2019年09月06日

別府



 別府へは2度訪れました。すぐ近くに大型ス−パ−や安い温泉がありとても良い。 最初の入港の時には入り口が分かりにくいので注意が必要です。 2度目の時は入港間際にホンダワラに突っ込んでペラにそれが絡みました。 上架してもらうつもりでしたが、あいにく船底塗りの先客があり、同時には上げられないようです。 ハ−バ−で潜って海藻を取り除きました。

 ここは別府駅にも近く申し分はないのだけれど、2000円位で係留費が済むとよいのだが。 他のヨットマンに聞いてもワイフがまた連れていってくれとせがむようなところだと聞いています。おもしろい夜のクラブ、妻同伴ですが有ると言っています。 ハ−バ−近くに温泉も100−200円で入湯できるものがあります。

 鉄湯・かんのわ温泉に行ってきました。 バス便があります。ここにも安く入湯できる温泉が町のあちこちにあります。 地獄めぐりに行きました。各地獄で500円程の入場代を徴収するので興ざめです。入場料をとるせいか、関係のない余計な展示物も見せられます。 各地獄をまとめてもっと安くする方法を採ってもらえないものでしょうか? これではいずれ人気が無くなるのではないでしょうか。



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 別府北浜ヨットハーバー 人気があるので予約が必要でしょう




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 竹瓦温泉  200円



 

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 鉄湯のあちこちにある温泉 100−200円



 

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 鉄湯 むし湯温泉



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 地獄めぐりのひとつ


   2019-9-6


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2019年08月07日

これで正気に戻るか 女子ゴルフ報道



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  渋野日向子   いいねえ



 ゴルフは生まれてこの方、一度もやったことがありませんが、これからプレ−することもなく人生を終えるでしょう。 それでも流れてくるゴルフのニュ−スは耳にします。

 最近聞いたのでは、男子の石川遼さんが長いスランプから脱出してきたのには安心です。 というのは震災の時に石川さんは、獲得した賞金を2億円余り寄付してくれました。 あのタケシ、サンマ、タモリですら、震災時にそんな高額の寄付をしたとは聞いていません。 石川遼さんは、ありがたいけど、やりすぎではと思っていました。その後に石川さんはパットしなくなり心配をしておりましたので。

 男子ゴルフのことではなく、今日、渋野日向子さんが全英オ−プンで優勝しました。前日からの報道で笑顔のカワイイ人だと注目でした。
 試合でプレシャ−に負けることもなく、見事栄冠をとりました。 テニスの大阪さんのようにこの後がたいへんなのかもしれません。

 ここで言いたいことは、日本の女子ゴルフの報道も新しいスタ−の誕生で、改心して正気に戻ってくれることを期待します。 というのは、少し前のたいした成績でもない韓国美人女子プレ−ヤ−の報道、さらに古くは不動裕理さんが絶頂で活躍していた時の報道が特にひどかった。不動さんが毎回優勝しても、下位のカワイ子ちゃんプレ−ヤ−ばかり取り上げていた。それはむごいものでした。 ゴルフに関心の無い小生でも、当時はニュ−スを目にして、大いにこれは「ひどい」と感じていたことです。

 他のマスコミも感心しない今日この頃だが、さわやかな新しいスタ−の誕生で女子ゴルフ報道は断固変わってください。



   2019-8-5

  余談

 カミさんにPINGの意味はときかれました。 彼女の帽子にPINGと書いてあるのだそうです。 気が付きませんでした。 というのは30年ほど前に友人と地中海で「PING906」というヨットを所有していたからです。 中古のオランダ人家族が乗っていたヨットを購入して船名はそのまま継承しました。「海底2万マイル」から名前をつけたと聞いています。 今回は{ピン}と呼ぶそうですが私たちは{ピング}と呼んでいました。

  下記の地中海クル−ズをご覧ください
  http://hayame2.sakura.ne.jp/details1044.html#地中海クルーズ

   2019-8-7




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2019年08月03日

新島襄と快風丸



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 新島襄 1843-1890


 新島襄は安中藩士に生まれた。安中藩は備中松山藩の分家です。 新島は幕府の軍艦操練所で学んだことから、備中松山藩が購入した洋式帆船(スク−ナ−)快風丸の廻航を頼まれた。 その縁で、快風丸の函館行の運行があり、米国への密航の思いで乗船し、函館に行く。 藩の乗船許可が下りないのでわざわざ備中松山藩から安中藩へ願い出て許可をもらう。 函館でアメリカ密入国をさせてくれる船を捜す。坂本龍馬の親類の沼部琢磨などの協力を得て、米船ベルリン号にて上海に渡り、ワイルド・ロ−ヴァ−号に乗り換えてボストンに着いた。
 その船主であったA,ハ−デイ夫妻の援助を受ける。この当時の米国の慈善はすばらしい。彼だけではなく他の日本人が援助を受けた話は耳にします。
 アマ−スト大学では学士を取得。札幌農学校に来日するクラ−ク博士の授業を受講。そのきっかけで彼は来日することになったという。
 新島は岩倉使節団の通訳として参加。ヨ−ロッパに渡り教育制度の報告書を提出し、それが明治の学制改革に大きな影響を与えた。 宣教師となり日本に帰国。 大河ドラマ「八重の桜」では、学校設立のために講演を行い5000ドルの寄付を集めるシ−ンがある。ハ−デイ夫妻が演説原稿を読みこの内容では寄付は集められないと、事前にアメリカン・ボ−ドの有力者に寄付を頼んだ故であるという。日本へ来て同支社大学を建設するくだりは皆様ご覧になってよくお知りになっているでしょう。
 彼は因縁の有る快風丸で備中松山へ行き、伝道しています。その演説で女子教育に活躍する福西志計子に大きな影響を与えた。



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 快風丸

  快風丸諸元

 155トン、全長31.5m、全幅 6.8m、 ニュ−ヨ−ク建造「ゴ−ウルノルワラス」 1862年・文久2・9月 18,000ドルで購入


    2019-8-3




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2019年08月01日

福西志計子・ふくにししげこ



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 1848-1898



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 山田方谷像  王陽明の一節、至誠惻怛(しせいそくだつ)真心といたみ悲しむ心・慈愛の精神を説く




 女性尊皇攘夷志を取り上げることが多いのですが、福西志計子は山田方谷から薫陶を受けた人ですので、幕末に活躍した人ではない。 牛麓舎が隣家であったから、父を亡くした後、母親・飛天子(ひでこ)が方谷に寡婦の娘と侮られぬよう、学問を身につけてほしと頼みにいった。

 「人の一生には思いがけない悲劇が来るものです。現在は動乱の中であるから多くの人が戦乱で亡くなっています。先行きの不安の中で生きている。そのような悲劇に打ち勝って生き抜かねばなりません。夫が死ねば妻が一家を支える事態も起こる。そのために強固な意志と技能を身に着けておかねばならない。今の福西家ではそのような悲劇に直面している。私・母には一家を支える手立てがないため、やむを得ずあなたを実家に連れ帰り生活することになりました。あなたが成人したら家の再興しなければなりません・そのためには技能を身に着けて生き延びることです、先に読み書きを学習することです。隣家の山田方谷先生は百姓の身でありながら学問を身に着け、元締役になり藩政を改革なさりました。学問を身にるけることこそ不安な時代生き抜く確かな手立てです。あなたは女子だから武士になることはできませんが、技能を身につけるためにも、学習をしておくことが必要です」 志計子は男の子と一緒に当時としては珍しく学問に励んだという。

 山田方谷は明治10年に死亡した。陽明学徒は明治になってキリスト教に改宗した人が多い。 明治12年に高梁(たかはし)にキリスト教が伝わった。方谷がキリスト教に理解を示したという伝承があり、小生にはわからないけれど、陽明学にはキリスト教を理解することが容易であったのでしょう。

 福西は方谷門下で身に着けた儒学的素養を基礎にしてキリスト教を受け入れた。 方谷精神に接ぎ木されたキリスト教徒といえよう。方谷の「至誠惻怛」はキリスト教の「人類愛」と矛盾することなく融合していた。

 福西は明治5.6年ごろから女子の覚醒ということを云い。女子も男子も変わらない、教育が悪いのだから女子教育が大切だ。必ず生活が出来るだけは心得ておかねばならない。

 藩主の中に天草の乱で死亡したものがおり、藩内ではキリスト教には厳しくあたるものがいた。福西は町議会からキリスト教の伝導活動と教職の矛盾を問われて、職を辞すことになる。 何度も町民に押しかけられて迫害を受けたという。ほどなく支援者の大いなる援助を得て私立裁縫所を開設した。

