丸諸元

 155トン、全長31.5m、全幅 6.8m、 ニュ−ヨ−ク建造「ゴ−ウルノルワラス」 1862年・文久2・9月 18,000ドルで購入


    2019-8-3




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2019年08月01日

福西志計子・ふくにししげこ



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 1848-1898



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 山田方谷像  王陽明の一節、至誠惻怛(しせいそくだつ)真心といたみ悲しむ心・慈愛の精神を説く




 女性尊皇攘夷志を取り上げることが多いのですが、福西志計子は山田方谷から薫陶を受けた人ですので、幕末に活躍した人ではない。 牛麓舎が隣家であったから、父を亡くした後、母親・飛天子(ひでこ)が方谷に寡婦の娘と侮られぬよう、学問を身につけてほしと頼みにいった。

 「人の一生には思いがけない悲劇が来るものです。現在は動乱の中であるから多くの人が戦乱で亡くなっています。先行きの不安の中で生きている。そのような悲劇に打ち勝って生き抜かねばなりません。夫が死ねば妻が一家を支える事態も起こる。そのために強固な意志と技能を身に着けておかねばならない。今の福西家ではそのような悲劇に直面している。私・母には一家を支える手立てがないため、やむを得ずあなたを実家に連れ帰り生活することになりました。あなたが成人したら家の再興しなければなりません・そのためには技能を身に着けて生き延びることです、先に読み書きを学習することです。隣家の山田方谷先生は百姓の身でありながら学問を身に着け、元締役になり藩政を改革なさりました。学問を身にるけることこそ不安な時代生き抜く確かな手立てです。あなたは女子だから武士になることはできませんが、技能を身につけるためにも、学習をしておくことが必要です」 志計子は男の子と一緒に当時としては珍しく学問に励んだという。

 山田方谷は明治10年に死亡した。陽明学徒は明治になってキリスト教に改宗した人が多い。 明治12年に高梁(たかはし)にキリスト教が伝わった。方谷がキリスト教に理解を示したという伝承があり、小生にはわからないけれど、陽明学にはキリスト教を理解することが容易であったのでしょう。

 福西は方谷門下で身に着けた儒学的素養を基礎にしてキリスト教を受け入れた。 方谷精神に接ぎ木されたキリスト教徒といえよう。方谷の「至誠惻怛」はキリスト教の「人類愛」と矛盾することなく融合していた。

 福西は明治5.6年ごろから女子の覚醒ということを云い。女子も男子も変わらない、教育が悪いのだから女子教育が大切だ。必ず生活が出来るだけは心得ておかねばならない。

 藩主の中に天草の乱で死亡したものがおり、藩内ではキリスト教には厳しくあたるものがいた。福西は町議会からキリスト教の伝導活動と教職の矛盾を問われて、職を辞すことになる。 何度も町民に押しかけられて迫害を受けたという。ほどなく支援者の大いなる援助を得て私立裁縫所を開設した。

 生徒数が増えて手狭になってきたので、新築趣意書が書かれた「ここ7.8年の女子教育の実態を見ると、西洋と東洋の社会の違いを無視して、いたずらに欧米人の方式を模倣したため、女子教育には弊害が現れている。それは社会にも家庭にも役に立たないものになっている。学問は公演を説くだけで現実から離れ。芸術は実際の役に立っていない。ことに徳育では日本の婦人が、古来の優美で貞淑が失われているから、これでは役に立たないばかりでなく、社会に害をもたらす恐れがある。このような状況であるからこの2,3年女子教育は大いに衰微している。然しながら女子教育はおろそかにしてはならない。学問によって知識を磨き、徳を修め、技術は身を立て家族を養うものであり、妻は良妻たるべく、母となっては賢母でなければならない。わが校はこれを実現している。」この間全国に女子高は建設されては消えているが創立以来13年以来順調に順正女学校は発展してきた。趣意書を作り校舎建設資金の寄付金の募集をした。

 福西女史の活動はすさまじいものであった。資金の目途が立ち新校舎が姿を現すころ過労がたたって病勢が進んだ。衰弱がすすみ医師は余命は長くないと診断する。福西は「神様は今まで自由に働くことができる健康を私にお与えくださったので、不十分ながら活動して曲がりなりにも学校の順が着きましたから、今からは祈るようにとこの病気をお与えくださったのだと思います。それゆえ感謝しております」と述べた。病魔と闘いながら讃美歌を歌い、聖書を読み祈りの中で神の意志を悟って従容自若、満面に笑みをたたえて昇天されたという。



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 倉田和四生著  吉備人出版刊



   福西志計子・順正女学校 略歴

1848・弘化4   備中松山藩士の長女として誕生

1852・嘉永4   父と死別、山田方谷に学ぶ

1861・文久元年  14-5歳で井上助五郎を婿養子にむかえる

1875・明治8   29歳、岡山裁縫伝習所に入学、翌年卒業、高梁小学校付属裁縫所教師となる

1879・明治12  キリスト教徒になり、新島襄らに薫陶を受ける

1880・明治13  木村静と共にキリスト教婦人会設立。信仰か職かを町議会に問われて両人は教員の職を辞す

1881・明治14  34歳、私設の裁縫所設立

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1882・明治15  高梁基督教会堂設立に伴い洗礼をうけて正式のキリスト教徒になる。

1884・明治17  郡集が教会に押しかけて礼拝を3度にわたって妨害、プロテスタント史上最大であったと云われる。

1885・明治18  裁縫所に文学科を設置して順正女学校として改組。これは全国9校のひとつ

1887・明治20 上京して、神田職業学校に学ぶ、洋服仕立て、西洋洗濯、毛糸編み物、造花などを勉強

1895・明治28 頼久寺町に新校舎完成、裁縫科1棟、文科1棟、翌年に寄宿舎完成

1908・明治41 伊賀町に新校舎、講堂、割烹教室

1898・明治31 52歳で死去

1912・明治45 順正高等女学校となる

1921・大正10 県立順正高等学校と改称

   2019-8-1


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