2020年08月11日

鞆城

  




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  鞆の浦には鞆城ができる前には鞆の浦に隣接する島に大可島城があった。1553年頃毛利元就の命により、尼子氏の抑えとして鞆の浦を望む丘に鞆要害を築いた。1575年そこに京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護のもと「鞆幕府」を開いた。 

 1600年・関ケ原の戦い後に安芸・備後を領した福島正則がここを修築した。本丸、2の丸、3の丸と1609年まで築城された。城域は北は沼名神社参道、東は福善寺南は鞆港の大規模でなものであった。3層3階の天守があったというが、家康の嫌疑がかかり廃城となった。

 福島正則1619年に広島城を幕府に無断で修理したとして改易されるが、それ以前に鞆城の件があったのだ。その資材は福山城新築にに持ち込まれたという。江戸時代を通して町奉行所が置かれた。 





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 この石垣は当時のものかは不明、ここを登ったところにある歴史民俗資料館あたりが本丸






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 3の丸石垣



     2020-8-11






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2020年08月09日

津山・城東むかし町

 
      国の街並み保存地区




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     津山城下町図  武家屋敷は灰色部分



 津山城を見た後で出雲街道沿いにある城東街並み保存地区へ向かう。10分もかからずに徒歩で訪れることができる。
街道沿いに1qに渡り古い町並みが残っている。両替商を営んだ梶山邸や蘭学の箕作阮甫の生家が見られる。
 



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 街並み その1




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 街並み その2




 箕作阮甫(1799-63)といっても、その名前を憶えている程度で幕末の人位の認識であった。 調べてみると医者の家に生まれ、藩医になる。 藩主と供に江戸へ行き蘭学を学ぶ。

 幕府に召し抱えられて藩書調所の首席教授に任じられ、ペリ−の国書を翻訳した。 医学、兵学、語学など多数の書を世に出した。 息子がいなかった関係で優秀な弟子と娘を結婚させたので後に有名な学者を輩出している。明治になる前に亡くなった。





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 箕作阮甫旧宅




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 箕作阮甫の庭





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 旧梶村氏邸  元禄の時代からの商家 庭園は国名勝地
 


   2020-8-9











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2020年07月31日

燃料漏れ



 昨年はオイル交換を自分でした。 今回はオイル交換と燃料フィルタ−の交換を業者に頼んだ。 クル−ズ出発日に発行前点検をしたところ、油漏れが見つかり修理をしてもらう。

 最初は燃料フィ−ドポンプの部分から垂れて漏れているように見えたので、このポンプを新品に取り換えた。

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 燃料ポンプと漏れ箇所



 修理完了までに時間を要し出発予定時刻を過ぎた。 従い下津井瀬戸の潮流が逆流になり通峡中には船速は1ノット台になったが、何とかそこを無事通航する。 それでも、目的地・白石島まで1時間ほど余分に時間がかかり入港した。

 着岸後にエンジンの点検をしたところ、ビルジ溜まりに軽油が1cm位貯まっていた。 修理がうまくいっていないようだ。 これより先のクル−ズプランを断念して母校・倉敷へ帰ることにした。 帰港してから、業者を呼んで再度修理をしてもらう。 上図にあるポンプから燃料フィルタ−に続く鉄製燃料パイプの締め付けボルトが1/4ほど緩かったので、それが燃料漏れの原因だった。
 先日の作業で燃料フィルタ−交換の際に、業者はエンジン本体より燃料フィルタ−ケ−スとそれを接続している鉄製燃料パイプをはずしてフィルタ−を交換した。 元に戻す組み立ての際にボルトの締めが甘かったようだ。1/4程ゆるかったので最後までガツンというところまでボルトナットを締めなければならなかった。

 教訓をひとつ、ポンプあたりに起こる漏れは、他の原因でもここに漏れが集まりやすい傾向がある。それを見つけた場合は、そこに至る部分からの漏れがその原因になることに留意する。

 デイ−ゼルだから軽油漏れでガソリン漏れではなかったが、漏れに火が付くことがなく幸いであった。 エンジンを普段からキレイにふき取っておき漏れに速く気が付くようにしておくことが大事だ。


    2020-7-31


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2020年07月29日

白石島

     

 北木島には「ゆうこうまりん」のセ−ルロフトがあり、昨年に楠港に着けてメインを担ぎ持ち込み修理してもらいました。 その北に白石島があります。 白石島の新港が東岸にあり係留した。 そこはフェリ−・連絡船乗り場のある旧港に比べれば広さもあります。 しかし、意外とヨットを着ける場所が見当たりません。 港内でぐるぐる航走しながら探していました。 たまた同時期に入港した漁船が見かねてポンツ−ンに駆け寄って来て、“ここへ着けよ”とモヤイを取ってくれました。 親切な地元の人に感謝です。 ここに3日間ご厄介になりました。

 到着後にエンジンの点検をしたところ、出港前に業者を使って修理してきているのに、燃料漏れが見つかる。 ビルジたまりに1cm位の軽油が溜まっていた。 従い、これからのクル−ズは断念する。 プランを変更し、気も取り直して、鞆の浦、真鍋島に行くことにした。フェリ−と高速連絡船を利用してそれらを訪ねました。 



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 白石島と北木島 地図






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 連絡船乗場 付近



 係留期間中の漁船の動きはほとんど見かけずに、現役の漁船が置いてあるようには見えなかった。 微妙な間隔で係留していて、槍付けするのならスペ−スがありそうです。このポンツ−ンの横に漁船を上げるスロ−プまでの間には横付けできるスペ−スがある。 まあこのポンツ−ンが使用可能ならベストです。




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 新港 ポンツ−ン  左の大型漁船に伴抱きも可能とのこと、 左にあるスロ−プとの間にも横付けできそうです。


 この赤いポンツンに係留






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 ヨットも3隻ほど係留している。



 ここより「連絡船のりば」へは徒歩10分くらいで行ける。 お風呂は無し、買い物は地元の小さいお店がある。 ガソリンスタンドは見かけなかった。


     2020-7-29






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2020年07月27日

笠岡城


 瀬戸内にある「お城」によくある例だが、塩田や干拓に城の石材などが利用されてしまった。この例のひとつが笠岡城である。 笠岡城の名称も使われずに「古城山」としている。