 生徒数が増えて手狭になってきたので、新築趣意書が書かれた「ここ7.8年の女子教育の実態を見ると、西洋と東洋の社会の違いを無視して、いたずらに欧米人の方式を模倣したため、女子教育には弊害が現れている。それは社会にも家庭にも役に立たないものになっている。学問は公演を説くだけで現実から離れ。芸術は実際の役に立っていない。ことに徳育では日本の婦人が、古来の優美で貞淑が失われているから、これでは役に立たないばかりでなく、社会に害をもたらす恐れがある。このような状況であるからこの2,3年女子教育は大いに衰微している。然しながら女子教育はおろそかにしてはならない。学問によって知識を磨き、徳を修め、技術は身を立て家族を養うものであり、妻は良妻たるべく、母となっては賢母でなければならない。わが校はこれを実現している。」この間全国に女子高は建設されては消えているが創立以来13年以来順調に順正女学校は発展してきた。趣意書を作り校舎建設資金の寄付金の募集をした。

 福西女史の活動はすさまじいものであった。資金の目途が立ち新校舎が姿を現すころ過労がたたって病勢が進んだ。衰弱がすすみ医師は余命は長くないと診断する。福西は「神様は今まで自由に働くことができる健康を私にお与えくださったので、不十分ながら活動して曲がりなりにも学校の順が着きましたから、今からは祈るようにとこの病気をお与えくださったのだと思います。それゆえ感謝しております」と述べた。病魔と闘いながら讃美歌を歌い、聖書を読み祈りの中で神の意志を悟って従容自若、満面に笑みをたたえて昇天されたという。



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 倉田和四生著  吉備人出版刊



   福西志計子・順正女学校 略歴

1848・弘化4   備中松山藩士の長女として誕生

1852・嘉永4   父と死別、山田方谷に学ぶ

1861・文久元年  14-5歳で井上助五郎を婿養子にむかえる

1875・明治8   29歳、岡山裁縫伝習所に入学、翌年卒業、高梁小学校付属裁縫所教師となる

1879・明治12  キリスト教徒になり、新島襄らに薫陶を受ける

1880・明治13  木村静と共にキリスト教婦人会設立。信仰か職かを町議会に問われて両人は教員の職を辞す

1881・明治14  34歳、私設の裁縫所設立

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1882・明治15  高梁基督教会堂設立に伴い洗礼をうけて正式のキリスト教徒になる。

1884・明治17  郡集が教会に押しかけて礼拝を3度にわたって妨害、プロテスタント史上最大であったと云われる。

1885・明治18  裁縫所に文学科を設置して順正女学校として改組。これは全国9校のひとつ

1887・明治20 上京して、神田職業学校に学ぶ、洋服仕立て、西洋洗濯、毛糸編み物、造花などを勉強

1895・明治28 頼久寺町に新校舎完成、裁縫科1棟、文科1棟、翌年に寄宿舎完成

1908・明治41 伊賀町に新校舎、講堂、割烹教室

1898・明治31 52歳で死去

1912・明治45 順正高等女学校となる

1921・大正10 県立順正高等学校と改称

   2019-8-1


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2019年07月26日

九州東岸・豊後水道・日向灘 ヨット泊地

 
  杵築

 杵築漁港は漁船の数の割には広い漁港である。中央の泊地の堤防の内側に着岸した。 始めはアンカ−を打って槍付けのつもりであったが、アンカ−が効かない、とうとう舵に引っかける始末。スペ−スがあったので最初から横付けにすれば良かった。潜ってロ−プを外した。 錨の効かない原因は底質が海藻であったようだ。 着けた防波堤の外側にもスペ−スがあるが、海を覗いてみると背の高い昆布のような海藻が水面近くに見える。干潮でも着岸が難しいと思われる。 漁船は1隻も利用していない訳だ。東風の強風が吹いたけれど港内は平穏であった。避難港には良いと思われる。

 買い物もスタンドも不自由です、橋のある道路まで20−30分歩くことになる。 杵築城まで歩いたが、帰りはタクシ−を利用した。

 

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 杵築漁港



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  赤印に着岸





   日出港


 日出港には停泊していません。杵築でアンカ−が海藻の底質で効かずに潜るハメになったので、ここを忌避して別府に入りました。どっこいその入り口付近でホンダワラがペラにからみ別府でも潜らねばならなかった。

 JRで別府から陽谷駅で降り。日出城跡に行く。城下カレイで有名な漁港が麓にある。ヨット停泊にはスペ−スの問題があるようだ。その対岸に岸壁があり、ここならヨットを着けられそうです。 

 

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 日出港  赤印は予想停泊地

 

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 日出漁港と対岸の商業岸壁




   臼杵



  臼杵港の下図赤地点に着桟したが、管理している臼杵港運で尋ねたところ、その岸壁を利用する商船があるということで対岸の青地点へシフトした。 この岸壁は商業港によくある下の部分が凹んでいて、干潮時にはヨットのハルがそこへ入ってしまうマズイ岸壁であった。 おまけにウネリも入ってくる。 徹夜でのワッチを覚悟したが、地元のヨットマンが隣の漁港板知屋を勧めてくれてそこへ移動した。 まったく静かでぐっすり眠ることができた。 買い物など不便であるがオススメです。


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 青は岸壁シフトした位置



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 青色地点へシフトした岸壁   サイドアンカ-を入れる必要あり



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 板知屋漁港に舫う



   土々呂


   蒲江


     2019-7-26



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2019年07月24日

因島散歩

  


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  因島マップ


 因島は本四連絡橋・しまなみ海道のなかにある向島と生口島につながる島です。造船業が盛んな島でもある。 以前に因島水軍城へ行きました。今回は注文したヨットの部品の受け取りに弓削海の駅より因島へ行く。

 往きは弓削より因島土生まで今治発の連絡船に乗る。土生で下船して、弓削にはホ-ムセンタ−がないので因島モ−ルまでタクシ−で行く。そこで工具等を購入した。 ここより土生発三原行の別会社の船便があり、乗船して途中の重井で下船した。 ここから因島マリ−ナへは徒歩になる。途中の民家は独特な作りで左官のワザなのか土蔵風の塗りこめの窓が珍しくこの土地だけのものなのかと思われる。



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 重井の民家その1


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 重井の民家その2

 
 丘を越えて次の入り江まで歩くのだが、途中の丘上には除虫菊畑があるようで、その入り口の看板があった。因島ではキンチョ−の島なのであろうか。 丘を下ったところにコ−プの店があり、弁当と水を購入。島の中でこの種の店をみつけるのは珍しいので、それなりの人口があるのでしょう。 ほどなく青木城跡の案内板を見つけた。 すぐ近くに因島マリ−ナがあり部品を引き取り一刻も早くそれをエンジンに取りつけて出港したいので城跡へ行くのは断念した。


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 青木城跡 海抜50.6m


 重井まで来た道を帰り、土生までの乗船時間が長いので、バス便にして土生まで帰った。 島の常だが交通の乗り換え待ち時間が長く、今度は弓削の船便を待つ間に、船具屋に立ち寄りバルブ関連の用品を買う。 その向えにホテルがあり、そこは村上水軍の長崎城跡です。 ちょうど昼時でランチをやっていて2800円也とのこと。 部品代にお金が掛かったおり、分不相応と辞退しました。


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長崎城  海から眺める


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 長崎城

  海賊城は見張りが重要で、船舶の動静を常に監視する必要がある。従い、水道・水路の脇には城跡があることになる、今回は見ることができなかったが、荒神山城、島前城、山伏山城、天神山城など因島には多く城・砦があるようです。弓削に立ち寄った際には自転車で見て歩きたいと思っております。



    2019-7-24



 
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2019年07月21日

高梁散歩


 新幹線を岡山で途中下車してでも、寄りたいところ山田方谷と備中松山城の高梁(たかはし)へ行きました。 広島県から岡山県へヨット本拠地を移す。 さっそく、そこを訪ねた。 岡山駅から伯備線に乗り、JR高梁駅まで行く、東京から鎌倉へ行くような距離と感覚です。伯備線は1時間のうちで鈍行と特急それぞれ1本位の運行をしています。 帰りは特急を利用しました。

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 山田方谷像 至誠惻怛(しせいそくだつ)真心と慈愛の精神を説く、


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  特急やくも

  お城への乗合タクシ−出発まで少し時間があり、駅より高梁川の方向へ行く。郵便局で用を済ませて、橋のほうへ歩いた。 城下町らしく弓之町、鉄砲町の地名があった。名残を求めて探してみたが、落ち着いた街並みがあったのみ。 時間も無くなってきたので、駅に戻る。 タクシ−で城へいく途中に山田方谷の塾跡の看板を見つけた。帰りはそこで降ろしてもらい高梁のまちを散策する。

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  弓之町

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  山田方谷家塾跡  牛甍舎跡 隣家の寡婦になった娘(福西志計子)に学問を教えた


 方谷塾跡は藩主からこの地を受領したもの。隣家の主人が死亡したので、寡婦の娘とあなどられないように残った娘の教育を方谷は頼まれた。その娘は藩士の男たちに交じって方谷から教育を受け、長じて福西志計子として明治の女子教育にの草分けになる。 ここから坂道を少し下ると、平時は藩政をしたという御根小屋跡に着く。現在は県立高梁高校になっている。しかしここには福西女史が創立した女学校が転じたものである
という。

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 元御根小屋・県立高梁高等学校 福西志計子の順正高等女学校の伝統を受け継ぐ


