2018年08月31日

幕末・明治の殉教 「浦上四番崩れ」


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 幕末・明治キリシタン殉教地図、 頭が島,鯛の浦、久賀島牢屋の窄殉教会


 ヨットで上五島を訪ねた時に、明治になってからのキリスト教徒の弾圧の跡を目にし、その事実を聞き及んだ。 帰航して調べてみると、明治6年にやっと解禁になったのであった。

 明治政府は明治元年・1868年5月17日に大阪で御前会議を開き、幕府の禁教政策を受け継ぎ「キリスト教徒の流罪」を決定した。信徒は流刑先で棄教を迫り江戸時代と同様以上の厳しい拷問をした。

 明治元年、世界遺産の「頭ヶ島」教会のある地では、訪ねてみると極めて少数の人が住む地である、そこで戸主十数人が逮捕拷問されたという。 

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 頭が島教会 世界遺産

「久賀島」では世界遺産の「旧五輪教会」を訪れたのですが、その島では同年に、6坪の信徒囚獄に200名の信徒が収監された(畳1枚で17人)。棄教させるために拷問が行われ劣悪な環境により8か月余りで42人の殉教者をだした。アウシュビッツにある収容施設より狭いところに押し込められて、座ることも出来ずに、人の圧力で皆が持ち上がる状態で、垂れ流しのありさまであった。現在その地に「牢屋の窄殉教記念教会」がある。

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 旧五輪教会  世界遺産・重要文化財


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 牢屋の窄殉教記念教会(ろうやのさこじゅん)

明治3年には中通島・鯛の浦教会近く「鷹の巣」では池川郷士による信徒6人の斬殺事件が起こる。 その地は有川から鯛の浦教会へ行く手前にあった。

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 旧鯛の浦教会


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 鷹の巣(鯛の浦) キリシタン受難の碑 信徒六人が斬殺された

 「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。


 幕末・明治のキリシタン年表

1840(天保11) 浦上のキリシタン5人発覚。
1853(嘉永6) ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
1856(安政3) 浦上キリシタン80人発覚。
1858(安政5) 日米修好通商条約締結。
1865(慶応1) 大浦天主堂竣工。プチジャン神父と浦上の潜伏キリシタンが出会う(信徒発見)。
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 大浦天主堂・創建時
外海、出津海岸にプチジャン神父ら上陸し、潜伏キリシタンと出会いキリスト教復活。
1866(慶応2)
五島列島に74のキリシタン集落があった。長崎港外伊王島のキリシタン長崎から帰島する。帰島しなかった吉富卯太郎外12人、和歌山、松山、伊勢、岡山に配流。
1867(慶応3)
 今村地区の潜伏キリシタン、浦上の信徒深堀徳三郎らと交流。当時今村地区のキリシタン500人、今村近隣のキリシタン868人。 今村の弥吉、大浦天主堂に行き、教理を学び受洗。後今村の9人長崎で受洗。キリスト教復活。 五島、水の浦の帳方久三郎、長崎に行き、クーザン神父と会う。
1868(明治1)
5/17 「五榜の掲示」の第3条で再びキリスト教の禁止が確認される、御前会議で 信徒の流罪が決定、 以後明治3年まで信徒は捕縛され流罪となった。流刑先で旧幕以上の苛酷な拷問・私刑が行われた。(浦上4番崩れといい明治6年まで続く)

五島、水の浦のキリシタン農民32人投獄。 五島、久賀島のキリシタン農民200人逮捕。うち42人牢死。 伊王島のキリシタン21名佐賀に護送され入牢。五島、頭カ島の住民が十数人の戸主が全員逮捕され拷問。ド・ロ神父長崎に上陸。
1869(明治2)
浦上のキリシタン3400人余全国年各地に配流。
1870(明治3)
1/27 五島、鯛の浦の鷹の巣キリシタン6人惨殺される。
1871(明治4)
戸籍法改正。 宗門人別改を廃止。馬渡島のキリシタン宣教師と接触。トーマス勘兵衛受洗。
1873(明治6)
 切支丹宗禁制の高札撤去。 長崎、神ノ島の漁師、海路天草下島の大江に上陸、 キリスト教を説き、道田嘉吉外長崎にて受洗。キリスト教復活。 九州各地の切支丹宗禁制の高札撤去。 浦上キリシタン釈放される。(流罪3394名のうち662名死亡)