 そこへ行くには、大きなス−パ−の裏にある山道を登っていく。 笠岡城跡・古城山公園をめざす。 ふもとに関鳧翁(せきふおう)の墓があった。  墓に書かれてある名すら分からないので、知らべてみる。 幕末の漢方医・歌人・国学者である。 彼の歌日記にはペリ−来航のようすが詳しく述べられている。 隣の福山藩が幕末の譜代の大老阿部正弘の地であることから、こんな田舎にもペリ−来航の情報が入手できたのかもしれません。

 笠岡城は1556-1558に能島村上水軍の一族、村上隆重が築城。関ケ原合戦後に家康の所領となる。1616池田備中守が入る。1619に備中松山城に移り廃城となる。

  村上水軍・海賊衆
   http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-264


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 古城山・笠岡城公園  案内図


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  関鳧翁(せきふおう)・関政方(せきまさみち)1786-1861の墓   


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 このような道が出来ていて車でも行ける


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 石垣が見えた


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 公演は平らに聖地されていて、 城との関係は不明  本丸と思われるが。


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 下を眺めて見る


   2020-7-28



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2020年07月24日

由加神社と蓮台寺



 ゆがさん・こんぴらさん両参りと聞かされても、今では地元の人以外には知られてない。江戸時代から明治にかけて、夢である金毘羅参りの途中にゆがさん(由加神社本宮)で災難・交通・旅行安全の参詣をしてこんぴらさんへ。十返舎一九も参詣したという。 ここは行基が開いた神仏習合の瑜伽大権権現であり、明治になり神仏分離令により由加神社と蓮台寺に分かれた。


 蓮台寺の檀家であるNさんに連れられてここを参詣した。 バス便も有るが、細い曲がりくねった山道を車でいく。 昔は海沿いの田の口・琴浦に鳥居があった。この地で乗下船して参詣をした。 当時の参詣は山歩きになるので大変だったと思われる。




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 由加神社・蓮台寺、 児島、 宇野の位置





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 歌川広重   由加山






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 歌川広重 備前田の口鳥居





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  蓮台寺  日本3大権現のひとつ、厄除けの総本山といわれる





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 多宝塔   1670倒壊して1843再建


 備前藩主池田候の祈願寺として栄えた。 客殿には襖絵が多くあり、丸山応挙が見られる。





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客殿 群仙の間





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 客殿






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 客殿 庭





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  由加神社本宮 拝殿    全国に末社が52社ある


    2020-7-24


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2020年07月21日

真鍋島  



 白石島から高速船に乗り真鍋島へ行ってきた。 真鍋城とヨット停泊地を探る目的であった。


 真鍋島・本浦港の桟橋で船を降りて、海岸沿いの道を城山方面に向かう。 途中で同じエプロンをしたお地蔵さんを数か所で見かけた。信仰の厚い島民がいるようだ。静かな佇まいで車や人に会うことは少ない。 普通船だと岩坪港に寄港する便もある。






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  笠岡諸島  白石島から真鍋島航路  (笠岡−高島−白石島−北木島−真鍋島)









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 真鍋島案内図






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 真鍋島本浦港 高速連絡船乗り場  中央緑の桟橋




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  道端のお地蔵さん




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 岩坪港 普通連絡船赤桟橋



 都会からの移住者が建てられたのか、デッキのあるシャレタ家の住民に城山への道を尋ねる。この横のみちを登って行けると教えてもらう。

 この島を支配した藤原氏を由来とする、また。島の名前にもなった真鍋氏のお墓だという五輪の塔を見る。


 真鍋島移住案内サイト
 https://manabeshima.life/





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  五輪の石塔群  真鍋氏の墓と言われる  



 そこから道なりの道を登っていくと畑のあぜ道に迷い込み、帰れるかと焦ってしまう。  何とか引き返しておばあさんに会い、道を教えてもらいました。 しばらくして案内板がある。




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 城山案内板



 さらに登っていくと、遊歩道は草に覆われて見分けがつかない。 連絡船切符売り場に用意されていた杖を借りていたので、小雨用に持っていたかさと杖を持ち両手で笹をかきわけ搔き分け分け前進する。やっとの思いで着いたところは名も知れぬお墓だった。そこも道を間違えたらしい。  城山展望台(備中城山城)断念してもどる羽目になった。 そこから遊歩道を南下して備中真鍋城も訪ねるつもりであったが、これも行くことができなかった。

 後で連絡船の関係者にこのことを話して尋ねたところ、年に1回ほど遊歩道の草刈りを実施するが、そのあと1か月くらいで草が生えてきて元の木阿弥になるのだそうだ。





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 草に隠れた遊歩道



 本浦の連絡船乗船所にもどり帰りの便まで1時間ほどあったので近くの街並みを見学した。 真鍋氏の本宅は空き地になっていて立て札があるのみであると聞き、分家の真鍋宅を訪れる。 ホルトノキが軒先にあります。




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 真鍋邸 国指定登録文化財  現在は居住していない





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 ホルトノキ 

  ホルトノキは、熱帯〜亜熱帯性の常緑高木で、暖かい海岸沿いに自生しています。
ホルトとはポルトガルの意味で、昔、果実の形がオリーブに似ているために誤認され、名付けられた呼び名という説があります。 




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  街並み





   真鍋島 ヨット泊地



 本浦港は狭いので適当なところはない、入って左側に青い県営ポンツ−ンがあり、定期船が利用していないのなら、利用していてもその反対側は着けられそうである。



 マリンドライブさんの報告では漁火で宿泊・飲食するようなら、お店の桟橋に着けられるといいます。下記にサイト添付。



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 県の公共青桟橋



 真鍋島 ヨット停泊レポ−ト  マリンドライブさんによる  漁火 0865-68-3519
http://www.marine-drive.net/%ef%bc%91%ef%bc%90%ef%bc%94%e3%80%80%e7%9c%9f%e9%8d%8b%e5%b3%b6/


 岩坪港にはコンテナクレ−ンらしきものがあり、あまり利用していないようなので、その近辺で着けられる可能性はあります。

  

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    岩坪港 コンテナクレ−ン?