 ほどなく武家屋敷群が見られる。旧新井家と旧植原家が見学できる。 籠入れの土間が珍しかった。山田方谷の資料も豊富である。1本下った道には商家屋敷群が通りに沿って見られる。 現在も魚屋で営業している店があった。

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 武家屋敷の町並み

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 商家の町並み

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 魚屋で営業中


 紺屋川に沿って登っていくと、河井継之助が宿した花屋跡があるが現在は郵便局で案内碑があるのみである。塵壺(平凡社刊)という河井継之助日記の本にはここの滞在の様子が書かれている。 すぐ近くの幼稚園は旧藩校有終館跡があり、今は子供たちのにぎやかな声で包まれている。ここでは方谷が40近くまで教えていたという。

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  花屋宿 案内板 河井継之助の滞在宿

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 武家宿 花屋跡 現在郵便局

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藩校 有終館跡 現在幼稚園  山田方谷が教えていた


 また、すぐ近くの角に高梁基督教会堂がある、木造による教会では日本で2番目に古い建物である。中を見せてもらうが、昨年の五島の教会群を見た身としては内部は質素な雰囲気である。五島の人々はここよりは貧しかったのであろうが、ステンドグラスや装飾には信仰の熱意が感じられた。

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 高梁基督教会堂  福西志計子が通う


 頼久寺の庭園を見て、郷土資料館に入ったが、ここは個人的に興味が薄かった。隣に山田方谷記念館があり500円の割には大いなる期待に応えてくれませんでした。 最近に出来たものらしい、方谷の資料はあちこちに散逸しているようで、他の見学場所でも見られます。集中してここへ持ってくる努力を期待いたします。

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 頼久寺 庭園 小堀遠州の作庭という


 駅に向かう途中に松連寺・薬師院があり、まるでお城の土塀のような風貌です。いざという時の防御拠点として機能したのでしょう。 ほどなく駅に到着して、特急「やくも」にて帰路につく。

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  薬師院・松連寺  応急の時には砦として使うつもりであったのか




 コンパクトにまとまった地域で散策しやすい。さくらの春や紅葉の秋にはさぞかし良いのではと思われます。下記地図・写真参照。


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  高梁散歩図  青線を歩行

     2019-7-21
































 








 



 
















     


 
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2019年07月19日

備中松山城 


 天守の残る唯一の山城、日本の現存10天守の一つである備中松山城に行く。JR高梁駅にある観光案内所で情報を得て、乗り合いタクシ−の手配をしてもらいました。 麓からも行けるでしょうが、健脚に自信のある方のみです。 時期によりますが、ふいご峠(8合目)までのバスもあります。 そこでタクシ−を下りて天守に向かう。 登りは思ったよりキツク休み休みで時間がかかった。2時間ぐらいの見学時間だったが、登り降りの帰りの時間も含むことから思いを残す状況になった。待ち合わせ時間が迫り急ぎ降りることになる。 じっくり見たいのなら車が便利ですが、利用できる時期があるようなので下調べが必要です。

 雲海に浮かぶ城でも有名ですが、城を望む隣の山から見ることになり、時期と行程は観光案内所で尋ねてください。また、案内所のある駅と一体にになった図書館は、洒落た建物で同じ設計者なのか宮崎県延岡駅でも似たものがあった。

 この城は鎌倉時代からの歴史があり、北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその 頂を中心に全域に及んでいます。

 現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430M)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二 重櫓、土塀の一部が現存している。

 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。

 この藩には山田方谷が有名です。彼の行った藩政改革は幕末までのモデルと言われている。司馬遼太郎「峠」の河井継之助は方谷から学ぶためにこの地を訪ね花屋に泊まった。 方谷は後に明治政府が行った殖産興業と軍制改革を先立って行う。 藩主は譜代の老中筆頭を勤めた板倉勝静であった。最後の将軍と共に大阪城より江戸へ船で逃げ帰ったほどである。 しかし、方谷は体面を保つ形で恭順をして、備中松山城を無血開城した。 また、函館にいた藩主を撤収させて謹慎させる。藩の存続を許された。



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 天主



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 本丸入り口



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 天守から見た本丸





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 重要文化財 2重櫓



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 復古図





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 新しい守将 本丸にいる 先の豪雨でここへ迷い込んだという



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 2の丸





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 野面積 城内で一番古い






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 御膳棚跡



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 4の平櫓跡





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 厩門跡





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 黒門跡



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 3の平櫓跡



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 足軽箱番所跡



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 重要文化財 3の平櫓土塀



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 NHK 真田丸で使用された風情



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 上太鼓丸





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 御根小屋復元図





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 御茶屋橋と高梁高校



   2019-7-19




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2019年07月17日

西国海道 草津まち散歩


 草津城を見て川沿いを南に下ると、西国街道沿いの町並み保存地区に至る。 草津湊は埋め立てられたせいか、痕跡は見られなかった。草津は古くは軍津(いくさつ)呼ばれていたようで、水軍の地として栄えた。

 明治天皇が休憩したという小泉酒造の小泉家、幸福稲荷、大釣井、西楽寺、福溝稲荷、西氏功徳碑などを見て回ることができます。



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 西国街道  草津まち地図  赤マ−クは写真あり

 

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 西氏功徳碑 広島藩の支藩三次藩の飛び地であったので西氏は三次藩医の家系であった。



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小泉家と記念碑 明治天皇と皇后が小泉家で休憩された記念碑



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小泉家 酒造



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 福溝稲荷と地蔵



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 大釣井 塩分少なく共同井戸



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 西楽寺



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 幸福稲荷大明神


2019-7-17




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2019年07月15日

草津城・安芸

 
 スマホのグ−グルマップを利用していると、城跡がよくのっています。それで草津城へ行ってみました。 瀬戸内海沿岸の地形は海岸近くまで200-300mの山がせり出していて、平地の部分は限られている。 そこで近代化が進むと、その土地は鉄道や道路用地が土地を寸断されてしまう。 この草津城も山陽線、広島電鉄、道路で分断された。すぐ高層のマンションも隣接している。

 草津城は麓にある草津湊(現在は埋め立て)を水軍の拠点として重きをなしていた。 城主は厳島神社、安芸武田、大内・陶、毛利と変遷した。毛利氏になって、水軍の将である児玉氏が治めた。大阪の本願寺に米を届けたのもこの児玉氏である。明治の児玉源太郎は子孫にあたる。 関ケ原以降は福島正則が受領して、ここに大門を作り、城を廃した。



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 草津城跡、 道路が迫る



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 山頂本丸跡にある城跡石碑と案内板



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 草津城登山口


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隣接するマンション



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南海側から草津城を望む

  2019-7-15





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2019年07月13日

西郷陣屋  宮崎延岡北川


 土々呂・延岡市に整備天候待ちで4日ほど滞在した。延岡城、高千穂峡、西郷陣屋などを訪ねることができた。

  延岡の北に西郷隆盛宿陣跡資料館があります。延岡の観光案内所にそれをを尋ねると、電車やバスで行くには不便なところであった。それでタクシ−で訪れることになる。 帰りのために、タクシ−を30分待ってもらい、取り急ぎ資料館を見ました。

 大河ドラマ「西郷どん」で妻イトがここを訪ねる場面がある。それはドラマを盛るためのフィクションであるという。 ここで西郷は軍の解散をして、少数の従う人間と伴に鹿児島をめざした。 大将服をこの近くで焼いたというが、その地には碑がある、今回はそこを訪ねていない。

 資料館は2つの建物に渡って展示されている。最後の軍議の場面を人形を使って再現している。無料の割には充実している展示である。

 西郷を見る人の器量次第で、彼のことが大きくも小さくも見えるというが。 今だに、小生は彼のことが分からない、納得がいかない。 大人情の人であるが、目的を遂げるためには大非情の人でもあった。 小人には考えが及ばずと言ったところでしょう。




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 資料館


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 軍議の場面


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 陸軍大将服


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 展示物


    2019-7-13


  西郷隆盛  磯田道史による


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2019年07月11日

ホンダワラのプロペラへの絡み

   
 温暖化の影響か?、今年のホンダワラの繁殖が異常に多く、他のヨットマンも同じ考えのようだ。 瀬戸内海では、まだそうでもなかった。別府に入るころより、プロペラに絡み始めて、1日おきの頻度で潜りそれを取り除く事態に陥る。

 今年のクル−ズプランでは、昨年は九州一周を西回りで計画し、台風の影響で長崎で断念したところから、東回りをすることにした。 別府から佐賀関を回って豊後水道を日向灘へむかった。 もし、昨年と同じ航路を取ったとしても、玄界灘でスクリュ−大量に絡みつき、洋上で潜って取り除いたというヨットマンの体験を聞かされたので、同様に難儀したであろう。

 シングルハンドであると、なかなか前方をワッチするのは完璧にはいかず、舷側にそれが流れていくのを見てハットすることも多い。また、それを取り除くにも、洋上で潜ることはシングルハンドでは、はなはな危険な行為である。体をロ−プで縛って流されないようにヤルとしても、波で船体に頭部をブツけたり、潜って浮き上がった時には船体から離れていることがある。 ヨットの事故で意外と多いのは、泳ぎと飛び込みに自信があるの人なのでしょう、かっこよくヨットから飛び込んで泳ごうとして、船上に上がることができずに遭難することです。 というのは、舷側がクル−ザ−では予想以上に高く、デインギ−と違いハシゴなしでは上がれませんから。 小生は港に着岸して潜ることにしています。若い頃にはオホ−ツクの海でロ−プがからみ、震えながら潜った経験がありますが、それ一度キリです。

