2021年07月02日

庭瀬城 と 懐川城(なつかわ)






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 JR岡山駅より倉敷方面へ山陽本線か伯備線に乗りJR庭瀬駅で下車する。 いつもの雨の中徒歩で庭瀬城と武川城を訪ねた。 上図でも分かるように、ここらは水郷地帯になっており、一般の住宅のすぐ横を水路が通る。それもその水位が高くて、ちょっと雨が降るとこの地区は床下浸水になるのではと心配になる。 先の吉備町の水害の時はどうであったのか。


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 水路近くの家



    庭瀬城


  備中國の三村元親が、備前国の宇喜多氏の備えとして庭瀬城を築かせたと伝わる。 撫川城はその縄張りの一部であったと云います。
 宇喜多直家の家老であった戸川達安(みちやす)(1586-1628)(25000石)は宇喜多家を出奔、関ケ原の戦いで家康に属しその戦功により庭瀬藩初代藩主となる。戸川氏は断絶した時期がある、その後に久世氏と松平氏が入封し、1699年には板倉氏が入り幕末までここを支配した。



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 庭瀬城 古図  清山神社は陣屋跡



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 庭瀬城跡



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 庭瀬港


 井出浜の庭瀬外港で、関西から運ばれてきた積荷を降ろし、庭瀬内港(遡行上限の川湊)に運ばれ、東端には常夜灯が設けられ、水陸交通の拠点として栄えた。 


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 庭瀬港(旧庭瀬内港)  常夜灯



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  庭瀬港  表御門と常夜灯付近の図



 庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも結ばれていることから、ここは水路と陸路の交わる交通の要地であった。 それゆえ道標が多くみられる。 山陽本線が開通するまで栄えたという。



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 道標  金毘羅と吉備津を表示




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  庭瀬往来の街並み





   撫川城(なつかわ)


 戸川家改易後に5000石で弟の戸川 逵冨(とがわ みちとみ)がここに陣屋を設けた。

 東西70mで南北57mの長方形であり、幅15mの堀が巡っている。 周りは民家が建っているがそこに住んでいてお城を見ながらの生活とはいかがなものであろうか?
それにしても大雨が降ると思うと心配である。



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 入り口にある門は明治に陣屋総門を移築したもの





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  本丸





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 南側 正面





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 西側 石垣


      2021-7-2
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2021年06月28日

館林城 と 館林散歩

    
    

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  館林城と惣構


  徳川家康が関東に入府したとき、各地の要所に主要な家来を置き城と城下町を作らせ防備を固めた。その一つが榊原康政が築いた10万石の館林城と町である。1661年には家光の4男・綱吉が25万石でここに入封した。
そして彼は1680年に5代将軍になる。


  東部伊勢崎線の館林駅より友人に導かれてタクシ-で向井千秋記念館に向かった。 そこは天文台を思わせるような建物がある。 しかし、それからは想像できない館林城の本丸のあったところである。 城好きの老人にはこの建物は新地の大きな道路わきに立つべきものであると思われる。 そこと田山花袋記念館の間を抜けると土塁が見られる。八幡社がありその地は八幡郭の地である。本丸、八幡郭、南郭には堀で隔てられていたが現在はこの城の堀は多くは埋められていてその幅も現在の道路幅よりは大きくあったように見受けられた。

 

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   八幡社

 八幡郭には明治まで続いた秋元家(1836-1869)の別邸がある。明治期の建物らしく欧風な感じもして中を見ることはなかったけれど、趣深い建物である。



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 旧秋元別邸  八幡郭にあると思われる



 尾曳橋に続がる道路から尾曳稲荷の旗が見られたのでそこへ行く。 稲荷郭のあった位置である。 同じように本丸、稲荷郭、外郭は堀で隔てられていたが、現在は埋められている。



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 尾曳稲荷神社



 稲荷郭には旧モスリン事務所(第2資料館)や田山花袋旧宅など興味深い建物が見られた。



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 旧上毛モスリン事務所





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  旧田山花袋宅



 2の丸には館林市役所が建っている。 本丸との堀は埋められているが、大きな広場がある。同様に3の丸との間も埋められている。 3の丸にある第一資料館は図書館の中にあります。 展示物に城郭模型があり、それを見ると良くわかります。


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2の丸にある 市役所



 3の丸にある土橋門は復元されたもの。 この辺りには土塁などよく残っていて唯一城跡の風情が残っているところである。




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  土橋門


  土橋門を出て分かりにくいけれど敷石がひかれた道路があり、それが歴史の小路と呼ばれている。 そこを駅に向かって歩いた。  途中で田中正蔵記念館、武鷹館、長屋門、見番組合事務所,などを訪ねて館林駅に着いた。





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 田中正蔵K記念館  足尾鉱毒事件を戦う




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 武鷹館 旧館林藩士住宅   尾曳町から移転した中級武士の宅





