2018年07月31日

平戸海の駅


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 ポンツ−ンからみえる平戸城


 西日本のヨットの聖地と聞き及ぶ停泊地は弓削・上関・平戸でしょう。それらは料金が安くて便利、しかもオフロがとれるところです。また、中継地としてふさわし地理的な位置を占めるのも聖地としての条件でしょう。

 平戸海の駅は3日間まで利用でき、観光案内所に届けが必要ですが無料です。電気は500円・日で1隻のみ使える。

 ポンツ−ンハメインとサブの2か所ある。 メインは案内所近くで、サブは湾奥になる。
 詰めれば総計10隻ほど係留できる。

 お城や観光ポイントは近くにまとまってあり、ガソリンスタンドやコインランドリ−も近い。
お風呂はオランダ商館の坂を登ったホテルが800円で利用できる。 夜6時より開く、角打ちの酒屋さんで楽しい一時を過ごせた。

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 メインポンツ−ン、 この右側には大型フェンダ−があり大型船に向く

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 サブポンツ−ン  湾の奥に位置する


   2018-7-31

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2018年07月30日

功山寺


 関門海峡を抜けるために、新門司マリ−ナに滞在した。 あいにく東風の強風が続き、玄界灘は海況が悪く4泊することになった。そこで下関、小倉、新門司を訪ねる。

 下関の観光の目玉の一つは思いもよらぬ高杉晋作であった。 功山寺は長府の街にあり、下関からバスで訪れた。 長府は5万石の長州の支藩である。 訪れてみると町並みに風情があり、小さくまとまった、お勧めできる良いところです。


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 国宝 功山寺仏殿

 維新のタ−ニングポインントである高杉晋作の功山寺挙兵については、奇兵隊すら賛同されない中で、わずか80人で挙兵した地である。 詳しくは、ここですでに取り上げています。 
 
 功山寺は長府藩祖毛利秀元の菩提寺であり、毛利元就に追われた大内義長が自刃した地、坂本龍馬の護衛を勤めた三吉慎蔵の墓もある。 また、京都から落ちた五卿はここに滞在したことがある。


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 総門


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 境内にある晋作騎馬像


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 長府藩士 三吉慎蔵の墓

   2018-7-30



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2018年07月28日

唐津城・舞鶴城


 博多より糸島市・船越までヨットで向かい。午前は、野村望東尼が流された姫島に行き、午後は唐津城に行きました。 福岡で知ったのですが、唐津へは東京から横浜へ行く感覚で地下鉄に乗り行けるのだと分かりました。

 唐津城は慶長13年・1608に完成した平山城です。 寺沢広高が築城し名護屋城の解体資材を用いたといわれています。
 城は本丸・2の丸・3の丸・外曲輪に分かれています。寺沢以降は譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城。寺沢の12万石で始まり廃藩前は6万石でした。

 寺沢広高(1563-1633)は尾張の生まれで、秀吉に仕え取次として活躍、長崎奉行になる。朝鮮出兵では補給や輸送の任務を勤めた。 石田三成のように武断派からは嫌われたが、関ヶ原で家康につき4万石(天草領)の加増をうける。 この領地石高が実際より過大なものであったので、大きな負担を領民に課すことになり、天草の乱の原因となった。 没後嫡男の堅高が継いだが島原の乱の責任で天草を没収され自殺する。子が無く断絶した。

 広高は1000石取りの家臣を40人も抱えるほど有能な家臣を大事にしたが、そのために日常は堅実で家臣と同じ飯を食うなどして慕われたという。


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 唐津城下町絵図


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 復元天守

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 天守から唐津湾を望む


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 3の丸 辰巳櫓


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 辰野金吾(1854-1919)生誕地 日銀本店などを建てた建築家



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奥村五百子(1845-1907) 尊王攘夷運動に参加、愛国婦人会を創設


  2018-6-28





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2018年07月25日

宇久島


 宇久島は「五島ではない佐世保である」という人がいます。五島列島を形成する北部にある主要な島です。地図をながめれば佐世保という人はいないでしょう。現在の行政区分では佐世保市に属します。

