2017年02月24日

折敷畑の合戦

 マリ−ナの今年度の申請に船検関係の書類を提出するために4泊5日で広島に行きました。コピ−を自宅に持っていれば問題なかったのですが。 ヨット泊で、寒くて毛布を2枚も追加購入するはめになる。小型のセラミックヒ−タ−を使用していてもバ−スで震えていました。 整備の合間に広島近辺を散策する。その報告です。

  折敷畑古戦場に3日間かかり行きました。 初めは自転車で、東側の速谷神社の方へ行ったようです、見つからずに断念。 翌日に観光課に聞きに行き、下図のような地図をもらいました。バスでの行き方を訪ねましたが、担当者は行ったことがないとのことで、教えてもらえませんでした。
 3日目も自転車でめざしました。専念寺までたどりつきましたが、徐々に坂道の登りになってきたので、しばらく行ってJR宮内串戸駅まで戻り、そこからタクシ−に乗る。折敷畑山のふもとで、3人ほどの住人に尋ねて、やっと登山道入り口につきました。しめて3300円也です。 まだここまでは良かった。

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 JR宮内串戸駅よりの地図

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登山道入り口 プレ−ト


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 案内プレ−ト

  いよいよ白いプレ−トの案内板の矢印の方向へ登山開始です。 徒歩1時間とのことですが、まあ、大変、ほとんど訪れる人がいないのか、登山道はまったくメンテナンスがされておりません。倒木があちこち道を塞いでいますし、草が自由に茂って邪魔します。山刀でジャングルのように斬り刻んで進みたいほどです。案内板の方向表示に間違いがあれば迷ってしまいますが、これは幸いにも正しかった。それでもこちらが見間違えて行けども、おかしいと感じ引き帰したことがあり。途中で枝を拾い杖にして、登り下りに支えとしました。 途中で鎖が道に沿って50mほど敷設してあるところがあります、急な所なのでこれを掴んでなければ上り降りできないところであった。 目的地(8合目)近くになると、日ごろ使っていない骨が痛むし筋肉もツリそうになる、息が切れるので10m行っては深呼吸で休息する、この繰り返しでやっと到着しました。桜尾城を望むところへの案内板があり、そこに行ったが木が生い茂って視界をさえぎりはっきりとは見ることができませんでした。

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 倒木が道を塞ぐ
 
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8合目にある 宮川甲斐守陣地跡

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はるか厳島を望む



  折敷畑の戦いとは、 1551年に大内義隆が重臣・陶晴賢らによる謀反により討たれた時に、毛利氏は大内氏に従属していた。その時に、石見国津和野の吉見正頼は陶氏に挙兵した。毛利氏は大内氏を離れ離反・独立を図った。 陶氏の家臣・宮川房長は毛利氏と戦うべき桜尾城を見下ろせる折敷畑山に布陣した。桜尾城から出陣した毛利軍は3方向に分かれて急襲して倍近い敵兵を撃破した。 厳島の戦いの1年前でその前哨戦ともいわれる。
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  急峻になっている尾根道を歩くところから、風の強いことが予想されるときには、飛ばされないように注意が必要です。行きに2時間帰りは1時間ですが、帰りとて楽ではありません。帰りは4季の丘団地へ下る道を選びました。幅50cmで急な崖路を下るところがあり、滑落したら命の危険がありません。携帯を持たなかったり、通じなかったり、単独であるなら、月に1人くらいしか通行する人がいないようなところなので、助けを求めることは絶望です。広島で大雨後の土石流の事故があったのを憶えていますが、その流れた水路のような急な下り道を降りてくるには、1歩1歩杖で支えて降りるほかなく、落ち葉の貯まった道をすべらないように降る必要があります。

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 落ち葉で滑りやすい下り道

 無事に四季が丘小学校の横に下りることができました。そこから15分ほどでバス停があり帰ることができました。 わかりにくいが、ここからの往復だと、四紀が丘行バスが使えます。
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 四季小学校近くの登山道標識