 他に島宿「三虎」に専用桟橋があるので、天気の良い時には付けられそう。


     2020-7-21







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2020年07月18日

倉敷・美観地区



 大原美術館のある倉敷へは前々から行ってみたいところであった。 ヨットの上架船艇塗りで宿泊を必要としたことから、倉敷に宿をとった。 ちょうど第1次コロナの減衰期にあたり縛りが解けたので、ありがたいことに半額でホテルが利用できた。 上架作業を終えて夕方より美観地区を見学する。 ここ3年程に瀬戸内に在るいろいろに街並み保存地区を小生は見てきたつもりである。規模やその質はそれらに比べてこの美観地区が高いものであると思う。 今後もここを上回るものを探しても無いと思われる。

 倉敷は天領であったので、米を倉敷川を利用して集積し、江戸に船で運んでいた。 また、玉島で述べたように、この地方は綿花の栽培地であったので維新後に倉敷紡績(クラボウ)が起業して発展した。 クラボウの社主・大原総一郎が街並み保存を思いつき現在のようになる基礎を築いた。大正の時代から保存に力を尽くしたので、これほどになったのでしょう。

 欧米の美術館も最近では比較的容易に見られる状況になり、毎年のようにそこから借りてきた作品の美術展が開催されている。それで、大原美術館の見学は今回は時間的に限られたゆえに見送った。 また、年に1度は船艇塗りを行うゆえ別の機会に譲りたいと思う。



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  美観地区入り口


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 倉敷川左岸間所の街並み


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 大原美術館


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 名の知れない裏道り


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 アイビ−スクエア入り口


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 アイビ−スクエア


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 本町街並み


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 有隣荘  大原家旧別邸


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 国指定重要文化財 旧大原家住宅



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 中橋と倉敷考古館


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 倉敷川左岸の街並み


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  倉敷館


    2020-7-18




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2020年07月17日

児島ビジタ−バ−ス



 岡山県倉敷市・児島で観光港でビジタ−バ−スの運用が始まりました。そこは今まで余り使用されていない桟橋・ポンツ−ンであったので望まれていました。

 JR児島駅の近くにあり、乗下船に便利であり、ジ−ンズの町や鷲羽山,野崎家旧宅など観光スポットがあります。

 電気と水の補給できないのは残念である。これらが整備されれば、弓削や上関のように「ヨットの聖地」と呼ばれる条件はそろてっている。ここは弓削に40マイルと好立地であリ、弓削の前の停泊地となるであろう。 また、長さが60m(喫水2.7m)あるのでメガヨットの利用も可能である。



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  観光港ビジタ−バ−ス入り口の案内板



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 ビジタ−バ−ス  ポンツ−ンの後ろ側半分のスペ−ス・3号桟橋

 

  利用には事前予約が必要である。 児島観光待合所 0830-1715受付 電話 086-473-0920、 FAX 086-473-4184(申請書) 

  係船料金 総トン数1トンにつき6.6円  (安価であるが試行料金)


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     2020-7-17








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2020年07月15日

赤穂城


   赤穂城に行ってきました。 赤穂線に岡山から乗っていったのだが、途中で乗り換えていく羽目になった。岡山から赤穂までの通しの運転は時間に1本程度の運行である。岡山から山陽線で相生それから赤穂線で赤穂の経路のほうが本数も多く便利なように思われる。

 JR赤穂駅からほぼ真っ直ぐ徒歩10分位でお城に着く。 途中に花岳寺は赤穂浪士のお墓がある。

 

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 花岳寺


 

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  花岳寺から赤穂城へ行く途中で見かけた街並み


 赤穂浪士で有名な赤穂藩は広島の浅野長政の傍流の浅野長重による。1649年より赤穂城の築城工事が始まる。1661年に城が出来た。 現在は海岸から離れているが、すぐ海岸が迫っており水手門や船溜まりがあった。 本丸の周囲に2の丸が囲み南側は海、東側は川、その北に3の丸が配置されていた。横から銃撃できるように意識された縄張りの近代的な城である。



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 赤穂城模型




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 大手門2層隅櫓





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 2の丸大手門





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 桝形虎口





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 大石邸長屋門(1500石筆頭家老)




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 2の丸堀




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 本丸表門・復元





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 本丸  本丸御殿跡  中央奥には天守台




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  天守台  天守は作られなかった




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 本丸 厩口門





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 本丸堀





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 水手門

  城跡には役所の建物や学校が現在利用しているのは多いのであるけれど、赤穂城のえらいところは、これらを撤去して復元工事をしているところである。発掘調査をして整備を現在もしているところは大変好感がもてる。先に津山城を見たが赤穂城を見習うべきと思う。 5万石の城としては規模も大きく努力もしていて見どころのあるお城である。

 余談だが、町も小ぶりで落ち着きが感じられ、住んでみたい候補のひとつと思われた。

 

      2020-7-15






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2020年07月11日

玉島・倉敷





 

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 備中玉島港図




 玉島は平成の大合併で水島や児島とともに倉敷と合併した。 市役所へ行くバスはどこでもよく整備されているのだが、それのない珍しい地区である。バスは新倉敷へ行くように路線がある。

 倉敷は幕府の直轄地として発展し、玉島は備中松山城のある高梁藩の飛び地としてあった。そこは北前船の寄港地として、また藩の蔵米の積み出し湊として栄える。 幕末には河合継之助が山田方谷に学ぶためにここへ立ち寄った。新島襄は備中高松藩の分家であった安中藩に属した。この藩が購入した快風丸の函館寄航に貢献し函館より米国へ旅立った。




 

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  北前船航路



 

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 河合継之助の逗留した船宿跡



 

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 同志社大学より寄付された快風丸模型  西爽亭にて展示


 歴史的街並み保存地区があり見どころもあるのであるが、案内板が整備されておらず残念である。 この街並みが残ったのは幕府老中筆頭板倉勝静を藩主としていたので朝敵玉島は燃やされる運命であった。部下150名と帰藩中の熊田恰(くまたあたか)が玉島で岡山藩に包囲され、藩の責任を一身に負うて西爽亭にて切腹した。玉島は救われた。



 

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 西爽亭 藩主御座所  熊田恰が切腹した血糊が残るという



 

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  大黒屋 1800頃の建物 廻船問屋として使用されていた





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  街並み その1





 

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 街並み その2



  松山城下町(現高梁市)とつながる運河(高瀬通し)で松島港は周辺で栽培された綿花と北海道から来たその肥料のニシンカスや昆布で通商で繁栄した。



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  河口に残る水門



  映画「ALL WAY 3丁目の夕日」の撮影ロケ地になった街並みがあるが、その往時に育った老人故にそれには興味が湧かない。



    2020-7-11












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2020年07月09日

鞆の浦

 