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 津和野に流されていた信徒の浦上天主堂での帰郷記念写真

 迂闊にも、これらの事実を五島に訪ねるまで知らなかった。私が浅学なだけでは無いと思うけれど、後世にはよく知られていない。 なぜ、幕府以上の苛酷な弾圧をしたのか分らない。その廃止も欧米に渡欧した新政府の要人が非難を浴びて、不平等条約の解消にためにならないと知った故であるという。廃仏毀釈も起こるので、尊皇は神道の精神であり、他を排する思想であった故なのでしょうか?


  2018-8-31




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2018年08月27日

福岡城

 豊前中津16万石に構えた中津城より関ケ原の戦功により筑前52万石に転封になり、黒田長政が福岡城を1607年に竣工した。 はじめは名取城に入城したが、手狭なためにそれを廃し福岡城を築城する。


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 CGによる本丸再現(類推)

 天守の存在は議論されているようだが、最初はそれを作り幕府に遠慮して天守を取り壊したようです。 天守跡の石垣は残っている。

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 天守台

 城遺跡はあちこち広大な敷地に点在していて、見学していても、まとまりを感じられずであった。確かに50万石にふさわしい規模の大きなお城であったと思います。 行政による復元計画があるようで、角櫓や塀ができると、その規模から立派なお城になる予感がします。 下調べに留意してオリジナルなものを復元していただきたいものです。


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 多聞櫓 城内より  内部非公開 


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 本丸表御門  崇福寺へ移築された


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 下之橋御門(右)  潮見櫓(左)


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 潮見櫓(伝)


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 旧母里太兵衛邸 長屋門  移築されたもの


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 祈念櫓  鬼門の位置に建てられ僧が詰めていたという


   2018-8-25



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2018年08月23日

門司港レトロ地区


 天候待ちでマリ−ナ停泊が3日目になります、マリ−ナからの市内までの交通が不便なので、タクシ−代が毎日6000円余りかかり合わせて高めのマリ−ナ代の支払いは、年金ヨットマンには痛いところです。

 今日はすでに下関と小倉へ行ってきましたので、門司港にあるレトロが売りの場所に来てみました。 今はJR門司港は終着駅になっており、関門トンネルができるまでは、本土から九州への始発駅でした。現在は門司駅から下関方面への直通運転又は乗り継ぎになっています。

 幕末の馬関・維新戦争の華やかしころには門司港はありませんでした。NHKの朝ドラ「あさが来た」の女主人公・あさが炭鉱を買い、その積み出しに門司港を開発したのだといいます。それまでは下関の方が圧倒的に発展していた。 明治22年に国の特別輸出港に指定されて以来急速に発展する。 昭和17年にトンネルが開通したことや大陸貿易が途絶えたこと、荷物のコンテナ化が進んだことで、港がさびれてレトロな建物が残ったのです。

 バナナの叩き売りはドラマの世界でしか見かけませんが発祥の地です。労務者が好んで飲む、酒屋で飲む角打ち商法が今でも繁盛しているといいます。

 観光案内所は駅近くの旧三井倶楽部にあります。そこで地図をもらえば、徒歩1時間ほどで見てまわることができます。

 ヨットマンにはありがたいことに旧JR九州本社ビルに海事広報展示室があり、関門海峡の通狭の相談ができます。潮流速や転流時など航法も教えてもらえます。

 残念なことはレトロなことが点在する建物に限られ、町の一体感が乏しいことです。さらに跳ね橋を抜けると良い泊地があるのだけれど、長崎の出島ワ−フのようにヨットが着けられれば、レトロな建物とヨットとの風景になり、より風情がでるのでは。 ヨットマンには町に近くて便利な潮待の泊地となるのではないかと思います。