 大分佐伯・大入島から宮崎細島を目指して航行中、豊後大島と鶴御崎の間の元ノ間海峡通過までは順調でした。前日に海の駅桟橋で潜って取り除いていたので、ペラの絡みは無しで出港した。速度が4ノット3ノットに下がっていき、深島をなかなか交わせない。日向市沖のやっと枇榔島近くまでやっと来たら、エンジン音が変わり止まりそうになる。 4-5mの大きなウネリの中でした。 また、藻が絡んだなと考えました、入港して潜らねばなるまいと。 エンジンが止まるとなると、メインセ−ルを揚げていないので、ジブだけではセ−リングが満足でない。おまけに二馬力の船外機は取り付けておらず、それにそれの始動が気ままです。大きな揺れのなかで船尾に船外機を取り付けるのは難しい。 毎日のように海藻取で潜るため、船尾ハシゴを使うことを想定して、船外機を取り付けてなかったのです。どちらかしか使えない装備です。  メ−ンセ−ルは下記写真のようにガンジガラメに縛ってあり、すぐには揚げられない。夕方になり日も暮れそうです。 絶対絶命ではなくても大いにコマッタなと思っていたところ、そこへ「どうかしましたか?」と漁船が近寄ってきて声をかけてくれました。 九死に一生を得る、絶体絶命の危機に「救世主」が間髪を入れずに現れるとは、まさにこのことです。日頃の行いが悪いにもかかわらずに。 地元の元ヨットマンが漁船の廻航業務をしていて、ジブ縁が赤い色の知り合いのヨットだと思い寄ってきたものでした、すぐに異変に気が付いてお声がけしてくれて、助かった次第です。

 今回は事故にならずに済みましたが、起きる時には二三重にミスが重なるのでしょう。 と云うより、今まで、おざなりにしてきたもの、怠けてやっていないもの、不完全や欠けた知識によるもの、こういったものがヨットでは何かのときにキッチリと詰めてくるように思います、思い知らされます。 なにせ、自然相手ですから。

 写真のように延岡・トトロまでえい航してもらい無事着岸しました。土々呂のヨットマンの人々がその後数日にわたって門川にある温泉の送迎をわざわざしていただきました。ありがとうございます。

 土々呂漁港で翌日に潜り、午前中いっぱいかかって写真のように大量のホンダワラを取り除きました。 潜ったらスクリュウ−の形をとどめないほどまん丸く絡みついていた。 エンジンは12時間ほど回した関係で燃料消費が多くなり、タンクの底の燃料を使った関係で燃料供給が悪くなったのが原因と思われます。えい航中にはニュ−トラルにしていてエンジンは止まらずに回ってました。 ヤンマ−1GMがが新造時の規格で前オ−ナ−が2GMに換装しています。燃料タンクは1GM仕様で30リットルであるので、連続12時間は燃費を考えるとを廻しすぎであった。手持ちの燃料用予備ポリタンクが8リットル容量なので、5時間程度のエンジンを使用して、このポリタンクで補給すれば丁度よいと思われる。以後航海途中でも、5時間で補給することに決めた。

 他のベテランヨットマンに対策を聞きました。いずれも航海中に作業可能なもの。

1. 一番よさそうなものは写真のようにペラの上に穴を空けて、デッキから取り除く方法、ハルの形状により出来ないものもありそう。工事代金が50−60万円ほどかかるといいます。

2. 潜望鏡のような底を覗ける器具を作成して、船尾からそれで覗いて長い鎌を利用して取り除く。 これもスタ−ンの形状ヤヨットの大きさにもよる。

3. 船側からハシゴを固定して、そこに腰かけて水中のスクリュウ−を見ながら、長い鎌で取り除く。

 ご老体にムチ打って潜ることは、季節に限りもあるし、できることではない。 クル−ジングの大きな問題となっています。いろいろ自分のヨットにふさわしい方法を見つけることが必要です。

 釣り客を乗せて営業している釣船の船長さんに尋ねたところ、馬力が大きく、スクリュ−も大きい自分の船では問題になっていないとのことでした。海藻などブチ切っているのでしょう。 30年近くの間隔があるけれど、今までの2隻はロングキ−ルの船体であったのか、ロ−プの絡みいがいで潜る経験は無かった。ハルの形状も関係していそうです。

   

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 えい航される


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 絡みついたホンダワラ 少し乾いてカサが減る


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 少量のホンダワラの時 この程度は問題なし


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  コックピットに空けたペラ穴



    2019-7-11




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2019年07月07日

野崎家旧宅・児島


 岡山県倉敷市児島にある野崎家旧宅・旧野崎家住宅を見てきました。 児島市がいつのまにか合併して倉敷市になっている。 児島は瀬戸大橋の本土側ですが、架橋熱のほとぼりも覚めたので、今では児島ボ−ト位しか認知されていませんのでしょうか? ここをさほど期待していなかったのですが、500円の入場料以上のものがあります。近くに行った方は是非ご覧になるのをオススメいたします。

 児島半島(かっては名のとうり島であった)の南側を中心とした広大な塩田開発を野崎武佐衛門が行い塩田王となり大きな資産を築いた。瀬戸内の塩田はどこもそうだが、おもかげはない。ここ跡地を埋め立てて広大な敷地が生じたせいか、今は広々としたJR児島駅になったり、ス−パ−マ−ケットが量販店やたらと多く、さぞかし激戦区になっていることでしょう。

 明治になり納税額の多さによ貴族院の議員に選ばれている。 その彼が3000坪に及ぶ敷地に長屋門や蔵、枯山水庭園、茶室、42mの奥行のある居宅などがみられます。 台所も、浴室、便所なども当時のままに残っております。 また調度品や豪華な漆器など貴重なものも見られます。


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  野崎武佐衛門 1789-1864



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  国指定重要文化財 



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  豪華な調度品



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 庭  珍しい石がある 


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 茶室 


  2019-7-7



 
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2019年07月05日

スタンチュ−ブ交換


 2019年春のクル−ズを終え、新ホ−ムポ−トへ入った後で、ビルジの点検をしてみるとバケツ2杯で多い。 前日の弓削で冷却水ポンプを交換したばかりです。 そこからの水漏れはなし。 スタンチュ−ブからの水漏れであった。 新しい係留地・岡山に来たばかりなので、修理するところののアテはない。 近くにマリ−ナがあったので、そこで聞いてみると、ここでは修理作業はしていないとのこと。 そのマリ−ナで紹介されたヤンマ−の代理店に行く、状況を見てもらえることになった。 しかし、様子を見た後で、スタンチュ−ブの修理はできないと断られる。どうも、その業者はヨットは得意でないらしい。

 地元のヨットマンの紹介で神戸の業者に修理をしてもらうことになる。 ヤマハ31フェスタのスタンチュ−ブの資料を前のオ−ナ−からは受け取っていない。製品名も分からず。 その部品はヤマハには無いようなので、新しい他社の製品を取付ることになった。 シャフト径とスタンチュ−ブ径が部品注文には必要でした、25mmと2インチと判明して、注文することになる。あいにく土日で今回も冷却水ポンプ交換の時と同じく日数を要した。

 作業はヨットの常で狭いところに頭を突っ込んでの作業。 ハンマ−を振るのにもスペ−スが狭く大変のようだった。小生は見ているだけでしたが。とても根気のいる作業です。それでも、朝から始めて4時ごろには修理を終えて、マリ−ナから係留地に戻ることができました。 費用は部品6万,作業代10万を要し年金ヨットマンには大きな負担であった。



 作業手順

1. 旧シャフトシ−ルを取り外す

2. プロベラシャフトとエンジンとの接合をはずす

3. 旧をシャフトから抜き, 新をスタンチュ−ブに取りつける。

4. 新をシャフトへ通して、シャフトをエンジンに接合する。

 旧シャフトシ−ルを外すことと、プロペラシャフトをエンジンから抜くことが大変だったようです。シャフトを抜いて30cmほどのスキ間がないと離脱取付ができない。 プロペラと舵は同一直線状に普通はあるので、その距離が短い時は、今回の工事はどうするのだろう。舵も抜かねばならないのであろうか?



