2018年01月13日

海員組合を作った男  浜田国太郎 1873-1958


 弓削島から「ゆめしま海道」の橋を渡って自転車で生名島に行く。2016年夏にヨットで弓削を訪ねた時、温泉に行く途中の民家に「海員組合を作った男」のポスタ−を見かけて、気に掛けていました。2017年12月再訪してみると、その海父といわれる浜田国太郎の彫像が再建されたことを知ることになり、見て来る。 先の大戦において、金属供出でそれは台座から外されていたものです。

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 彫像

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 彼は明治6年10月25日愛媛県生名島生まれ。12歳から船員生活に入り、明治26年日本郵船に入社、火夫長として各船を乗船。明治39年日本郵船の火夫長を糾合して機関部倶楽部を創立。のちに他社の船員にも呼びかけて組織を拡大し、日本船員同志会と改称して、明治45年のストライキに勝利。以後海上労働運動の指導者となり、大正3年友愛会に参加。9年ジェノバで催された第2回ILO総会に船員代表顧問として出席。帰国後船員団体の大同団結にのり出し、大正10年日本海員組合を創立し副組合長となり、昭和2年組合長に就任。10年組合長を辞任し、その後は宗教運動に関心を抱き、12年僧籍に入る。戦後は青少年の補導・教育につとめた。

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中央に国際運輸労連・ITFフィンメン書記長、その隣が浜田国太郎


 船員の組合は職能別・企業別・地域別など20以上に分かれていたという。1921年・大正10年に23団体が統合して日本海員組合が設立された。これは下級船員の組合であったが、海技免許を持つ職員の組合化も進み日本海員組合と密接になる。1935年・昭和10年には彼は組合長を辞職したが、組合員数10万人を超える。当時の組織労働者が40万人であったので1/4が組合に属する船員労働者であった。 戦前から年金と健康保険が船員には制度化されていた。こうした制度をつくる力に組合は貢献したのであろう。日中戦争が始まり1940年には解散に追い込まれます。 戦後は産業別単一の労働組合として再建された。1954年にはユニオンショップ制を協定。1972年91日間のストライキを決行。以上は組合史の概歴です。

 外航日本人船員は1974年のピ−ク時で約57、000人から2009年に2、400人と減少しています。スキルを維持できるレベルの船員数ではありません。今では、極めて例外的に巨大タンカ−やLNG船の幹部船員として4名ほどの日本人を乗組みさせている。

 大手船会社の一例です。800隻を運航して自社で200隻を管理している。それに7200人の船員を配乗して、日本人は400人程度の現状です。日本人船員の経費は船員費ではなくて管理費として計上している。運行管理で実務の経験のある日本人人材が欲しいということなのでしょう。

 小さな輸入代行業者をやっているので、アメリカから船積でヨット・ボートを持ってくることがあります。荷降しの立ち合いで外国船に乗船することががあるのですが、その船の乗員構成は、職員は西欧人で下級船員はアジア系で乗組む船ばかりです。 外航船員の職場が無くなったのではないと感じます。日本の海員組合の方針が間違ったのではないかと思っています。

 組合長の選挙で裁判になり無効の判決がでました。組合の事務員の不当労働行為で組合が訴えられています。いったいこの組合は何ぞやと思うばかりです。 

 他の組合でも組織率が下がり、正社員のための組合でしかないような状態です。かっては下級船員は乗船時のみの期間雇用で、今の派遣社員のようなものでした。浜田はそれを組織化してまとまった組合に育てました。
 今の外航船員はユニオンショップ制ゆえにアジア人でも組合員として雇用しなければなりません。従い組合費を払ってくれて会員組合自体は盤石です。我が国は交易立国であるので、いったん有事になれば船員徴用が避けられないでしょう。組合も反省の上に立ち手立てを考えてほしいものです。


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勝田銀次郎

 余談ですが、ここで800人のソ連の子供を救出した陽明丸の船主勝田銀次郎さんのことを書いています。その勝田汽船と海員組合との争議で組合長の浜田国太郎がこう述べています。 「彼が勝田汽船の社長時代に、日本の海運界がドエライ不況に見舞われて、給料の遅配・欠配で労組と対決沙汰になったことがあった。彼は家財道具まで売り払って事態の収拾にあたり、世間をアッとうならせ、組合を感激の涙でぬらした一コマは忘れれない思い出である。
彼は人を愛することに徹しきった。彼の眼中には財宝も地位も名誉もなかった。彼は “垢抜けのしたバカ” だった」
 雇用主の責任を自覚している勝田さんだからこそ陽明丸の偉業をなしえたのでしょう。