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 門司港レトロ地図


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 門司港駅


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 関門海峡と大橋


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 旧門司三井倶楽部


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 旧大阪商船


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 旧門司税関


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 九州鉄道記念館


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 国際友好記念館


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 三宣楼


    2018-8-23


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2018年08月21日

龍馬の船 晩年龍馬年表付


 坂本龍馬が亀山社中・海援隊において所有・運航した船と他藩の船でも乗船した船をとりあげます。

  龍馬関連年表(旧暦)

文久2年・1863
     12/21 千葉重太郎、小笠原長行らと「順動丸」で兵庫着
     12/29  勝海舟と会う
文久4年・1864
      1/8  勝海舟と「翔鶴丸」で大阪着
     2/16  勝と「翔鶴丸」で佐賀関に入港、陸路長崎にむかう 
元治元年・1864
      2/23 龍馬は近藤長次郎、望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎らと長崎を初めて訪れる。
      4/4 神戸海軍操練所建設のため勝海舟と共に陸路兵庫にむけ出立。
    5月某日 京都でお龍に出会う。
      6/5 池田屋事件。望月亀弥太死亡
      6/7 「黒龍丸」に大阪で乗船
      6/17 「黒龍丸」で下田入港
      6/20 「翔鶴丸」で勝と大阪着
      7/19 禁門の変 
      7/23 第1次長州征討
      8/1  お龍と内祝言
      8/5 4国艦隊下関砲撃開始
     8月某日 勝の使者として西郷と面会
      11/10 勝海舟、軍艦奉行罷免される
    12月某日 薩摩は龍馬らを「船の手先」として雇い入れる
      12/16 高杉晋作の功山寺挙兵 
慶応元年・1865 
      3/12 神戸海軍操練所廃止
    4月某日 中岡慎太郎と薩長和解を策す
      4/12 幕府、第2次征長令を発す 
      4/22 西郷、小松帯刀に同行して「胡蝶丸」薩摩へ
      4/29 「胡蝶丸」 長崎寄港
      5/1  「胡蝶丸」鹿児島着
      5/16 長州への薩摩出兵拒否を伝えに行く、薩長同盟模索
     閏5/6 下関で薩長連合の件で桂小五郎と会見
     閏5/21 中岡慎太郎下関到着、西郷は下関に来ず、桂は憤激す。
     閏5/29 中岡と西郷説得のため京都へ
     6/29  西郷と会見、薩摩名義での軍艦・銃購入を許される
    7月頃  「亀山社中」設立 
     8/26  近藤長次郎の周旋によりグラバ−から銃を購入長州へ引き渡す
     9/26  兵庫で「胡蝶丸」乗船
     9/28  伊予青島寄港
     9/29  上関上陸
     10/7  下関の白石正一郎を訪問
     10/18 グラバ−から「ユニオン号」購入、「桜島丸」に改名
     11/24 長崎に向け大阪出発、 上関寄港 (11/26)
     12/3  下関着   
     12/14 長州と桜島条約を締結
慶応2年・1866
     1/1  長府藩士三吉慎蔵と出会う
     1/10  三吉と共に下関から兵庫に向かう 