 

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 交換前に使用していたもの 取り外す   製品名不明

 


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 スタンチュ−ブ 2インチ(約51.5mm)、  シャフト25mm



 

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 新シャフトシ−ルを取り付けて、これよりシャフトをエンジンに取りつける





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  新しいPSSシャフトシ−ル( 02-25M-200)


 

 製品説明サイト

 http://www.samtech-japan.com/product/item03.html



   2019-7-5



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2019年07月03日

延岡城


 JR延岡駅は素敵な図書館が付属したモダンな駅舎があります。あとで備中松山城を訪ねたときにJR高梁駅も同じ作りであったので、改装パタ−ンのひとつかと気が付きましたが。 そこからバスで10分くらいで延岡城へ到着します。

 延岡城は五ヶ瀬川と大瀬川の合流地点にある城です。1601年に高橋元種によって築かれた。本丸には3層の天守があったが1683年に焼けて現存しない。天守台跡に鐘付き堂があり、決まった時刻に鳴らすことから、市民に親しまれている。そのことをテレビで見て知っていた。

 高橋元種は秋月種実の次男として生まれ、高橋鐘種の養子となる。秀吉の九州征伐で降伏して、延岡に53000石を与えられ、延岡城・縣城を築城した。 関ケ原では大垣城に籠城し西軍が敗れると内応して、家康に所領を安堵された。1613年改易となる。その後は有馬氏、三浦氏、牧野氏と続き、内藤氏で維新を迎える。

 高橋家  高橋元種1587-1613 | 改易

 有馬家  有馬直純1614-1641 | 有馬康純1641-1679 | 有馬清純1679-1692 | 越後糸魚川藩に転封

 三浦家  三浦明敬1692-1712 | 三河刈谷藩に転封

 牧野家 牧野成央1712-1719 | 牧野貞通1719-1747 | 常陸笠間藩に転封

 内藤家  内藤政樹1747-1756 | 内藤政陽1756-1770 | 内藤政脩1770-1790 | 内藤政韶1790-1802 | 内藤政和1802-1806 | 内藤政順  1806-1834 | 内藤政義1834-1862 | 内藤政挙1862-1871 | 廃藩置県

 西南戦争の時には内藤家旧藩士は西郷軍に加わった。熊本で敗れたので本営を延岡に移す。延岡付近で激戦が行われたが、延岡の街は良き交渉により戦火をのがれたという。



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 延岡城と城下町図


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  千人殺しの石垣  ひとつを外すと崩れるという


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 天守台にある 鐘とその管理人の家


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  北大手門

 
   2019-7-3




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2019年07月01日

臼杵城・丹生島城

 
 ヨットで臼杵に入ったので海岸方面から城に入った。 案内が不十分で天守跡も最初は分からず、反対側の大手から戻って天守跡にたどりついたほどです。 あとで公務員風の通行人に家内が苦情を述べたが、人違いでとんだご迷惑をおかけした。その彼は市に申しておきますと良い対応をしてくれたのだが。 大手方面から見学をすれば印象が違ったのかもしれない。 城下町の雰囲気を残した地域もあります。

 大友宗麟が1556年に府内の館・大分から臼杵丹生島城へ居を移した。 キリシタン大名として栄え多くのキリスト教施設があったというが、往時の面影は見あたりませんでした。 三浦按針がめざしたのもここで半ば漂着みたいに、臼杵湾の一角の黒島に上陸した。今回はそこへは訪ねることはできなかった。

 大友氏は九州探題と云われるほど6か国を支配する大国であった。しかし朝鮮の役で敵前逃亡の罪により、秀吉に改易され滅んだ。

 稲葉貞道が5万石で入国した、幕末まで外様として続く。 稲葉氏は美濃で斎藤氏仕え、信長、秀吉に従う。関ヶ原では当初西軍に属し犬山城を守備する。その後に東軍へ寝返る。

 城は丹生島に築かれたので4方を海に囲まれた要害であった。現在は埋め立てられている。大友氏の時に島津から攻められてポルトガルから輸入したフランキ砲を利用して撃退した。本丸に配備されていたという。レプリカが城跡にある。

 


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 三浦按針が上陸した黒島



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  本丸付近図


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  大手付近


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 卯寅口門脇櫓


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  島津軍を追い返したフランキ砲


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武家屋敷


   2019-7-1


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2019年06月30日

こだま キテイちゃん列車


 新しい係留地の事前視察のために、広島から岡山へ行く、たまたま、ホ−ムにピンク色の列車が入線してきた。 新大阪−博多間を運航しているJR西日本のハロ−キテイ号であった。 岡山に行くのにはちょうど都合がよいので乗車してみた。 「のぞみ」なら一駅でいけるのだが、安くて急ぐ旅でもなし。

 外装はリボンをモチ−フにデザインされている。1号車はハロ−プラザとしてギッズを売るスペ−スもあり。2号車はおしゃれにかわいくキテイを飾り付けた内装です。子供連れの家族で乗るなら最高です。

 見かけたところ、日本人より外人ツ−リストが多い。 キテイは世界的なブランドになっているようだ。

   運航スケジュ−ル 

新幹線 こだま730号 博多 6・42発−−−新大阪 11・13着

   こだま741号 新大阪 11・29発−−−博多 15・38着

 特別な切符は無く、2号車は自由席で乗車できる。


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 ハロ−キテイ号 


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 キテイちゃんの車内インテリア


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 専用グッズを販売している車両 その1 

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  1両目すべてを使用       その2



   2019-6-30


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2019年06月29日

冷却水ポンプ交換



  弓削海の駅に着いて、ビルジを抜きだすと、くめどもくめどもバケツにビルジが溜まります、なんと20杯にもなりました。前日の大三島宮浦海の駅では2杯です。いつもエンジンを止めるとビルジを汲みだしているのだが、それは1杯程度ですので、大三島でも少し多いなとは思っておりました。 5時間艇程機走して弓削に着いた割には多すぎです。 エンジンボックスを上げて点検して見ますと、冷却水ポンプのエンジンに向かう接手からポタポタと海水が漏れていました。 ここだと思いビニ−ルホ−スを外してつないで止め金具を締めましたが状況は変わらず。普通はインペラの破損を疑うのですが、インペラの蓋ボルトには水漏れの気配がありません。
 他の係留しているヨットマンに尋ねると、それはアッセンブリ−の一体交換でないかとアドバイス。 的確な助言で、インペラの交換など無駄なことをしないですみました。 彼はボ−トショ−でエンジン保守の講義をしたことのある経験豊富なベテランヨットマンでした。 クル−ジングをしているヨットマンは、60代でキャリア10年以上のベテランが多く、小生の劣化したキャリアとは違いなんでもできる人が多い。

 ここ弓削には珍しくヤンマ−を取り扱う業者がいません。隣の因島にあるマリ−ナで2GMの冷却水ポンプを取り寄せてもらうことになる。その日は金曜日でしたが、あいにくヤンマ−の研修日にあたり休日、月曜日の部品発注になりました。火曜日の昼にはそれが着いて、因島マリ−ナまでとりに行く。往きは連絡船を土生(はぶ)で乗り継いで3時間。帰りはバスで土生へ、今治行の連絡船で弓削に到着、しめて5時間ほど要した。待ち時間が長いので時間がかかります。マリ−ナの人もどうやって来たのだと云われました。 

 交換作業は短時間で終わりました。ビニ−ルホ−スとのつなぎには金具で締めるのみでOK、シ−リング材も必要なしです。 

 旧ポンプは予備にしてとのアドバイスでしたが、児島のヤンマ−に出しましたが、費用が新品が4万8千円なのに、4万ほどかかるということなので、それを断念しています。 冷却水ポンプの本体にはドレンの穴があり、ベアリングやシ−ルの破損でそこから大量の水漏れが生じることがあり、今回の故障の原因です。 冷却水ポンプからの水漏れに注意しなければならないと学ぶ。 それを取り外してみてびっくり、ベルトが首の皮1枚で繋がっていました。すぐにも切断したでしょう。さっそく交換する。ベルトの締め具合もきつく締めすぎないとアドヴァイスがありました。本体のベアリングに負担がかかるからです。ヤンマ−のインペラも他社と違い1−2年では壊れないとのことです。


 

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 新旧の冷却水ポンプ



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 切れかかったベルト

   2019-6-29


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2019年06月27日

佐伯城(さいきじょう)


 佐伯・大入島海の駅へヨットで行き、そこからマリンバス200円で佐伯に着く。 佐伯城を訪ねる。 徒歩30分くらい、JR佐伯駅からは徒歩20分程度で行ける。甍には武家屋敷の雰囲気の残る通りを歩いて登城口・登山口に至る。帰りはタクシ−を利用した。

 天守や櫓、塀は余り残ってはいないけれど、石垣は多く残っているのでお城の雰囲気は大いに感じられてよい。再建したら面白そうである。

 毛利(森)高政が一六〇六年に城を完成させた。2万石の外様であるけれど、城の規模は石高から想定されるより大きく感じた。山上の本丸と2の丸は焼失し、甍に3の丸を増設してそこに居館をつくり藩の運営をした。 高政の親は信長に仕え、高政は秀吉の近習として仕える。秀吉の光秀討伐の大返しの際には、兄弟で毛利に人質になった。その際に毛利輝元に気に入られて毛利姓をもらう。関ケ原では最初は西軍に属したが東軍に投降した。1601年に佐伯2万石に転封になり佐伯城をつくる。



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 佐伯城 案内図


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 三層の天守があったが一六一七年焼失した


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 本丸へ登山口



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 3の丸櫓門

 

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 本丸入り口

 