老婆心からの 登山注意点
1. 雨天の日または翌日は避ける。 すべりやすいので。
2. 7-8m以上の風の吹く日は避ける。
3. スパイク靴、登山靴など滑りにくい靴を用意する。
4. 杖と軍手を用意する。 ロ−プやピッケルを用意できればさらに良い。



    2017-2-24



posted by 終活・克ヨット at 11:53| Comment(0) | 日記

2017年02月06日

ヨットと難民



 トランプ大統領の入国規制が,連邦控訴裁の仮処分で一時のスキマができました。続々と影響を受けた人々が飛行機に乗り込んでアメリカに殺到しているでしょう。 ドイツは難民を引き寄せる政策をとりましたが、今となっては、そのハシゴをはずしてしまい、ドイツまでの通過国で移動してきた人々は極寒にテントを張り滞留しています。報道は少ないけれど。

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 マジョルカのマリ−ナでの上架「PING906」 52fケッチ

 かって地中海のマジョルカに友人とヨットを購入して置いていたことがあります。当時の欧州はまだ問題が今とは違いました。スペインでは国内に居るヒタ−ノ(ジプシ−)、国際的には赤色テロの問題でした。プラド美術館では館内で絵画を見ている時に私服からパスポ−トの提示を要求されたことがありました。日本赤軍が問題になっている時だったので。
 
 夢がかないませんでしたが、ヨットでのエ−ゲ海クル−ズは、今となっては警戒が厳しく航行するのに無理のあるものになっているでしょう。 当時でもイタリアの刑務所のある島の沖で錨泊したとき、またスペインのアリカンテ沖を航行していた時には警備艇が接近してきて、機関銃の銃口を向けられて尋問されたことがあります。語学の達者な友人が同乗していましたので、問題はありませんでしたが。軽い職務質問だったのでしょう。友人のカミさんが米国人で一緒だったので、その姿を警備艇から目にし、貧相にみえる東洋人がヨットに乗っていても、クル−にしか思えなくて不審に思われなかったのかもしれませんね。
 マジョルカ島のパルマ湾にリビアを空爆した米空母が停泊していてヨットで接近して見にいっても自爆テロの時代ではなかったので問題になりませんでした。

 友人が新しいヨット39fケッチ「アトランテイス号」を買い、大西洋を横断することになり、ジブラルタルに立ち寄る。 多分水の補給が必要だったのでしょう、詳しくは忘れましたがそこからジブラルタル湾内にあるスペイン本土の港の岸壁に停泊しました。まだ東ドイツは日本のパスポ−トには入国規制が記入されていた時代で、東西ドイツに壁で隔てられるときでしたので、どうして東ドイツの青年が出国したのかわからないけれど、彼がヨットの横まで訪ねてきて、同乗させてくれないかと申し込まれました。 かって、我が塩野七生さんもエ−ゲ海をヨットに同乗してクル−ズされた体験があったように、欧米でのヨットヒッチハイクの習慣は、日本では考えもしませんが、耳に聞く話でした。 友人は狭い船内に知らない人を乗せる気にはならないので断りました。爺も同意見です。彼はヨットの横の岸壁で一晩過ごしたようで、翌朝にも見かけました。それに気が付いて、かわいそうな気分にもなりましたが、こちらの気が変わりませんでした。今ならイスラムの人達が同乗を望む状況なのでしょうか?

 少し話が変わるけれど、マジョルカではチェコスロバキアの若いカップルに出会いました。地中海で小型ヨットを自作し、あちこちクル−ズしてそこに来て、マリ−ナで船底塗料を塗るバイトをして稼いでいました。彼らから自転車を購入しました。我々は彼らよりも、もっと貧しい東洋人であったのかもしれません。 彼らは後にアメリカに渡り「自由への逃避」ということで有名になったと聞いています。

 当時の欧州は冷戦とはいえ同じ文明どうしの問題で、今から比べれば異文明・異宗教の問題ではなかった。
 昨日の報道でシリアの難民を300人を日本が受け入れるということです。よほど慎重な行動が必要でしょう。安易に人道に走っても、後日に大きな禍根を残します。

       2017-2-7



posted by 終活・克ヨット at 22:38| Comment(0) | 日記