     1/14  近藤長次郎自刃
     1/21  薩長同盟締結
     1/23  寺田屋事件で負傷
     2/5  薩長同盟の朱筆で裏書
     3/5  薩摩藩船「三邦丸」にお龍と乗船して薩摩へ
     3/8  長崎に寄港して近藤長次郎の墓参をする
     3/10 鹿児島到着
     4/12 亀山社中は「ワイルウエフ号」を薩摩の援助により購入
     5/1 桜島丸にえい航されてワイルウエフ号は長崎より鹿児島に出港
     5/2 ワイルウエフ号が座礁沈没
     5/28 勝海舟が軍艦奉行に再任
     6/1 お龍と「桜島丸」に乗船
    6月某日 「ワイルウエフ号」遭難地を訪れて弔い金を地元に渡す
     6/4 「桜島丸」が長崎到着、お龍を小曾根英四郎に預ける
     6/7 第2次長州征討
     6/14 下関到着、桂より小倉口参戦を依頼される。
     6/17 「桜島丸」(乙丑丸・ユニオン号)と長州軍船4隻で小倉渡海参戦
     6/20 高杉晋作と白石正一郎宅で面会
     7/20 徳川家茂が大阪で死去
     10/3 亀山社中、薩摩より月給として一人当たり3両2分を受け取る
     10/28 プロシア商人・チェルシ−から「太極丸」を購入
     12/4  小曾根英四郎宅に滞在
     12/5 慶喜15代将軍に就く
     12/7 山口で木戸準一郎に溝淵広之丞を紹介
     12/14 溝淵広之丞と共に下関到着
慶応3年・1867
     1/4 下関で伊藤助太夫宅に滞在  
     1/9 下関出港 長崎へ 船名不明
     1/11 長崎着
     1/12 長崎で後藤象二郎と会見、脱藩許される、
     2/10 龍馬とお龍が長崎より下関の伊藤助太夫宅に行く
     3/18 龍馬が御手洗で薩長芸土4藩の予備会談
     3/21 龍馬、新谷道太郎に会い下関に向かう
     3/22 下関着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
     4/8 伊予大洲藩蒸気船「いろは丸」 長崎到着
     4/14 高杉晋作死去
    4月上旬 「亀山社中」を改編して土佐藩付属の「海援隊」になる
     4/19 土佐商会に対して海援隊院へ一人当たり5両の月給を要求
         「いろは丸」長崎出港
     4/23 「いろは丸」紀州藩船「明光丸」と衝突沈没
     4/25 鞆の浦で「いろは丸」談判
     4/30 御手洗で鳥取藩士・川田佐久間と面会
     5/15 長崎で紀州藩と賠償交渉開始
     5/29 紀州藩より8万3000両の賠償金で決着    
     6/9 土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎やお龍と乗船、「船中八策」を作成
     6/11 兵庫入港
     6/22 「薩土盟約」締結、 龍馬と中岡陪席
     7/4  後藤象二郎が藩主に大政奉還を伝えるため土佐に向かうのを見送る
     7/6 長崎で「イカルス号」水夫殺害で海援隊に建議かかる
     8/1 薩摩船『三邦丸』(みくにまる)で大阪出港
     8/2 須崎で土佐藩船「夕顔丸」に乗り換える。
     8/12 「夕顔丸」長崎にむけ出港
     8/14  下関寄港
     8/15  長崎入港
     9/7  薩土盟約を解消
     9/10 イカルス号事件無実となる
     9/18 海援隊が芸州藩船「震天丸」長崎出港、土佐へ銃1000丁を渡す。
     9/20 下関で三吉慎蔵にお龍を預ける。
     9/22 「震天丸」で下関出港、お龍との最後になる。土佐へ向かう
     9/29  脱藩以来の初めての帰郷で最後ともなる
     10/5  土佐藩船「空蝉」で大阪に向けて土佐出港
     10/14  大政奉還が受理、討幕の密勅が発せられる
     11/1  福井で松平春嶽に会う、
     11/5  「新政府綱領八策」を草案
     11/7  御手洗で薩長芸土密約に龍馬立ち会う
     11/8  龍馬は御手洗を立つ
     11/15 近江屋で襲撃され龍馬死亡
     12/7  陸奥陽之助ら海援隊による天満屋事件起こる
     12/9  王政復古の大号令