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  2の丸 




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 本丸から望む


  2019-6-27


大分・佐伯城跡から4層階段状石垣 専門家「特異な構造」
毎日新聞 2019/07/04 10:36



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コピーライトマーク 毎日新聞 本丸の外曲輪下で見つかった階段状の石垣=大分県佐伯市の佐伯城跡で2019年7月2日、衛藤親撮影


 大分県佐伯市の佐伯城跡から4層の階段状をした石垣が見つかった。佐伯市教育委員会によると、18世紀前半に大雨のために崩落した斜面を補修した際に築かれたもので、自然石を使う穴太(あのう)積みの技と、堤防などの石組みに似た技術が合わさった特異な構造という。専門家は全国的にみてもきわめて珍しいと指摘する。【衛藤親】
 石垣は、本丸下の外曲輪北側斜面で見つかった。土や雑草を取り除いたところ、高さ13メートル、幅約30メートルにわたる大規模な石垣が現れた。石垣を補強する際に築く縢巾(はばき)石垣が4層の階段状になっている。また、各段の上は水平ではなく斜めにせり上がっていて石で覆われている。石垣の隅が斜面の地形に沿うようにカーブを描いているのも特徴だ。
 市教委によると、1734年(享保19年)の「御城修理絵図」に、大雨で外曲輪東側の塀や石垣、斜面が大きく崩れたと記載されている。今回4層の石垣が見つかった場所と一致するため、独特な石垣は復旧のために築かれたとみられる。
 城郭に詳しい佐賀大学の宮武正登教授は「縢巾石垣が4層にもなっている例は全国にない。保存状態も良く、極めて貴重だ。河川の堤防など治水事業に使われる技を城郭の補強工事に取り入れたと考えられ、これも例がない。高度な技術で本丸を守るために工夫されたのだろう」と語る。
 佐伯城は1601年に佐伯藩に封じられた毛利高政によって1606年、八幡山(現在の城山)に築かれた山城で、「鶴屋城」と呼ばれた。








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2019年06月25日

蒲江




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   赤丸 今回停泊位置 、 下の赤丸はウネリの入る時の避難位置・漁船のいないとき



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 係留位置  2−3隻は可能


 蒲江・大分県は、台風で避難したヨットもあると地元の人の話です。 しかし東よりの風が強いときはウネリが入り、今回の停泊位置では動揺する。その時はこの場所ではサイドアンカ−が必要でしょう。大きなフェンダ−を持っており助かったが、岸壁との間に浮かせていたフェンダ−が岸壁のハシゴにひっかかりライフラインを切断した。 船具屋でワイヤ−クリップを購入できて修理できた。

 東風が続いて5日ほど出られませんでしたが、ここは買い物、洗濯が便利です。おふろは近くのレストランを利用すると入浴できるという。利用しませんでした。

 佐伯にバスで行けるようですが、午後の便が見つからず行くことはなかった。

   2019-6-25



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2019年06月24日

日出城


 「関サバ」や「城下かれい」の地域ブランドは知られてきています。 小生はさっぱり食した覚えはないのですが。 さて、その「城下かれい」のお城はどこでしょうか?

 ヨットで日出城へ訪ねるつもりだったのが、杵築の漁港でアンカ−トラブルに巻き込まれて、巻き込まれたロ−プを除くために潜るハメになり、ここ日出の港への寄港を取りやめ別府に変更した。 そう、城下(しろした)とは日出城のことです。 現地を訪ねて分かった”にわか知識”ですが。

 お城近くに的山荘という格式の高そうな料理屋があり、お昼には城下御膳が5400円で食べられるといいますが、小生はその身分でないので「城下カレイ」はもちろん食べてはいません。

 別府から日出へはJR日豊線で320円20分ほどの近距離にあります。日出城跡のほとんどが小学校の敷地と化しています。 天主部もまたその敷地内です。 取り囲む石垣は残っています。

 初代藩主木下延俊が義兄の細川忠興の協力で築城した。 北政所に続がる関係で家康につき3万石の小藩として維新まで続く。

 

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 日出城下町図



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 日出城(陽谷城)図

 

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  外大手にある時鐘

 

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 鬼門櫓  鬼門・北東の隅がわざと角が切ってある珍しいもの

 

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 天守石垣 三層の天守があった


 明治初期まで城は存在し取り壊される前に実測が行われたという。規模も小さいことから復元されたら、良いものになるのではないかと思う。小学校は移転してもよいのでは? お城ファンの願望にすぎないのだけれども。



    2019-6-24








 
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2019年06月22日

「やどかり号」の九州一周


 老生が南下を断念して宮崎・延岡・土々呂から蒲江に入港した翌日に「やどかり」が入ってきました。大きなウネリに悩まされて避難してきたよし。それから悪天候が続き、彼らと4日に渡って宴会を愉しみました。やどかりは青島へ南下、小生は北上して臼杵へと別れる。 彼ら私とは違い、無事九州一周を成功させました。

 昨日に、我が家へキャンピンングカ−で「やどかり」オ−ナ−が訪れてくれる。 楽しいお酒を再びかわすことができた。その際に、彼らの寄港地を聞きましたので、ここに報告いたします。 GPSやWindyを手にした今のヨットマンには寄港地の情報が一番知りたいところです。

 やどかり  ヤマハ31Ex

 係留地は地図で赤星印で示しますが、飲みながらでしたので
間違いがあるかもしれません。

1. 大村湾ホ−ムポ−ト発
2. 佐世保 高島泊
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3. 福岡・能古島泊
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4. 福岡・門司泊
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5. 大分・豊後高田武田津泊
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6. 大分・臼杵泊
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7. 大分・蒲江泊
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8. 宮崎・門川泊
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9. 宮崎・青島泊
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10. 鹿児島・大泊泊
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11. 鹿児島・笠沙恵比寿泊
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12. 長崎・天草大江泊
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13 長崎・横瀬浦泊
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14. 長崎・大村着

   2019-6-22


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2019年06月19日

杵築城

 



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 守江湾・八坂川より見た都筑城・模擬天守



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 三方を川と海で囲まれた要害の都筑城



 北は高山川、東は守江湾。南は八坂川に囲まれた2つの台地に築かれた杵築城。 大友氏に属する木村頼直により築かれた。大友氏が秀吉により改易され木村続直も自刃し滅びた。 その後、前田玄以、秀吉の腹心だった宮部継潤、杉原長房、続いて慶長4年(1599年)には細川忠興の所領となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置いた。寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。その後、正保2年には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられ、その後明治維新まで居を構えた。

 譜代の能見松平家は、松平家の庶流を祖として三河の時代から徳川に仕える。長篠の戦いや大阪夏の陣で戦功を挙げた。家康6男の松平忠輝の付け家老となり改易になったが連座することなく、独立大名として取り立てられた。横須賀、出羽、摂津、豊後高田と転封を続け杵築に定着した。



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 都筑の漁港にヨットを係留し、そこから天守が望まれるので、目標として30分ほど歩いて城へ到着した。 天守(模擬)と上下台地にある武家屋敷がみることができる。こじんまりまとまっているが、それなりに風情がある町並みがある。5月の連休にお城祭りがあったようだが、当日は終わって後かたずけをしていた。


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  天守



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 北台武家屋敷



  2019-6-19
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2019年06月16日

2019年 九州周航



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救世主にえい航される


 昨日に家に2か月ぶりに帰りました。 昨年は長崎止まりで終えたため、今度は東回りでプランしました。
別府に入る時から、海藻ホンダワラがスクリュ−にからみつくことが多くなり。他のセ−ラ−に尋ねてみても、今年は異常にそれが多いとの意見です。1日おきに潜ってそれを取り除く作業を余儀なくされた。 最後はそれでエンジン出力が低下して港へ、えい航される事態に陥いる。そのため気力も失せ、おまけに悪天候で港に待機することも多くなり、延岡・土々呂で南下を断念して引き返した。

 廿日市に帰港して、次のホ−ムポ−ト岡山児島に向かう。そこへは3日で行けるところをあと1日の弓削でバケツ二〇杯のビルジがたまりました。冷却水ポンプの交換、児島に着いて、スタ−ンチュ−ブの交換と悪い事態が続き日数的にも費用的にも膨大な消費を被る。

 今年のクル−ズは失敗です。 しかし、九州や岡山の地元のヨットマンの方々に親切なお世話を受けたり、クル−ジング中のベテランヨットマンの貴重なアドヴァイスなどで無事に乗り切ることができました。

   皆様大変ありがとうございました。

 他のヨットマンへ今度はあなたがお返しをしてやってくださいと云われましたが、69歳で復帰した初心者みたいな終活セ−ラ−の老生には、何か持っているものがあるのかと自問するばかりです。
 日本にはヨットの世界ではこんな貴重な人間関係の世界が存在しています。60歳以下の人はほとんどヨットをやっていないので、この世界も絶滅していくのでしょう。
 クル−ジングの楽しみは景色・文化・人間と有りますが、今回はヨットマンのふれあいに堪能したクル−ズでした。これはありがたい体験でした。 日頃の行いの良いとは思われない小生にも救世主が現れましたし。