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 文化的に他島と違いがあるのでしょうか、中通島や福江島などの島に多々ある教会が宇久島にはない。
 観光案内所でこの島の自然以外の歴史的な見るものを教えてもらい、レンタサイクルで見に行きました。

 平清盛の弟・家盛りが壇ノ浦の戦いに敗れてこの島に拠点をつくり、五島一円に勢力を伸ばし宇久氏(五島氏)の祖になったという。


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 平家盛 宇久島上陸像


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 平家森の宇久島上陸地


 観光案内所から教えてもらった、半日歴史的見どころコース
   電動自転車利用

1. 宇久平フェリ−タ−ミナル出発
2. 神島神社
3. 東光寺
4. 毘沙門寺
5. 旧神浦中学校
6. 厄神社
7. 家盛上陸地
8. 八幡神社
9. 宇久島神社
10. 若宮神社
11. アコウの巨樹
12. 宇久平タ−ミナル 終

 道は整備されてはいるが山の登りが多く、電動自転車でも難儀である。50ccのカブでも欲しいところです。

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 神島神社  五島神楽がおこなわれる

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 後藤神楽 神島神社掲示


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 支石墓  宇久松原遺跡出土


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 東光寺  家盛公以下7代の墓がある


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 毘沙門寺


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 厄神社 古くから住民の信仰をあつめる、巨岩のパワ−


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 八幡神社 家盛の氏神


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 宇久島神社 しゃぐま某引き・大名行列を模したものが行われる


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 アコウの巨樹  マムシに注意


 大規模な自然エネルギ−の開発計画があるのでしょうか? 風力発電反対の看板を多く目にしました。ゴルフ場も牛の放牧に使われているようにも見受けられ、観光も成功しているようには思えない。 地元の人に太陽光や風力の自然エネルギ−の利用計画にどういった理由で反対しているのかは聞きたいところです。

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  2018-7-26


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2018年07月24日

鄭成功  1624-1662


 ヨットで平戸を訪ねた折、誕生日・7月14日に行われる鄭成功祭りのポスタ−を見かける。6月末に航海を終えたので、祭りを見ることができませんでした。 彼のゆかりの地平戸・川内へ路線バスで行き、記念館を見るつもりが、あいにく休館日で見学できなかった。

平戸で父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれた。7才で単身明へ渡海して、21歳の時に明の隆武帝より「国姓」「朱」を賜ったことから、「国姓爺」と呼ばれた。清が勃興してくる中で彼は戦い、台湾のオランダ人を駆逐して拠点を台湾に拠点を置いた。台湾ではそのことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。病により39歳で没した。 近松門左衛門の「国性爺合戦」は彼を主人公にしたものである。


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占領地と影響圏


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 鄭成功門

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 記念館


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平戸 川内の町並み


   2018-7-24



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2018年07月22日

大浦慶 を訪ねて



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1829-1884

 長崎の油商人の娘として生まれる。大火で損害を受けてたが、日本茶貿易を先駆けて企て成功した。困窮する龍馬たちのような脱藩浪士に、パトロンとして金銭的な支援をして何かと面倒をみた。 開国となり、他港が発展していくと長崎は衰退していく。元勲たちは、もう過去のことと、彼女に振り向きもしなかった。浅はかだったと彼女は後悔したという。

明治になり、たばこ貿易詐欺の被害者になり、3000両もの負債を死ぬまでに完済した。死ぬ間際に茶輸出の功績を認められて功労金20円を賜る。

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  国指定重要文化財 本堂厨子


 長崎の大浦慶のゆかりの地を訪ねました。 市電に乗り正覚寺下終点で降ります。京都にある清水寺の僧・慶順により元和9年・1623に創建された清水寺に向かう。掃除をしていた住職さんに大浦慶のお墓の場所を訪ねた。この裏にあるとのことだが、いったん階段を下りて接している道に至る。左に山手の方向に2−3分歩くと案内の看板があった。長崎お決まりの坂道を5−6分行く、左へいく案内板があり4−5分登るとお墓がありました。