 五島列島・中通島上五島町の有川にヨットで一週間ほど停泊しました。 フェリ−タ−ミナルのロビ−展示で大きな龍馬像がある。それを目にした時には、なぜ、ここに龍馬の像があるのか不思議であった。 あとで知ったのですが、亀山社中の船「ワイルウエフ号」が潮合岬(しおや)にて座礁沈没して社中の者が遭難死亡した。

 これには発見談があり司馬遼太郎「龍馬がいく」にこの遭難話が書かれており、興味を持った人が昭和43年の時代になり、探し求めて、ついに遭難者の墓を発見した。地元の人にも忘れられており、当時の俗謡を覚えている唯一の老人にもめぐりあったという。

「そど(騒動)よ、そど、 そど、 潮谷そどや、
 五月二日の明け六つに 異国の船とは知らねども
 どことも知れぬ、島見せぬ 島もだんだん見えるして
 かねの錨をつけこんで つけども錨がきかずして
 石に当たりて水船に 流れて行くのがどこなれば
 上口さしてぞ流れ行く 江ノ浜前にぞ 流れつく
 どなたも錦の対の衣装 こりゃ何事じゃと 村中が
 浜に騒ぎて大騒ぎ 国はいづことたずぬれば
 国は薩摩の鹿児島で 積荷は何ぞとたずぬれば
 大砲(おおづつ) 小砲(こづつ)つみまぜて
 かなきんなどを さしにして
 さぞやお世話じゃ 浦田さん」

  浦田さんは浦田運次郎は塩飽列島の佐柳島出身で咸臨丸渡米にも参加している船頭頭であった。

山下禎三郎 ワイルウエフ号遭難顛末記
 http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot15.html


 有川より世界遺産になる頭が島教会に行きました。定期バスで訪れたのですが、龍馬像をバスから写真を撮りました。 しかしその地の江の浜には降りることはなかった。今考えれば惜しいことをしたものです、なにせ1日3便しかないバス便であったので。初めはその地を観光便乗商法宣伝と思っていたのは浅慮でした。


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 潮合岬に立つ合掌した龍馬像
 

  龍馬の船


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1. 「ワイル・エフ号」 スク−ナ−159t プロシア建造 グラバ−から購入

 亀山社中の木造練習船であったワイル・ウエフ号が、長州から米を積んだ桜島丸(ユニオン号・近藤長次郎のあっせんによりグラバ-から購入)にえい航されて鹿児島に向かう途中、上五島中通島潮合埼沖で遭難した。社中の池内蔵田・黒木小太郎ら12人は死亡した。


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2. 「順動丸」 77m 405t 360馬力 外輪船  英国建造

3. 「翔鶴丸」 350t  外輪船  アメリカ建造 幕府船


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4. 「胡蝶丸」 薩摩から土佐藩船  外輪船  150馬力  旧フ−キン

5. 「黒龍丸」  越前藩が購入して幕府船に

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6. 「ユニオン号」 45m 300t、長州藩船  英国ロッテル−ヒ建造 1865年薩摩名義で長州購入 、薩摩名義「桜島丸」 長州名「乙丑丸」(いっちゅうまる)
6月17日 (旧暦) の小倉藩への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長となって実戦に加わった、大島口の戦いにも参加。


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7. 「夕顔丸」 65m 蒸気船 659t  土佐藩船 船中八策を起草
1963年に英国で建造、Shooeyleen号 英国商人オルチから購入

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 長崎にある 夕顔丸碑


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8. 「いろは丸」 160t 大洲藩 1866年英国バ−ミンガム建造アビソ号

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9. 「大極丸」  商人鳴海屋与三郎が買主、小曽根英四郎が保証人となって、プロセイン商人チョルチーより購入した洋帆船 遭難したワイルウエフ号と同規模の船。



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10. 「震天丸」 芸州藩船  薩摩より10万両借りて英国より購入、 薩芸同盟により長州と芸州の兵を御手洗から大阪に送る