 初代のヨット速魚でこの鞆の浦の湊の中央位置に錨泊した記憶がある。はるか47年前のことになる。 新造した時に、造船所のある明石から係留地の宮崎・日向までの廻航途中で、とにかく初めて購入したクル−ザ−の航海ゆえ、不慣れで急いでいた。 夕方に来て朝早くには出て行く。アンカ−を上げるときにはヘドロが多く絡んきた、上陸せずであったので、この泥の記憶があるのみである。

  今度、ヨットで来るために係留場所を探してみたが、ふさわしいところは見つからなかった。 ここへ訪れたヨットマンによると、近くの仙酔島に係留して、今は帆船の形をしている連絡船で鞆の浦に来るという。 今回の小生の訪問は白石島にヨットを係留して、フェリ−(540円)で笠岡まで行き、JRで福山(240円)へ、バス(540円)にて鞆の浦に着いた。 それほど遠いとは感じなかった。

 

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 弁天島とその奥にある仙酔島


 瀬戸内の潮流はこの付近で東西からくるものが合流するといい。昔から潮待ちにふさわしい地であった。ここは古くから瀬戸内きっての湊町として栄える。 幕末には「七卿落ち」や龍馬が「いろは丸」の衝突交渉地としてこの地に立ち寄った。平賀源内の生き神様として祀った碑もある。


武田鉄矢が語る江戸期の海運と経済と龍馬といろは丸
https://www.youtube.com/watch?v=79k8yWOKhF8  30分


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  鞆の浦絵図




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  船具店の前に、知られてはいないが日本最古の民家がある。



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 日本最古の民家 秀吉の頃という 学術調査が行われた




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 龍馬滞在地、隠れ部屋があった




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 平賀源内の生祠




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  街並み その1




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 街並み その2




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 岡本家長屋門  福山城から移築された



 神功皇后が上陸された地に渡守神社御旅所がある。


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 渡守神社御旅所



 山中鹿之助の首塚とその横には悲恋斧語りの「ささやき橋」があう。

 

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  山中鹿之助首塚




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  ささやき橋  少し道路に段差がある程度で気付きにくい



 コロナの影響がまだあり、対潮楼といろは丸展示館は土日の開館に制限をしており、内部を見ることはできなかった。
 


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  対潮楼  よく唱愛されて紹介されて有名な場所である、ここから眺める景色はすばらしいと評判




 龍馬の乗った「いろは丸」は鞆の浦近くの海域で紀州藩の船と衝突沈没した。



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  常夜灯といろは丸展示館(中央白い建物)



    2020-7-9




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2020年07月07日

津山城・美作



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 古写真

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 津山城図



 岡山からJR津山線の終点。津山盆地にある津山城へ行ってきました。 信長の家臣の森可成の6男である森忠政が美作1国18万6千石の津山城を築城した。(森蘭丸の弟でもある) 1603-1616に及ぶ13年かかって完成した。 天守閣が5層なので幕府からにらまれ4層に見えるように急改造したという。
 歴代藩主は1604-1697までは森家四代、1698-1869まで松平家が九代続く。

姫路城を見た後なので小ぶりな感じを持ったが、戦国時代最後の完成期の城ゆえに防備がよく工夫され、あちこちから横矢をかけられるように石垣が組み合わされている。 見ごたえがあります。 しかもコンパクト。


 残念なのはこれだけの石垣が往時のままに残っているのに、行政が復元して見せようとする意志が乏しいように感ぜられる。 天守の再建は後回しにしても、デイテ−ルの門や櫓・塀を作ってもよいのではないでしょうか? その数59は姫路城や江戸城に匹敵したといいます。 欧米の教会建築・バルセロナのサクラダファミリアのように100-200年かけての長期構想を持ったらいかがなものでしょう。



 

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 59の櫓と門があった 赤数字



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 天守台  5層の天守閣があった



 

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  天守台より備中櫓へ


 

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 表鉄門 二の丸から本丸へ




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 表中門  階段を上がり左の階段を上ると3の丸から2の丸へ四足門に至る




 

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  四足門



 

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 多門櫓(コンクリ−ト敷地)より備中櫓を望む



 

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 腰巻櫓(階段横)と裏鉄門



     2020-7-7







   






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2020年07月04日

2020年 春巡航


  今年のクル−ズは5月からを予定していて、山陰へ向かい島根・鳥取・隠岐へ行くつもりでした。 武漢風邪騒動でその延期を余儀なくされ、瀬戸内クル−ズに変更しました。 しかし、エンジン故障によりそれも途中で断念することになる。 雨の日に修理・整備を中断して行く、徒歩旅行が結果的には中心になってしまいました。

 それで倉敷・玉島、津山、赤穂に行き、ヨットで行った白石島から連絡船等で鞆の浦、真鍋島へ行くことになる。 わずかヨットに乗船したのは1か月で4日余り、満足のゆくものではありませんが、雨天の旅行でも少しは楽しむことができました。




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5/30 午後  岡山・倉敷 マリ−ナ着
5/31 由加神社
6/1  バッテリ−充電
6/2
6/3  上架  船艇塗り
6/4  船艇塗り、倉敷美観地区見学
6/5  プロペラ計測、 倉敷美観地区見学
6/6  船艇塗り終了
6/7  ヨット清水かけ清掃  下架
6/8  ホンダ発電機購入
6/9  オイル交換、フュ−エルフィルタ−交換
6/10  ブ−ムバング制作
6/11  玉島・倉敷訪問  街並み保存地区見学
6/12  
6/12  津山訪問  津山城、街並み保存地区見学
6/14
6/15  連れ合いのヨット乗船断念
6/16  スマホ修理
6/17  乗船用はしご 修理・塗装
6/18  赤穂訪問  赤穂城見学
6/19  
6/20
6/21
6/22  燃料漏れ見つける
6/23  修理部品注文
6/24  修理終え、 倉敷から白石島着、 油漏れ再発見
6/25  鞆の浦見学、笠岡城見学
6/26  真鍋島見学 真鍋城見学断念、 白石島 開龍寺見学
6/27  白石島から倉敷着 燃料漏れ修理
6/28 
6/29 セ―リング
6/30  
7/1  倉敷から埼玉へ帰る