 2019年 所在・ 県・ 訪問など

4月16日 火 北本発 廿日市・ 広島
4月17日 水 整備 廿日市・ 広島
4月18日 木 岡山 児島視察 廿日市・ 広島・ ハロ−キテイ号
4月19日 金 マリ−ナ退出届け 廿日市・ 広島
4月20日 土 整備 廿日市・ 広島
4月21日 日 整備 廿日市・ 広島
4月22日 月  五日市メ−プルマリ−ナ ドック 五日市・ 広島
4月23日 火 ドック休み 五日市・ 広島・ 草津城
4月24日 水 ドック 五日市・ 広島
4月25日 木 ドック 五日市・ 広島
4月26日 金 ドック 五日市・ 広島
4月27日 土 ドック 五日市・ 広島
4月28日 日 整備 廿日市・ 広島
4月29日 月 整備 廿日市・ 広島
4月30日 火 整備 廿日市・ 広島
5月1日 水 廿日市発 上関・ 山口
5月2日 木 上関発 三机・ 愛媛
5月3日 金 三机発 マリンピアむさし・ 大分
5月4日 土 マリンピアむさし・ 大分
5月5日 日 むさし発 杵築・ 大分・ 杵築城
5月6日 月 杵築発 別府・ 大分
5月7日 火 別府・ 大分・ 日出城
5月8日 水 妻着 別府・ 大分
5月9日 木 別府・ 大分・ 鉄輪温泉
5月10日 金 別府発 臼杵・ 大分・ 臼杵城
5月11日 土 臼杵発 大入島・ 大分・ 佐伯城
5月12日 日 大入島発 土々呂・ 宮崎
5月13日 月 延岡 土々呂・ 宮崎
5月14日 火 延岡 土々呂・ 宮崎・ 延岡城、西郷陣屋
5月15日 水 延岡 土々呂・ 宮崎・ 高千穂
5月16日 木 妻帰着 土々呂発 蒲江・ 大分
5月17日 金 蒲江・ 大分
5月18日 土 蒲江・ 大分
5月19日 日 蒲江・ 大分
5月20日 月 蒲江・ 大分
5月21日 火 蒲江・ 大分
5月22日 水 蒲江発 臼杵・ 大分・ 臼杵城
5月23日 木 臼杵発 三机・ 愛媛
5月24日 金 三机発 上関・ 山口
5月25日 土 上関発 廿日市・ 広島
5月26日 日 廿日市・ 広島
5月27日 月 児島行 廿日市・ 広島
5月28日 火 廿日市・ 広島
5月29日 水 廿日市発 大三島・ 愛媛
5月30日 木 大三島発 弓削・ 愛媛
5月31日 金 部品待ち 弓削・ 愛媛
6月1日 土 部品待ち 弓削・ 愛媛
6月2日 日 部品待ち 弓削・ 愛媛
6月3日 月 部品注文 弓削・ 愛媛
6月4日 火 因島部品到着 冷却水ポンプ取換え 弓削・ 愛媛・ 因島
6月5日 水 弓削発 児島・ 岡山
6月6日 木 児島・ 岡山
6月7日 金 UW-1 マリ−ナ 児島・ 岡山
6月8日 土 マリ−ナ 児島・ 岡山
6月9日 日 マリ−ナ 児島・ 岡山
6月10日 月 マリ−ナ 部品注文 児島・ 岡山
6月11日 火 マリ−ナ 児島・ 岡山・ 備中松山城
6月12日 水 マリ−ナ 部品到着 児島・ 岡山
6月13日 木 マリ−ナ スタンチュ−ブ修理完了 児島・ 岡山
6月14日 金 児島・ 岡山
6月15日 土 児島発 自宅・ 埼玉

   2019年 6-16




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2019年01月25日

三浦按針・ウイリアム・アダムス

 

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 1564-1620

 ヨットで平戸を訪ねたときに三浦按針のお墓や宅跡があり。どうしてここに足跡があるのか不思議な気がしました。召し抱えられて三浦に領地をもらったことは知っていた。 彼はちょうど関ケ原の戦いの前に「漂着した」といわれるが、そうではなく、豊後を目指してズタズタになりながらも目的地に到着しました。
大阪で豊臣政権の大老をしていた家康と謁見して気に入られ、外交顧問として重用された。英国には妻と子供がいるのだが、日本人女性と結婚して長男と長女がいる。
帰国することもかなわずに平戸で亡くなった。なお按針は水先案内人の意味である。



   三浦按針 年表

1564 三浦按針ことウイリアム・アダムスはエリザベス女王の時代にケント地方の町、ジェリンガムに生まれた。
1576 12歳のころには、船長の資格をもつニコラス・デイギンズの見習いとして12年間過ごした。
1581 オランダ独立宣言
1588 その会社と海軍で働いた後、およそ11年から12年の間アフリカの地中海北岸との貿易船で働いた。
1598年 6月 5隻のオランダ船団の1隻の航海士として乗り組み東インドに向かう。
 アフリカのギニア沿岸に停泊する。壊血病が蔓延して指揮官や乗組員の相当数が死んだ。
1599年 4月初め マゼラン海峡まで達した。(注. 喜望峰周りではなく困難な航路を航海した)冬になっていたので航海が困難で越冬をおこなう。
  9月まで釘付けになり食料も尽き多くの仲間が飢えで死んだ。やっと海峡を抜けたが、船団は離れ離れになる。アダムスの乗ったリ−フデ号(エラスムス号)は仲間を待つために南緯38度チリ・モカ(Mocha)島に向かう。強風で錨を下ろすことができずに、サンタマリア島に変更した。そこで原住民の策略にかかり船長や弟のト−マス・アダムスや同僚を失う。錨を上げることさえ難しくなる人数になる。2−3日して僚船・ホープ号と会うことができた。彼らは同様にしてモカ島で20-30人の仲間を失っていた。このような状況であったが、スペイン人と交渉して必要な食糧を得た。アダムスの船では互選された船長のもとで協議し、積み荷の毛織物が売りさばくのがふさわしい地として、日本行が決定された。
1599年  11/29 日本に向けて出帆。数か月にわたって貿易風に恵まれた。北緯16度付近の島で8人が人食い人種の犠牲になる。北緯27度から28度で風向きの一定しない嵐に遭遇した。
1600年 2/24 僚船を見失う。
 3/24 ウナコロナ島が見えた。このころには這いずっても働けるものは9−10人であった。
 4/11日本が見えた。めざした豊後であった。動けるものは24人中5人にすぎない。出港時は110人。
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 ウイリアム・アダムスが上陸した黒島

 4/12 小型の船で日本人が乗り込んできた。1軒の家があてがわれて、食事も供せられ休むことができた。ポルトガル人が長崎よりやってきて、我々を海賊であり処刑を主張した。我々の事が家康に報告されて、ヤンヨ−ステンと2人が会見のため大阪に向かう。
 5/12に大阪に着く。家康に質問攻めにあい、交易目的で布教のためでないと理解を得る。カソリックとプロテスタントの対立も家康に述べる。
  41日間牢に入り釈放され船に戻る。 その間にリ−フデ号は大阪に曳航さ。積荷・備品などすべてはすべて持ち去られたが、家康が戻すよう命令した。
      5万レアル相当の食糧や必需品を支給される。 江戸に行くよう命令される。
      これから2年間船に戻ること禁止された。お米と生活費を支給される。
      江戸湾に係留されたリ−フデ号が沈没する。
1602    オランダ、東インド会社設立
1603    江戸幕府
1604    伊東で80トンの帆船を完成させる
1605    オランダ、ポルトガルよりモルッカ諸島を奪う
1607    120トンの帆船を完成させる。この船はアカプルコにスペイン人遭難者を送り日本へ戻る。
1609    オランダが平戸に商館設立
1611頃  250石の旗本となる。横須賀逸見に領地を得る。オランダ船ブラック号平戸に入港。オランダが日本と交易するのに貢献した。
1613    イギリス船クロ−ブ号が通商を求めて来航した際に、家康への謁見と朱印状の交付を助けた。
      家康、全国に禁教令
   9/1 イギリスとの通商許可がおりた。 オランダ商館の手伝いを辞めてイギリス商館に勤める。
1614 クロ−ブ号での帰国許可が日英より出たが、司令官と折り合わずに見送る。
1616 4月 家康死去、 秀忠が鎖国体制を敷いたため、不遇となる。
1619  オランダ、ジャワ島にバタヴィア市建設
1620  平戸で死亡


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 貿易風の風向     赤線は三浦按針の想定日本への航路

 
      2019-1-25


平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」


4/2(火) 11:05配信

長崎新聞より



 長崎県平戸市は1日、平戸市崎方公園内の「三浦按針(あんじん)墓地」で出土した人骨について、ヨーロッパ人男性と断定したことを明らかにした。平戸市は、徳川家康の外交顧問を務めた英国人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)の可能性が高いとみている。