11.「空蝉」 土佐藩船 146t 150馬力 蒸気船 建造場所不明 国産かも


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12.「三邦方丸」(みくにまる)  英国リクエブ−ルで製造、53m 410t 8万ドル購入、 西郷の遠島と帰還に利用された


   2018-8-21


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2018年08月19日

小曾根乾堂・英四郎を訪ねて


 小曾根乾堂宅跡と弟の小曾根英四郎墓を訪ねました。長崎出島ワ−フのヨットハーバーに停泊していたので、そこから徒歩10分位です。市電大波止ないし賑橋停留場より徒歩5分ほどにある。建物は残っていなくて法務局の一角に石碑が残っているのみです。 

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 そこには、なぜか龍馬の連れ合いのお龍さんの月琴の像がありました。 お龍さんは8か月小曾根邸に滞在した。その時に長女「きく」さんから月琴を習ったそうですが、短い期間であったので名手になったわけではないと思いますけれども。

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 お龍さんと月琴の像、 乾堂の長女キクが教えたという.

高知県芸西村教育委員会主催のイベントで月琴を奏でて、「面白き女と妙な男の夫婦物語」がおこなわれた。

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月琴での龍馬の手紙 高知県芸西村



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小曾根乾堂 1828-1885


 小曾根乾堂はレオナルドダヴィンチタイプの万能文化人で絵画、書画、篆刻(御璽・国璽)、陶芸(亀山焼)、音楽(月琴)、など業績を残している。 彼の墓地は晧台寺にある小曾根家墓地ではなく太平寺の墓地にあるという、今回は訪ねておりません。

 彼は次の言葉を残したといいます。冷静に維新を眺めて政府の高官になることは無かった。

「冷眼視世(れいがんしせ)」”冷めたまなこで世の中をみよ”

 
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小曾根英四郎 1840-1890

 勝海舟と弟の英四郎は海軍伝習所で同窓であった。元治元年・1864に龍馬と勝の紹介で会っている。英四郎は海援隊に入る。いろは丸の衝突事故の際には乗船していて紀州藩との交渉に活躍したといいます。龍馬が死んでからは世界の海援隊は夢と消え、明治になってから幕府が薩長土肥に代わっただけです。彼は不満を持って生活していて、酒色に溺れたといいます。妻は実家に帰り、孤独な晩年を過ごした。

 彼のお墓を見て来ました。 有名な眼鏡橋から山の報に登ったところに晧台寺(こうたいじ)があり、そこに墓地の所在の案内板があり英四郎の墓に行くことができる。小曽根家の墓地内に近藤長次郎の墓もある。

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晧台寺  


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 小曾根英四郎墓  


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近藤長次郎墓 右隣は小曾根英四郎墓

 近藤の墓は別にあったが良き保存のためにここへ移築された。墓碑名は龍馬の字だという。


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 幕末長崎関連地図

  龍馬の最後の4年年表 大竹仁一さんによる
  http://www.gajoen.jp/ryoma_den.html


  2018-8-19



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2018年08月17日

平野国臣



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 1828-1864

 
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 福岡市西公園にある像


 大河ドラマの「西郷どん」で僧月照と入水自殺するシ−ンがありました。西郷を助けた人をこのテレビドラマでは描かれていない。同行していた平野国臣によって救助・救命されたのです。
 
 平野国臣は足軽の2男として生まれる。小金丸の養子に行く。江戸で国学漢学を学ぶ。水戸の会沢正志斎に触れ尚古主義になる。それゆえに大刀をさげて古風な烏帽子・直垂姿で街を歩く、これを見て皆笑ったという、これには養家も迷惑し、彼は離縁された。