  2020-7-4







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2020年04月07日

クル−ジング健康寿命



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 速い魚 U


 今日四月七日にも緊急事態宣言が発令されます。 小生は現在どうしようかと迷っています。 それは年に一度のクル−ジング最適時期をまもなく迎えるからです。 五−六月は夏の灼熱と台風を避ける絶好の時期です。 おまけにヨットに乗れる年齢に、もう見えてきた上限があります。 クル−ジングしている人々は、老人クラブのような現況ですが、八〇歳を超えた人は見あたりません、そこらまでが限界でしょう。 七〇歳位が健康寿命であると云い、あとはオマケなのだそうです。 七二歳の小生にはそろそろヤバイかも。
今月半ばから上架を予定しています。まずは船底塗りだけでもやっておこうと考えております。

 「三密を避ける」ことが武漢肺炎を感染しないために、それが肝要だそうです。 シングルハンドのヨットは密接・密集・密閉とは関係ないように思えます。 例え小生が感染すれば基礎疾患が豊富な老生ゆえに、すぐに発症して重症化するのは間違いのないところ。 小生はそれゆえに、若い世代と違って発症に気が付かずに他人を感染させてしまうことは少ないでしょう。日本は初動が遅れ、対応を誤ったので、見えない感染が広まっています。 自信が感染をしないことは大事ですが、ロシアンルーレットみたいなもので、避けるのは注意していても無理でしょう。 人に移さないことが大事なことと言えます。

 国民には自粛を呼び掛けておきながら、政府は百人・千人を集めて研修や試験を企画して、一部は中止に追い込まれたようですが知らぬところではやっている模様。今回の宣言ではそれらは無くなると思います。 
 武田先生はグラフを示しながら発症者数ではなく患者数のもので、先の予測は科学ではなく、これまでの事実を認識することは科学の行為であると云う。 それによると、欧米中と比べて日本は規制をする状況では無いと云っています。万単位の欧米と百人単位の日本とでは違いがあると、グラフの斜線の傾きも大きな違いがある。なぜかこの様な見解は知られていない。 いろんな賢智を知っておくことは大事である。

そうは言っても、限られた人生で都合よくヨットをやる理由探しをしている「自分」なのかかもしれません。


    2020-4-7



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2020年02月13日

倉敷散歩 まとめ


  倉敷散歩のまとめページを作成しました。

  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank048.html#Top

  随時更新していきます。

   2020-2-13


  
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2020年01月25日

仙石秀久





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 1552-1614


昨年に香川県の引田城備中高松城を訪れた時に、それらは仙石秀久に関連しているので小生は興味を持つた。今年は埼玉県鴻巣において彼が亡くなり、彼の墓が勝願寺にあることを知ったので訪れてみました。

 仙石秀久は美濃に生まれて、その地の土岐、斎藤3代につかえた土豪の4男である。斎藤氏が信長に敗れて、信長に仕えることになる。秀吉の寄旗として少年のころより仕えた。
 秀吉の昇進と伴に彼は大きくなり讃岐1国を任されるまでになる。九州成敗で失敗して改易追放となった。小田原成敗で功成り秀吉に復帰する。関ケ原では家康につき、秀忠に真田との上田城の戦いで認められて、秀忠将軍の下では譜代並みの好待遇を得た。 仙谷秀久は信長・秀吉・家康と3英傑に仕えた戦国武将である。


  年譜

1552・天文21  美濃土豪仙石治兵衛久森の4男として誕生
1567・永禄10  信長より秀吉の寄騎に任命
1574・天正2  1000石
1578・天正6  4000石
1582・天正10  備中松山城の水攻めで布陣、光秀との山崎の戦いで淡路平定に貢献、鹿ケ谷の戦いで淡路に出向く、小豆島を占拠、讃岐引田に上陸、引田城入城、
1583・天正11 長曾我部により引田落城し敗走、淡路5万石を拝領し洲本城へ
1584・天正13 四国攻めの恩賞で讃岐1国を受領、高松城入城
1586・天正14 九州成敗で四国の軍艦として豊後府内に着陣、戸次(へつぎ)川の戦いで島津に敗戦し改易高野山へ追放される
1590・天正18 小田原成敗で旧臣20名を率いて奮戦して許される。小諸に5万石を得て復帰。
1592・文禄元年 朝鮮出兵で名護屋城の築城で功績
1594・文禄3  伏見城築城で貢献して5万7千石、
1598・慶長3  秀吉死去、家康へ接近
1600・慶長5  秀忠の上田城攻めで自分を人質に関ヶ原に向かうよう進言、秀忠の関ケ原遅参を執り成す。秀忠が将軍となると重用される。
1614・慶長19  鴻巣で死去。


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 勝願寺   埼玉県鴻巣市


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 仙石秀久墓


    2020-1-25


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2020年01月22日

(東)松山城 (武蔵国)

 
 愛媛の松山城、備中松山城に続き武蔵の松山城をここに取り上げます。
戦国時代に扇谷上杉(おうぎやがつ)氏と古河公方上杉氏、山内上杉氏、北条氏とのこの城をめぐって争奪戦があった。上杉謙信がここを奪取し、これを武田信玄と北条氏康の連合軍が陥落させた。秀吉による小田原攻めの際に前田利家・上杉景勝がここを攻め落とした。これらのように戦国武将の有名人がこの城で戦った。

 5年ほど前にも訪ねましたが、それ以来にこの城の整備保守はすすんでいないようです。学術調査も2度行なわれたようで、それによる違いの有る案内板も2種見受けられる。あまり良く整備されていないので他の曲輪を探すのには苦労する。この城は2500人ほどが籠城して戦った規模であるので空堀に囲まれた曲輪が見ることができる。近世の石垣が取り囲む城ではない。現状の縄張りは後北条氏によるものとされる。1601年に家康により廃城となる。



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 曲輪図



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 旧調査と思われる案内板 曲輪の名前と配置に違いがある?