   2018-1-13







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2018年01月10日

「人名」政・にんみょうせい


 ヨットで与島を再訪した。そこは今では瀬戸大橋で架橋され本四がつながっています。その橋げたのような小さな与島です。徒歩で一周する。「人名(にんみょう)」の石碑を見つけました。それを説明するものはありません。「人名」とは何でしょう。

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与島人名の碑

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塩飽列島  赤点は「人名政」のあった浦々

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塩飽勤番所

 塩飽諸島は本島、広島、与島、手島、佐柳島、高見島、牛島、櫃石島 、沙耶島、瀬居島などからなる。現在は埋め立てられて坂出の一部になっている島もある。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

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年寄の墓

 耕地面積は狭く米作は少数で麦作であった。 また、付近の漁業権も許されたが、漁業に従事するものは少なかった。 川村瑞賢の西回り航路(1672年)の開拓により塩飽衆は一手にその輸送を担い繁盛したが、「菜の花沖」の高田屋嘉平のような廻船問屋に押されて廻船業は衰退していった。しかし船大工の技術が優秀であったのでその後は大工業・船乗り渡世になっていく。優れた操船能力は維持されて、幕末には咸臨丸の船員の大半を占める。「人名政」は明治まで続いた。塩飽の島々は次第に忘れられて過疎の島になる。

 テレビの鑑定番組で、旧家の倉庫に退蔵されていたものが、「若冲」の鶏の絵であったのが注目された。往時の繁栄がしのばれる。


    2018-1-10




 



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2018年01月04日

佐島と生名島


 弓削島よりレンタサイクルで佐島と生名島を廻ってみました。ゆめしま海道が弓削大橋と生名橋で弓削・佐島・生名の3島をつないでいます。岩城島への架橋工事も始まっています。この3島と岩城島は愛媛県上島町の行政区域になります。

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弓削大橋

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佐島港と生名橋

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岩城島への架橋工事現場


 佐島は30分もすれば1周できます。港近くでの売店でパンの日の看板を目にしました。週に何日かパンが販売されるようです。隣の弓削に行けばス−パ−もコンビニもありますから、不便はないでしょう。

 生名橋を渡れば生名島です。車の人はこの島よりフェリ−で因島に渡るのが順路です。因島には大手の造船所がありお勤め人はそちらへ向かっているようです。

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麻生イト

 生名島には郷土の偉人が2人います。一人は女傑で麻生イトです。造船関連で財を成して、地元に幼稚園や公共のために還元しました。映画「悪名」で実名で描かれているそうです。晩年は生名に家を建てて過ごし、そこが三秀園として公園になっています。

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三秀園

 もう一人は海員組合を作った浜田国太郎です。海父と呼ばれて銅像が建てられて、
それは戦時中に撤去供出されたが昨年再建されました。

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山頂に浜田国太郎の彫像が見える。

    2018-1-4



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2018年01月03日

岩城新城


  甘崎城の支城

甘崎城と岩城新城とで鼻栗瀬戸へ向かう4つの水路を抑えられます。

 1大三島と生地島の水路

 2. 岩城島と生口島の水路

 3. 岩城島と赤羽根島の水路

 4. 津波島と伯方島の水路

 村上海賊の砦は要所に多く存在しますがそれらのひとつです。

  藤堂高虎が甘崎城を改造したのだが、ここをそうしたという云われは残っていない。この岩城島の反対岸には亀山城がある。

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 岩城新城  岬の鼻のようなところには城跡が多い



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 岩城新城から甘崎城を望む


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    2018-1-3
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2018年01月02日

岩城島


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高速艇 今治−岩城−弓削−因島・土生など島々を結ぶ

 弓削から320円で高速船に乗り岩城島に着きました。現在はフェリ−で行く孤島ですが平成30年代前半には「ゆめしま海道」とつながる架橋工事がおこなわれている。

 さっそく自転車を借りて島を回りました。レモンの島とも云われ青いレモンが有名です、春には桜の名所でもある。村上海賊の砦・亀山城や甘崎城の支城と言われる岩城新城といわれる城跡も見た。


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温泉ホテルと造船所の宿泊施設

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いわき海の駅  冬の季節風を防ぐには良い係留場


 江戸時代には伊予松山藩の島本陣が置かれていた。現在は岩城郷土館として見ることができます。

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岩城郷士館

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邸内1

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邸内2



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岩城造船 他にも3社があり


 今回は冬で見られませんでしたが、桜の季節には積善山に3千本の桜が見られるという名所がある。

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    2018-1-2
posted by 終活・克ヨット at 05:31| Comment(0) | 日記