 宗像大島でお由羅騒動により薩摩から逃亡して保護されていた斉彬の側近・北条右門(村山下総)と親交を持つ。北条を通して西郷隆盛と知り合う。 安政の大獄から逃亡していた僧月照を彼は北条より依頼されて鹿児島まで同行する。 その際、月照・西郷入水事件で西郷を救命した。 安政の大獄がさらに吹き荒れたので備中に隠れる。 白石正一郎邸に移り、彼は薩摩・水戸浪人と井伊直弼暗殺計画を話し合う。 平野は藩主に大老が暗殺されれば混乱するのでその準備の建白書を提出した。 桜田門外の変が起こり、藩は驚愕して事前に知っていた国臣の捕縛を命じる。 村田新八・有馬新七らの手引きで彼は薩摩に逃げるが、久光に嫌われて薩摩から退去させられた。 その後に肥後や天草へ逃れる。 久光の上洛に合わせて有馬新七ら急進派と彼は京に上る。 寺田屋事件が起こり、有馬は死に国臣は捕縛される。福岡藩に引き渡され牢獄に入る。 長州が尊攘派公卿と朝廷を牛耳ると彼は釈放された。 8.18の政変で長州が京から退去させられる。 それで彼は生野の変を計画した。失敗して京で獄舎に入る。 禁門の変が起き京の大火災が獄舎に及び、未決であったが斬首された。


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辞世の句 「憂国十年 東走西駆 成敗天有 魂魄歸地」


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「大君に ささげあまりし 我いのち いまこそすつる 時は来にけり」

 野村望東尼が彼の死をいたんで祠を作り石に歌を刻んだ。乙丑の獄で彼女は遠島になりウヤムヤニなったが後に見つかり平尾山荘に小詞がある。

 彼は志士であり文化人で歌人でもあった。時により良い歌を残している。


 現在お騒がせのボクシングの会長・日大の総長みたいな夜郎自大なタイプになっていたのか、維新まで生存すれば、平野国臣はそのように見える誤解を受けたのかもしれません。しかし、禁門の変・蛤御門の変で死んだ久坂玄瑞のように平野国臣も惜しい人を亡くしたものです。その後に起こる乙丑の獄があるが、そこでは彼が生き残れたかは難しい問題ですね。

 今回は西公園にある像を見たのみであるが、福岡にはまだ平野神社や生誕地などのゆかりの地もあるようだ。機会があったら訪ねてみたい。


    2018-8-17


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2018年08月11日

伊藤助太夫・九三 1830-1872


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   中央は龍馬、右は伊藤助太夫、左は伊藤家使用人

 坂本龍馬は脱藩後に白石正一郎邸を目指したといわれている。ここで白石のことはとりあげています。下関にはもう一人の豪商の龍馬支援者がいました。 龍馬が書いた手紙で現存している数では、乙女姉さんへの手紙が多いその次は伊藤助太夫である。 

 不覚にも小生は彼についての知識が欠けていて、下関にある白石ゆかりの地は訪ねた、赤間神社・阿弥陀寺へも行ったが、すぐ近くというより彼の広大な邸宅の中にその神社があるほどであるのに、伊藤関連の地へは行っていません。

 彼は長府藩赤間関の大年寄である。本陣伊藤家の当主で、下関を代表する豪商です。龍馬とは慶応元年・1865にあって以来交友が深かった。彼が長府藩のお歴々と龍馬を繋げたという。
慶応3年・1867竜馬はお龍をつれて長崎より下関に来る。伊藤家の一室「自然堂」を借りて夫婦の部屋とした。妻のお龍さんはここで龍馬の死を三吉慎蔵から受けとった。
 慶応3年・1867 9月20日、龍馬は久しぶりに伊藤家に泊まった。後年伊藤の妻がその時のことを語った。
 「坂本さんは、普段は汚い風をしておって、顔つきも恐ろしい人だが、この間は顔もきれいに肥え、大変立派になっていらした。きっと死に花が咲いたのでしょう。間もなく(2か月弱)亡くなられた」