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 左は市ノ川 右は松山城


 本曲輪、2の曲輪、3の曲輪、4の曲輪と並んでいる。土橋で連結されていたという。




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 本曲輪  45m四方




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 2の曲輪 本曲輪を囲むようにコの字型をしている




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 3の曲輪  東西18m、南北60mの細長い




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曲輪4  東端にある




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兵糧倉  本曲輪の北西、 東西20m 南北45m




 岩屋堂観音堂があり四国巡礼めぐりがここだけで出来るという。この奥に搦手道があったと伝わるが崖が急峻で上から眺めてみたが、とても下り降りて行くことは出来なかった。







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 岩屋堂観音  奥に搦手道がある


   2020-1-22


船中発策  城廻り
 http://hayame.net/custom27.html






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2020年01月19日

下津井瀬戸と水島航路の横断



 瀬戸内海をヨットにて通航をする場合は、東航・西航するには備讃瀬戸や下津井瀬戸のいずれかを航海することになる。 バブル華やかしころに本船乗りをしていて、夜の宇高連絡船との行き会いは今思えば、美しくもあり緊張を伴う悩ましいものでありました。 宇高連絡フェリ−は昨年廃止されたので宇高東・西航路を航行する船は今では少ないでしょう。 当時はひっきりなしに連絡船が行き来していて、おまけに備讃瀬戸航路上にも同行・反航の内航船がゴマンとジュジュつなぎに航行しており大型船にとっては大いに注意を要した。



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 備讃瀬戸東 宇高東・西航路


 ヨットマンの聖地と呼ばれる弓削海の駅に立ち寄るヨットは多いでしょう。そこへ瀬戸内を西航する場合には、下津井瀬戸を利用できます。備讃瀬戸航路航路経由で行くときには大型外航船が多いので、それを避けたいと思うときに小型内航船の多い下津井を利用する。 下津井瀬戸は潮流が最大10ノットにのぼる時があるので流速には留意する。そのことよりも大きな問題は水島航路を横断通航することになるので、大きな注意が必要です。ここさえ抜ければあとは比較的容易に弓削に行けるでしょう。


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 下津井瀬戸と下津井瀬戸大橋


  航行・横断注意点

1. 水島航路には巨大船が航行する。進路警戒船が先導している。
2. 水島航路を横断した後でも六口島北東方向から倉敷港を出港して水島航路を通航しない本船がある。
3. 荷役待ちの錨泊船が多い。
4. 土地柄か引き船やプッシャ-が多い
5. 水島航路上船舶は優先される。こちらは航路横断船になる。行き会う船をすべてを避けるつもりで航行し、速度を調整するなどして特に航路中央での行き会い状態を避ける。
6. 70m以上の本船は行き先信号をマストに掲げている。信号所で出港・入港信号が点滅表示される。VHFでこちらに管制センタ−より指示があるときもある。VHFを備えている場合には聴取のこと。
7. 追い越される船になることが多いので追い越し船の追い越し信号に注意。後方は要注意。
8.衝突を回避するために相手船と左舷対左舷、右舷対右舷で航行する意思を早めにこちらが変針して伝えることが重要である。


 一時的にここを通航するヨットにとっては、この海域の海上交通法による法規を習熟するのは難しいでしょう。 ヨットにとって通航する際には空いたタイミングを計り通航する。また、多数の船が見えている場合でも衝突の恐れがある船は1隻であることから、それを避けていくことにより危険度の大きい船より順次対処することになる。 

 ヨットが優先権を主張してもしょうがない。何かあれば、小さいこちらに被害が及ぶだけです。


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 赤線は下津井瀬戸より水島航路横断


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行き先信号旗 汽笛を鳴らす地点 詳細は海上交通法による

 弓削から東航する場合には与島・500円と本島・笠島地区・1000円がおもしろい停泊地になる。


  2020-1-19



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2020年01月15日

海上 橋高情報



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 カタナ70  隣の我がヨットのマストと比べて倍の高さのマストですね


 「ヨットマンの聖地」と呼び声の高い弓削海の駅で70f余りのカタマランが隣に係留していました。マストの長さだけでも80f以上はあると思われる、このカタマランの米国人の青年キャプテインに、弓削島近辺の橋を通航できるのかと尋ねたところ、ほとんど不可能とのことでした。橋の架かっていない水路を航送するしかないようです。このクラスだと本船航路しか走れないのでしょう。

 チャ−トには橋の高さは記載されています。GPSの普及した今ではその一部しかヨットは持ち合わせていないので、事前にその橋の高さを知るのは難しい。 保安庁に電話して聞くのも厄介です。 橋に接近すれば橋桁の中央部分には海面からの高さの数字が書かれているのでそれをを知ることができます。 それゆえに速度を落として進み、ブリッジクリアランスより橋が高くなければUタ−ンするしかありません。

 最近では本船が大島大橋に衝突した事故がありました。
 大畠瀬戸 貨物船と橋の衝突
 http://hayame.net/custom14.html#spb-bookmark-535

 日本1周を何度もされた超ベテランヨットマンの伊藤さんが役に立つ橋高をまとめてくれました。
 
 橋の高さ グ−グルマップ
 https://blog.goo.ne.jp/oni2134/e/ceb5a7c6d4efddeb76d9c9a1cfe4fa11

   2020-1-15
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2019年12月09日

下津井

 
 令和1年12/16より宇高連絡船フェリ−航路がいよいよ長い歴史を閉じて廃止になる。瀬戸大橋の開通より今まで航路が維持されていたのも不思議ではある。ジュジュ繋ぎのように切れ目なく運行されていたこの航路は長い歴史を閉じることになる。

 下津井の町はかっては茶屋駅より下津井まで下津井電鉄が走っていた。下津井電鉄は茶屋駅から坂出までJR瀬戸大橋線の開業に伴い1991年に廃止される。その用地は現在は遊歩道として残る。狭軌の軽便鉄道として、かわいい電車が走っていた。


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 下津井地図

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 下津井電鉄 廃線跡

 元廻船問屋の建物や古い町並みが見られる。タコが有名らしくランチにタコめしを食した。コ−スだと6000円もするので手が出ない。その店主より、たこが不漁だと2か月余りも店を閉じることがある聞いた。
 
 高台に上がると瀬戸大橋を含めた海の景色が絶景である。 遊園地には勢いが見られない。どこもかしこもある昔の遊園地の感じです。


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 廻船問屋跡


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 下津井旧市街 1


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 下津井旧市街 2


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 祇園神社

 漁港には漁船がびっしりで、ゲストでヨットが訪れるには良いスペ−スがないようだ。


  2019-12-9

  下津井城
  http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-657






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2019年12月07日

下津井城


 JR児島駅からバスに乗り下津井に行く。 瀬戸大橋が出来た時にその予算で瀬戸大橋架橋記念公園ができる。公園内というか隣接して下津井城跡がある。

 そこは眼下に下津井瀬戸をのぞみ、その瀬戸は10ノットの急流速になるという。近くの島塩飽海賊の根拠地・本島もあり、瀬戸内の海上交通の要衛である。 ここは宇喜多秀家が築城した、関ケ原後に岡山・池田藩の支城として現在のように改修された。 一国一城の令により廃城となる。 西の丸、二の丸、本丸、3の丸、中の丸、東の丸と配置され、天守があった。 石垣が残っていてその規模が知られる。