 新鮮なお花がそえられていて、長崎の人に今でも見守られているようです。

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大浦慶墓地 案内板


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大浦慶墓

 市電の1日乗車券は500円で安くて便利。正覚寺下より次の駅は演歌の題名になっている「思案橋」です。そこで降りて2−3分のところに大浦慶の居宅跡があります。昔と同じ町名・油屋町にあります。 そこはリフォ−ムしているのか新築工事なのかわかりませんが、足場を組みテントで覆われた片隅に石碑はありました。

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大浦慶居宅跡

 龍馬がそこへ行ったとか行かないのか、「思案橋」の由来は丸山にあった遊郭への思案のしどころからきた名前なのでしょか? 油屋町の市電を挟んで反対側が丸山町・寄合町になります。現在はどうなっているのでしょう? 見ていませんので報告できず。


    2018-7-22



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2018年07月20日

亀山社中・海援隊


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 龍馬の海援隊根拠地である亀山社中跡を見に行く。長崎によくある坂道を登っていかねばなりません。 行ってみると、想像していたより小さな建物でした。 隊員がこの部屋に集まれば、さぞかし狭かったことだろうと思われます。 今と違いバスや車で行くわけにもいかないので、船着き場や倉庫から、ここへ行くには坂道で徒歩30−40分といったところでしょう。

 記念館の展示には龍馬が着た黒紋付、今見ても良い生地・絹でしょうか、仕立てられています。また月琴がありますが妻・お龍さんが使用した楽器なのか不明です。

 年表によると亀山社中が出来て2年、海援隊になって1年で解散ですので、幕末の極めて短い間のことであったと分かります。

 龍馬・亀山社中・海援隊年表

元治元年・1864 2/24-4/4 龍馬は勝海舟の長崎出張に同行し、長崎滞在
慶応元年・1865 夏頃 亀山社中結成
       7月−10月 薩摩名義でグラバ−から小銃や艦船を購入長州へ輸送 
慶応2年・1866 1/21(22) 薩長同盟締結
        1/23  龍馬は寺田屋で負傷、近藤長次郎は小曾根邸で自刃
        3/8 薩摩船で鹿児島に向かう途中に長崎に立ち寄る
        5/2 ワイル・ウエフ号が五島で遭難、池内蔵太・黒木小太郎ら死亡
        6月上旬 妻・お龍を小曾根家に預ける
        6/17 下関で長幕海戦に参加
慶応3年・1867 1月上旬−2月下旬 後藤象二郎と会談 、脱藩許されてる。     
        2/10 お龍を下関伊藤家に預ける
        2月頃 土佐商会開設
        3月 岩崎弥太郎が長崎に来る
        4月上旬 海援隊発足 
        4/23 いろは丸が紀州藩船と衝突沈没
        5/29 いろは丸賠償決着
        7/6  イカルス号水夫殺害
        9/10 イカルス事件 おかまいなしの裁定
        9/14 オランダ商人から小銃1300挺購入
        10月 大政奉還
        11/15 近江屋にて龍馬死亡
慶応4年・1868 1/14 長崎奉行が脱走、海援隊奉行所西役所を占拠
           沢村惣之丞自刃
        4月 土佐商会閉鎖
      閏4/27  海援隊解散



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 亀山社中 玄関


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 龍馬着用紋付


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 月琴など展示物



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 龍馬のブ−ツ像   このブ−ツを履いて眼下の長崎を眺める


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 土佐商会跡  市電西浜町ア−ケ−ド前停留所脇


   2018-7-20

海援隊士
 http://hayame.net/custom32.html#spb-bookmark-503






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2018年07月18日

名護屋城


 名護屋は秀吉が尾張中村の出だから、名古屋と関係があるのかと思っていました。よく考えてみれば名古屋は、秀吉死後の関ケ原以降に家康が作った名古屋ですので、関係がないと分かる。 当時に尾張の中心は信長以来の清州だった。

  松浦水軍である波多氏一族・名護屋経述(つねのぶ)が領した垣添城がここにあったとされる。それゆえに名護屋城と命名されたのか。

 秀吉の朝鮮出兵の前線基地として、わずか5か月で築城された。大阪城に次ぐ城であったと云います。 地図を見るとこの位置が、朝鮮・対馬・壱岐・名護屋と一直線になる。朝鮮への出兵へ、この立地は好都合であった。 秀吉の死と共に廃城となる。わずか7年余であった。城の周りは諸大名の陣屋があり10万とも20万人が住んだといわれる。島原の乱のときに原城のように利用されるのを嫌い一層破壊された。 唐津城や仙台城に遺構が一部移されたという。