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  伊藤助太夫宅跡碑

  龍馬の最後の4年年表 大竹仁一さんによる
  http://www.gajoen.jp/ryoma_den.html




   2018-8-11


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2018年08月09日

大浦天主堂  国宝・世界遺産


 ここへは市電で大浦天主堂駅下車してすぐにある。 グラバ−邸も隣です。 前に行っているので、今回は訪れなっかった。

 元治2年・1865にフランス人の礼拝堂として建設される。1か月ほどして隠れキリシタンの信徒が密かに名乗り出る(信徒発見)。 見学者も多いので、教会の説明はちゃっかり、ツア−の案内者の解説を隣で聞いてください。 個人的には、ここが今度のクル−ズにおいて教会見学の最後となったのか、五島での汗して登った僻地の教会のような感銘と比べて薄いものであった気がしています。 今年に世界遺産に登録が決まった。ますます多くの人が押し寄せるでしょう。
 
 隣接して旧羅典神学校が見ることができる。中はキリシタン資料室として公開されています。

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 創建時の大浦天主堂

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明治8年・1875から明治12年に大改造 国宝指定


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 側面

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 内部



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 羅典神学校(左)

  今日は長崎原爆の日です。 ここは被害を受けずよく残ってくれました。合掌。




  2018-8-9



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2018年08月07日

壱岐 郷ノ浦フィシャリ−ナ


  福岡と呼子から、また長崎と平戸からの良い係留地です。 少々の時化と強風には安全に停泊できます。 

 連絡先 090-1979-2578 林田さん

 停泊費用もきわめて安価です。 ポンツ−ンは3個あり、中央をすすめられます。入り口近くは大型船を想定しているようです。

 オフロはフェリ−タ−ミナル近くのホテルが利用できる。 ス−パ−はあるけど奥まった感じで、近くにいても見つからず、地元の人に聞きました。

 コインランドリ−はバスで10分ほど、観光案内所の美人のスタッフが親切に教えてくれた、ス−パ−とホ−ムセンタ−と併設されている。


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 壱岐 フィシャリ−ナ ポンツ−ン3台あり


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  郷ノ浦  フィシャリ−ナ 最初のポンツ−ンに着けた


 フィシャリ−ナから町まで徒歩10分位かかるのでフェリ−タ−ミナル横の岸壁を着けることができる。


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 フェリ−タ−ミナル横  別の係留地



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 入浴できる ビュ−ホテル壱岐 500円


 ホテルの裏手に春一番で遭難した記憶を留める碑がある。五島沖の喜三郎曽根へ はえ縄漁船はここから出漁していた。幕末安政6年・1859に春一番で53名が遭難する。冥福を祈るためこの碑を建てた。旧2月13日は休漁にしているという。

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 春一番の海難碑


  2018-8-7


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2018年08月05日

小倉城


 新門司マリ−ナからタクシ−で山越えをして門司港に出る。そこからJRで小倉まで。小倉城を訪ねる。

 現在残っている規模の小倉城は細川忠興が造る。 天守閣の屋根に破風が無く唐造りと呼ばれる。(破風は今でいうド−マ−のようなもの)

 14世紀から大内氏、菊池氏、高橋氏、毛利・森氏、の持ち城となり関ケ原の功で細川氏のものとなる。細川氏が熊本に転封になった後は譜代の小笠原氏が幕末まで続く。 天保8年・1837に天守と御殿が焼失。

 幕末に第2次長州征討で高杉晋作に攻められてあっけなく開城して逃げ去ったのは不思議である。それなりの本丸・松丸・北の丸・2の丸・3の丸を持つ総構えの城であったのに。
幕臣の志気が低かったということでしょう。


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 復元天守には 大入母屋破風、千鳥破風、唐破風がついている。


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 西の口門


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 鉄門跡 一般家臣のと城門、 旧第12師団司令部正門


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 着見櫓 現在は漬物店が入居


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 大手門跡

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 堀


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 下屋敷の場所にできた庭園と書院を復元した。


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 りゅう弾砲


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下関厳島神社にある太鼓 高杉晋作の戦利品


  2018-8-5



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