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 下津井地図 下は下津井瀬戸


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 下津井城図


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  三の丸


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 二の丸


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 天守跡


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 西の丸


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 中出丸


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 二の丸下南面の石垣


下津井は現在は瀬戸大橋の本州側の一端である。城跡からは橋や島々の景色が良い。

 
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 城跡から眼下を望む


  2019-12-7

  


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2019年12月05日

引田・ひけた


 引田の町は小豆島から目的地の淡路島・都志へ航海するのに選んだ中継地でした。そこは徳島県にあるとカン違いしていたが、行ってみると香川県の東かがわ市にある街であった。

 歴史のある街で古い町並みが残っており、おまけに引田城もあり、満足のいくものでした。


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 赤丸は係留地 T字桟橋端、 赤線は町並み保存地区


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 T字桟橋端、 隣に2隻の養殖運搬船スペ−ス必要


 風待ちの湊として利用されたのは旧港地区で隣接した山には引田城がある。船待ちの湊ゆえ御多聞に漏れずに遊郭があったと云うが今は残っていない。 この旧地区には廻船業から戦後に機帆船の船主になった稼業が50もあったという。さすがに老生が船に乗った若いころにはそれを多く目にしたが、今は見ることが無くなった。


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 旧湊図、  ヨットを係留する適地は見当たらず


 古い町並み保存地区には 廻船問屋やしょうゆ業の屋敷が残る。佐野家では内部を見学できる(300円)。 外人のマニアにも引田は有名らしく、スイスからのひとりの老婦人がいた。


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 佐野家・讃州井筒屋・醸造業を営む、見学できる


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 佐野家居室


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 かめびし屋 醤油や


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 引田の町並み 


 現在の引田は「はまち」養殖が日本で初めて行われた地で、それが栄えている。港の入り口沖には大きな養殖地があり、入港には注意が必要。 老生は「養殖はまち」を食するのは好まない、それは最近ではエサの改良で「天然もの」より値が高くなっているという。漁師の数はここでは3軒しかないというけれど、養殖業者は多くある。

 大きな漁港の割にはふさわしいヨット係留地が少ない。


     2019-12-5

引田城  http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-650



 


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2019年12月03日

姫路城


 姫路城は先代ヨット「速魚」を造っているとき、46年も前に2週間会社を休み高砂にあるヨットメ−カ−に通ってその製作過程を見ていた時にそこへ行きました。 当時は今のように造船所に頼んで出来上がりを待つことも出来たのですが、ヨット建造にオーナ−が立ち会う古い慣習があった。
 造船所の休日に高砂から山陽電鉄に乗り姫路に行き、姫路城を見て来ました。当時は昭和の大改修とかで、姫路城はすっぽりと足場で覆われていました。 それから半世紀、速魚Uで木場ヨットハーバーに係留して、カミさんとそこを見に行くことができました。姫路城は個人的にヨットとの縁と感じています。


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  姫路城


 平成の大改修がほとんど終わりシ−トで覆われているところも少なく、予想していた漆喰がまぶしく白っぽい印象ではなく、程よい白さであった。


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 総構の姫路城モデル


 駅前から大通りをまっすぐ歩くと姫路城である。駅近くまで外曲輪があったようだがビルが立ち並んでいて面影はない。
 西国街道が城内を通っていてそこに中濠があり石垣が残っている。


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 車が通っているのが西国街道 中濠の石垣  本陣があった。


 大手門前には「い・ろ・は・に」と名称をつけた土産物店が並ぶ。ここから橋を渡って大手門を抜け、いよいよ姫路城だ。

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  大手門


 1000円を支払い、菱の門をくぐる、皆は天守方面に向かったが、左へ折れて西の丸へ向かう。


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 菱の門


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 西の丸図


 西の丸見学入り口でビニ−ルを借りて靴を入れて、長い渡り廊下を歩き化粧櫓の出口まで歩く、ここは秀頼の妻であった2代将軍秀忠の娘千姫が池田家へ再婚して、ここに暮らしたところであるという。この廊下の一室に暮らしたのではなく庭の中に御殿が建っていたのであろう。 天守よりもこの一角のほうが個人的には昔の城らしく感じた。
 ここから天守に向かう。


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 菱の門からは「い・ろ・は・に・ほ」の防御に趣向をこらした門をくぐり天守に出る。
姫路城は一回では堪能できず、搦手方向からも行ってみたいものです。


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 備前丸からみた天守


 天守内は他によくある展示物が少なく現存をそのまま良く見ることができる。老人には階段がどこの城も急こう配なので苦労するが、ここは中央にも手摺があり助かった。

 余談だが名古屋城ではエスカレ−タ−が有り建て替える際に問題になっているが、オリジナル重視が大事なことなので昔無かったものは再現できない。 バリアフリ−の問題は特別な日を設定してボランテイアに援助してもらい見学をしてもらう工夫が必要でしょう。

 現在の姫路城は池田輝政が主な形をつくったのだが秀吉や黒田が城主の時代があった。古い黒田官兵衛の石垣も残る。


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 黒田菅兵衛の石垣


    2019-12-3


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2019年12月01日

牛窓

 

 牛窓へは今回の秋のクル−ジングでは2回寄港する。 徒歩20分位で牛窓旧市街を訪れた。 岡山藩の海の玄関口で岡山までの街道があったという。


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 牛窓ヨットハーバー  ゲストバ−ス  中央奥のビルがホテルリマ−ニ

 リゾ−トホテルのリマ−ニ近くから旧市街に入る。 町並み保全が遅かったのか旧町屋が続いてあるわけではない。灯台や醸造業、造船街などが残る。


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 牛窓旧灯台


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 醸造業跡



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 牛窓旧市街


 牛窓も小豆島のオリ−ブのようにエ−ゲ海を売り物にしたいようだが、小豆島のように知られて広まってはいないように見えた。。


   2019-12-1



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2019年11月29日

備中高松城

 