 平戸市は2017年に墓地の発掘調査を実施。頭蓋骨など複数の骨片が入ったつぼが見つかり、山口県のNPO法人「人類学研究機構」に骨の鑑定を依頼していた。

 鑑定では、骨の残存状態が悪いため個人の特定に必要な核DNAの抽出を断念。母から子に受け継がれ祖先をたどることができるミトコンドリアDNAを分析した結果、日本人には見られず北・西ヨーロッパ人に多い「ハプロタイプH1」と呼ばれる塩基配列を確認した。

 このほか骨に含まれるコラーゲンを抽出し、炭素成分を年代測定。1590年から1620年に死亡した可能性が高いと分かった。按針は1620年に死去している。

 平戸市によると、1561年から1640年までに平戸で死亡した外国人は計約70人。このうち1590年から1620年に死亡したのは按針を含む英国人とオランダ人の計10人だった。

 平戸市は今後、墓地を再調査し、西洋風の長方形をした墓の遺構が残っていないか確認する方針。按針の子孫も捜しているが有力な情報は得られておらず、「今後も多くの研究者らの協力を得ながら調査を進めたい」としている。



 平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」 長崎新聞

  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190402-00000002-nagasaki-l42


   2019-4-2











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2019年01月01日

2019年 元旦


 今年もよいお年をお迎えください。

        速魚


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    2019-1-1
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2018年12月28日

大畠瀬戸 その2  貨物船と橋の衝突

  
 10月22日大畠瀬戸の瀬戸大橋でドイツ海運会社が所有する貨物船「エルナ・オルデンドルフ」マルタ船籍・船長インドネシア人・乗組員21名が橋桁に衝突した。送水管が破断して周防大島の全域で断水している。

 ここで大畠瀬戸で取り上げています。 ヨットで6回ほど通航しました、ここでは500トン程度の内航船と小型フェリ−と行き会うことがほとんどでした。

 かって鳴門海峡を今回のような中国の外航大型船が通航して事故を起こしたことを思い出しました。日本人船員には常識はずれの行動です。 

 日本人外航船員の絶滅した現在では、輸出入の船舶は船籍・船員・所有国が異なる便宜置籍が主力になっています。 おまけに水先法の規制もゆるいようで不慣れな外国人船長の判断で運航されている現状です。 今後も同様な事故は起こるでしょう。


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 赤線が事故船の推定航路
 
   
 ブリッジクリアランスという数値があります。プレジャ−ボ−ト・ヨットの世界でも背丈の高いものにはスペックシ−トに記載されています。大型カタマラン60f以上では70-80fのクリアランスのものがあります。この瀬戸大橋は31.9mの高さですので航行する際には注意が必要です。

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 事故を起こした貨物船 レダ−マストが後方に折れ曲がっている


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 切断され橋から垂れ下がった送水管


 ヨットで柳井へ向かう場合は山口県寄りに航行する。上関に向かう場合は周防大島・屋代島寄りを航行したほうが距離的に近い。


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大畠瀬戸の航法


    2018-12-28

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2018年11月01日

関門海峡と進路警戒船


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 初代「速魚」による通峡

 40年前に初めて関門海峡を通ってから4回目になります。しっかりと潮汐表を準備しての通峡でしたが、サイトで調べられる時代になったので、表なしで今回は通航しました。

 新門司マリ−ナを出て2時間余りで門司埼・関門大橋の近くに着きます。 そこでエンジンの音が変わったので潮に当たったのだと思いました。速度も1ノット落ちて4ノットになる。その後に池島で潜ってその原因がロ−プのスクリュ−への巻き込みだと、2週間も過ぎて判明します。余りスキルのあるヨットマンではないとバレてしまいました。

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 その時に門司埼の方向から真向かいの行き会い状況に作業艇らしきものと衝突の恐れが生じました。法令に従い舵を右に切り避航動作をとる。 相手船はそのまま接近してきて、左に寄るようスピカ−で怒鳴るように
指示される。その船は巨大船の関門海峡通航にまつわる進路警戒船であった。 彼の意図は、海峡の最も狭くて潮流の速い門司埼でのこちらのヨットと巨大船の接近を避けようとするものであったのでしょう。 指示どうり左に針路を向けて、こちらの意図しない門司埼にごく近くを通航するハメになりました。こんなに近くても門司埼を航行できるものだと思いましたが。

 警戒船が自分の意図どうりにしようと思うなら、真向かいの航法が適用されるこちらへの接近は避けるべきでしょう。ヨットに左へ舵をきらせて、右舷対右舷での通航をさせたいのでしたら、ヨットへは警戒船の右舷を見せてヨットに接近すべきである。なぜなら真向かいの航法では互いに右に舵をきるからです。

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 この警戒船ではないが、進路警戒船には赤の吹き流しを揚げているようである。

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 関門海峡 通常は右側航行であるが、100トン未満の船は門司埼に近寄って航行できる特例

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 真向かいの航法

 元船乗りで巨大船に乗ったこともあるので、舵効きが遅くサイズの大きい本船では瀬戸内海などでは、本当に進路警戒船はありがたいと実感したことがある身の上ですが、今度は指示をうける小型船に乗ってみると、適切な行動をとってもらいたいと思うものです。

  帰りにも再度逆から通峡しましたが、ブイ近くを航行していました、後ろから追い越される船にブイの岸よりの浅いところへ追い込まれそうになりヒヤ汗を掻くことになる。 峡水路の通航の際には潮止まりの時刻を狙うことが多いのですが、関門では連れの追い潮4ノットでも行けるようです。

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 下関からみた関門大橋

   2018-11-1


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2018年10月05日

長崎と五島結ぶ定期船が突然運休



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長崎市と上五島(鯛ノ浦港)、佐世保市と上五島(有川港)、佐世保市と下五島(福江港)、長崎市と天草市(崎津漁港)の4航路でフェリーや高速船を運行

 朝日新聞デジタルによる記事
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181002-00000069-asahi-soci


 今年の初夏に上五島島の有川港で1週間程ヨット停泊滞在したことがあり、そこから世界遺産になった教会を訪ねました。

 今回報道の船会社のフェリ−や高速船にはヨットで訪れたこともあり利用しませんでした。 しかしその会社の企画ツア−で旧五輪教会や江上天主堂を訪れるものに参加しました。半日で1万円弱の費用で有川からタクシ-に乗り、途中で海上タクシ−で辺鄙な島々の孤立したような世界遺産の教会を見るツア−です。 ヨットでそこを訪れるのには日程・気象の都合があり断念した小生にはありがたい企画でした。困ったことは福江が終点でヨットのある有川へ帰ることでした。 フェリ−とタクシ−で帰るはめになり金銭的にも時間的にもつらいものになりました。


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 ツア−利用の海上タクシ-  若松島着岸


 五島列島に行って知ったことですが、それぞれの島には九州への航路とそのスケジュ−ルが思ったより充実していたことでした。おまけに島民には5割引きの運賃が適用され恩恵にあずかれます。 島内バスは料金が高いけれど多くの路線があります。これは自動車社会なので少ない利用のようです。部外者のヨット乗りには利用せざるおえませんでしたが。


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 有川旅客船岸壁より見た 我がヨット


 有川よりレンタルバイクで鯛の浦へ行きました。そこには予想外でしたが長崎行の高速船がありました。 今回運休した航路ですが、有川より自転車で15分程で行ける距離です。地理的には長崎への好立地ではあるけれど、そこの住民は少なく、採算的には厳しいものではと思われました。 この船は町からの無償貸与ということです。


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 鯛の浦−長崎 カタマラン高速船乗り場


 これから世界遺産でのにぎわいが予想されますが、それも数年のことかもしれません。今回訪れた宗像大島の中津宮も数年まえに登録されましたが、そこへ訪ねたときには観光客と思われる人はいませんでした。

 上五島島の奈良尾から長崎へのフェリ−と高速船もあります。 それらを想定して航路の再編がなされなければなりません。 部外者のおせっかいですが。

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 宗像大島 中津宮



   2018-10-5






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2018年10月03日

上関 その2 長島


 テレビで大阪の拘置所より脱走した男が上関の陸の駅で万引きする場面が放映されました。 自転車旅行・日本一周を掲げていたようです。

 ここで「上関 その1 室津」が見られますが、今回の九州クル−ズでも上関に2度立ち寄りお世話になりました。 その続編となります。

 室津の防長バスの停留所から終点まで乗る。 しかしそこは何もないところで、来た道を徒歩で戻りながら番所跡を捜した。なんのことはない橋を渡ってすぐの場所であった。
室津から徒歩でも行くことができる。昔の上関の面影を期待しましたが、瀬戸内の漁師町のひとつであった。

 上関大橋で繋がらない昔は長島が上関の中心です。 長州藩の三関、上関・中関・下関の一つで海の重要な拠点であった。上関番所やお茶屋で朝鮮通信使を迎えた。

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 旧上関番所(県指定文化財) 海岸沿いにあったものが移築された


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 お茶屋跡  


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 朝鮮通信使来航図  往時の上関がうかがえる


 ここは海の要地であることから村上水軍の能島水軍の上関城があり、そこへは訪ねることができませんでした。公園となっているようです。

 ヨットの停泊地としては長島地区はスペ−スも狭く、室津地区のほうがふさわしいでしょう。


   2018-10-3
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