 この地がその後も開発利用されることがなく、長い間忘れさられていた。 幸いにも、最近よく目にする、本丸に野球場や役所・学校等が建つこともなく現在まで残る。城の遺構が櫓や天守は無いけれど、そのまま残った。 入り口には博物館があり、まずそこを見学するとよいでしょう。陣屋跡は時間が無くその詳細を見ることはできなかった。由緒ある広沢寺も行けませんでした。


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 名護屋城博物館


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 大手門


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 本丸大手


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 天守台


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 天守柱石跡


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 天守から望む


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 遊撃丸


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 馬場跡


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 搦手口


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 馬場櫓台


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 2の丸長屋建物跡

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福岡 聖福寺 方丈  名護屋城から移築


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 博物館の展示 安宅船


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 丹羽長重陣屋跡

  2018-7-18


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2018年07月16日

生月島 オラショ紀行


 幕府下でのキリスト教禁教のときに棄教しなかった信徒たちを「隠れキリシタン」と呼んでいる。明治になって解禁後も、カソリック教会に属さず守ってきた信仰を維持している人々を「カクレ(かくれ)キリシタン」と呼ぶことがある。 禁教下の信徒総称を「潜伏キリシタン」とし、合流しなかった人を「カクレキリシタン」と区別しているという。 教徒でもない爺には、そのことはどうでもよいので、今までのように「隠れキシタン」を使っていきます。

 6月に「潜伏キリタン関連遺産」が世界遺産になると報道がありました。それには生月島の遺産が、それより外されています。 その理由に、カソリックに復帰しなかった信者が、この島に多かったからではないかと言われています。

 ここに「オラショ」で、爺のこだわりを書いていますが繰り返しません。若い頃より訪ねてみたかったところでした。


 http://www.yk.rim.or.jp/~guessac/orasho.html

 ヨットで行くことはできませんでしたが、平戸からバスに乗りました。曲がりくねった山道を走行します。今は橋で平戸島と繋がっていますが、それまでは大変だったでしょう。

 生口島にある平戸市博物館には隠れキシタンと昔栄えた捕鯨の展示が見られます。そこでは、秘かに隠し持ったマリア様 ちょんまげヨハネ様の掛け軸や踏み絵など貴重な展示物があり、往時の家屋内の信仰風景が再現されています。
 この後で五島に行って世界遺産の4教会や他の教会も多く目にしました。しかし教会内部では生口島の山田教会がピカイチでした。写真は現役教会では撮影禁止ですのでありませんが。


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 生口大橋

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 キリスト教墓地


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 生口観音   キリシタンに対抗したのか? 大きなものです


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 山田教会


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 踏み絵


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 キリシタン信者の移動と分布


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 隠れキシタンの農家を再現

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 ちょんまげ ヨハネ様


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 マリア様


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 千人塚  殉教した人々が埋められた。


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 生口島と平戸島の間にある聖地中江之島(世界遺産)
  聖水をここで採取するという。


  2018-7-16




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2018年07月13日

平戸城


 平戸瀬戸を航行している時に見る、また平戸に停泊しているときに、ライトアップされた平戸城をキャビンから望むのは格別のものである。 ブランデーやワイングラスを手にしていたら、さらにと云ったところでしょう。

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 松浦鎮信(まつらしげのぶ 1549-1614)が城建設を開始。関ケ原では子の久信が西軍に属したが、東軍に与し疑念を招かないように城の一部を焼却した。家康は壱岐と松浦郡6万千石を安堵した。慶長12年・1607に大火で平戸城は全焼した。これも幕府に疑念を持たれないような行動ゆえとも言われている。100年後に幕府の許可を得て、宝永4年・1707に再建された。再建にあたって赤穂城と並んで山鹿流の城郭といわれる。


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幸橋(重要文化財) オランダ式のアーチ石橋

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天守

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地蔵坂櫓


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北虎口門(搦手門)

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見奏櫓


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乾櫓


  2018-7-14


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