 高松城や松山城というと香川県や愛媛県にある四国の城だと思っていました。最近に岡山にあるそれぞれ備中の付く城を訪ねました。 秀吉の水攻めで有名な高松城は備中にある。

 そこは岡山からJRももたろう線(吉備線)に乗り備中高松駅にて下車、徒歩10分あまりです。


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 備中高松城図


 備中高松城は今では田んぼの中にある場所で案内板が無ければ通り過ぎてしまうようなところです。 蔵造りの資料館があり、館内には城主の清水公の像があった。


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 資料館にある城主清水宗治像


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  案内板  蔵は資料館

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 本丸跡


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 2の丸跡


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  3の丸跡


 ここの城は土塁によって構成されていた関係で石垣の残った城跡ではない。秀吉は黒田孝高の進言で堤防を築いて水攻めをしたのだが、公園になった堰き止め跡が残る。


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 高松城水攻め築堤跡


 付近に切腹した城主清水氏の殉死した家臣の「ごうやぶ遺跡」がある。


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 ごうやぶ遺跡

ヨットで行く城巡り


   2019-11-29


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2019年11月27日

小豆島 バス一周



 小豆島池田港にヨットで立ち寄りました。 自転車で小豆島一周を考えましたが、カミさんとの同行でしたのでそれを断念する。 路線バスで一周することにしました。

 小豆島の中心は土庄(とのしょう)のようなので、まず池田港フェリ−乗り場(池田−高松便あり)よりそこへバスで向かいました。一日乗り放題券を購入。バスにリュックを忘れる失態を演じたが、終点ゆえにほどなく見つかりました。事務の方が親切な対応のおかげです。小豆島は離島のバスとは違うようで、バス代が安い。1時間乗っても300円です。一周しても二回で600円ですので、乗り放題券1000円は有難味が少ない気がする。ここではバス便しかないので料金が抑えられているのでしょう。

 土庄には岡山−土庄フェリ−便などがあり、にぎわいのある町です。観光案内所で小豆島のバス便情報を手に入れる。近くで世界一狭い海峡や大阪城築城の残石を見る。

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 小豆島路線バス一周


 福田へ行くバス便には南北の二系統がある。はじめに南周りにのって福田へ着く。ここは姫路よりのフェリ−が就航している。関西からは福田、中国地方からは岡山から土庄、四国からは高松より池田へと各地方より船便は振り分けて就航している。

 福田からの北回り便は二時間に一本位のバス便ゆえ近くを散策した。終点の小豆島中央病院で乗り換えてオリ-ブ園公園に行く。ここには温泉施設があり、ゆっくりとお湯を堪能した。ヨット旅行にはお風呂施設はありがたいものだ。この公園下から二四瞳で有名な映画村行の船便があるが、今回はそこへは行けなかった。

 バスで一周してみて自転車で行かなくて良かった。実際に若いサイクリストを車窓から目にしたが、きっちりスタイルを決めた人々で、本格的に自転車を愛好している人だと思われる。急な登り坂が多く、老人のチャリンコ乗りでは途中で投げ出すことになったであろう。


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 池田港近く、 これは城の石垣ではないがこの上に池田城があったという


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 土庄近く、 ギネスに認定された世界一狭い海峡


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 大阪城築城の折に石が切り出された。 採石場や残石が島内に多くある


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 福田港  姫路へのフェリ−がある


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 福田港近くの箕田八幡神社 応神天皇・神功皇后などが祀られている



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 オリ−ブ公園にある温泉施設

   2019-11-27




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2019年11月25日

都志  (つし)


 高田屋嘉兵衛の生誕地を訪ねる


 淡路島の西岸にある都志にヨットで訪ねました。 そこは、ここらあたりの海岸にひとつだけと云う大型風力発電機があるところで、最初からそれを知っていたなら,遥か沖合から見られたので、都志へのナビゲ−ションは容易であったろう。

 今回のクル−ジングの目的地であり、そこは司馬遼太郎「菜の花の沖」の主人公・高田屋嘉兵衛の誕生育った土地であった。 ああ、火曜日で資料館と記念館2つとも休館日で見ることはできなかった。働き方改革の今休みは大切だが、図書館と違い司書の専門職の人間が必要なわけではないこれらの施設はシルバ−の人でも配置して開館できないものでしょうか。それとも全国で統一してこれらの施設の休みを決めてほしいものです。月・火・水曜日あたりに散らばっていて要注意です。

 公園内にある温泉施設は休みでなかったので、ヨットの旅の汚れを洗い流すことができたのは幸いでした。

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 風力発電機


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 ゴロ−ニン提督と高田屋嘉兵衛の像


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 休館中の菜の花ホ−ルにあったポスタ−


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 高田屋嘉兵衛旧宅  洲本市五色町支所に隣接


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 貨幣が10年間築いた築港防波堤の跡


  2019-11-25


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2019年11月24日

更新 ヨットマンのための海の駅と泊地


  ヨットマンのための海の駅と泊地 を更新しました。

  http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-41

      2019-11-24
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2019年11月23日

引田城 (ひけた)



 ヨットを引田港に係留したので、引田城を訪れた。登山口も二か所整備されているが、港より遠いオ−トキャンプ場方面の登山口が登りやすいようだ。

 高松城の支城であった引田城と丸亀城である。引田城は1615年・元和元年に一国一城令で廃城となる。 室町時代より城はあったが、秀吉の四国征伐の功で仙石秀久がこの城主となる。仙谷は九州征伐の戸次川の戦いで敗れ改易される。その後に生駒親正がここへ入城して織豊系の城として現存する引田城をつくる。

 引田は風待ちの港として利用されて、その守りとして引田城は港と隣接する80mの山に存した。 丸亀城は天守も現存して威容を誇るが、引田城は一部に石垣が残るが忘れ去られた城となった。

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 引田城図


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 引田旧港・風待ちの港より引田城を望む


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 旧港近くの引田港側登山口


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 本丸


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 天守付近 案内板がない


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 北二ノ丸にある石垣 補修中で青いシ−トが掛かっている


 天守の案内板が見つからないなどもう少し見せる工夫が必要でしょう。 旧市街に比べて訪れる人は少ない。 天守を再興したり、大手口の整備をすればもっと観光資源のひとつになれそうな気がします。


   2019-11-23


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