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  長屋門  豪農松澤家から移築





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  見番組合事務所  芸者置屋組合事務所





  昼食は館林名物のうどんを食した。 午後は惣構えの中にある町人町を散策する。 江戸口から佐野口に至る日光脇往還を歩いた。立派な案内パンフレットがあるが、実際にあるいてみると見るべきものが見当たらず、期待倒れであった。 江戸口は単なる交差点で碑も無く地図で推測しないと分からなかった。ひたすら熱いなかで車の行きかう道路脇を歩く。これが本当の日光湧く往還・道路であるか。 佐野口は土塀と堀が分かり古図どうりであった。





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 江戸口




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 佐野口御門跡石碑





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  佐野口  あたりの土塁と堀



 市立第一中学の敷地の北西角で直角に土塀と堀は曲がっている。 校舎内であるので立ち入りはできないが、ここらあたりは良く残っている。



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 中学校の北西角



 中学を過ぎると間もなく堀が埋められていてたどれなくなった。 地方道前橋館林線の道路(古河往還で大手門へ繋がる)脇に太田口門跡石碑を見つけた。



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 太田口御門石碑



 愛宕神社、 感性寺、 覚応寺、 応声字とお寺の集まる地域を歩く。 応声寺ではお城から拝領した城鐘を見た。



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  愛宕神社





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 応声寺  鐘楼堂  城から払い下げられた鐘



  ほどなく、館林駅に着いた。 朝9時から昼食をはさんで午後3時までの館林散歩となった。

 館林の惣郭は湿地・沼地の台地上に作られていたのが分かった。 堀の外側は一段と下がっている。 歩いていて高低差に注意すると境目が分かるようである。

 外郭の北側の総郭にある加法師口、下戸張の城への門口は確かめられなかった。友人もここに住んでいるので、また、訪れよう。



     2021-6-28


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2021年06月25日

深谷城、庁鼻和城, 東方城, 皿沼城


  


  埼玉県・深谷にある4つの城をレンタサイクルにて見てきました。

 関東の戦国時代の覇権争いは小生には興味を持てないようで、 整理して出来てはいません。 上杉だれそれが新潟へ逃れたとか、川越夜戦の戦いで北条氏が勝ち、小田原攻めで秀吉が勝つまでの間北条氏が覇権を握った程度の知識です。 ここでは詳しくは述べまい。できない。


 山内上杉氏は深谷庁鼻和城を居城としていたが、上杉憲国の時代に深谷城に居城を移した。 1573年上杉憲盛のときに北条氏に属した。秀吉の小田征伐のときには深谷城主の氏憲は不在で深谷城を開城した。





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  深谷周辺城地図



  深谷城 



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 深谷城 想定図

 



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  深谷城跡公園



 深谷城は城跡公園の模擬塀がそれらしく感じられるが堀も埋められており、 かってを偲ぶものがない。 残念である。 訪れた時は中学生の写生の事業がおこなわれていて、あちこちに若い人の賑わいであふれていた。

 外堀の跡があるとのことだが、訪ねることはできなかった。





  庁鼻和城・こばなわじょう



 庁鼻和城は関東管領・山内上杉憲顕(のりあき)の6男である上杉蔵人憲英(のりふさ)により、新田義貞の子・新田義宗に対抗するために築かれた城です。山内上杉氏の分家・庁鼻和上杉氏(のちの深谷上杉氏)の居城として使われましたが、1456年(康正2年)、上杉憲房が深谷城を築いて本拠を移したことに伴い廃城となったと思われます。現在城址は憲英によって創建された国済寺の境内となっており、歴代当主の墓があります。入口には「庁鼻和城舊里之碑」と書かれた城址碑が建てられています。



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 国済寺にある案内板


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  土塁


 

   東方城・ひがしかたじょう


 東方城は深谷城を防衛する支城として、皿沼城や曲田城とともに深谷上杉氏によって築かれた城です。矢井伊勢守重家の弟、若狭守重任が城主をつとめたと伝わっています。1590年(天正18年)に徳川家康が関東に入封すると、戸田松平家の祖となる松平康長が一万石で入城しますが、1601年(慶長6年)に康長は白井藩に加増移封されたため、廃城となりました。現在城址には案内板が設置されているほか、土塁や空堀などの遺構が残っており、土塁跡近くには「史跡東方城塁跡」と書かれた標柱が建てられています。また近くの全久院に松平康長の五輪塔があります。



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  案内板

 

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  土塁


  国道263の脇にある。 城跡の一部は保育園になっていた。 子供たちのにぎやかな声が聞こえる。 土塁がぐるりと残っていたので歩いて廻ることができる。







  皿沼城・さらぬまじょう


 深谷上杉氏の家老深谷上杉氏の家老の一人岡谷加賀守香丹、清英父子の居城といわれています。延徳3年(1491年)古河公方との抗争に備えて築かれたと伝えられるという。

 訪れてみても城跡の案内板があるのみで、ここがそうなのかと思うばかりである。


 

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  皿沼城の案内板  石碑は放水路記念碑




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   2021-6-25
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2021年06月24日

砥石城 と 乙子城



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 砥石城へは岡山からJR赤穂線に乗り大富駅で下車して徒歩で30分ほどで行けた、標高100mの本丸へ上り、千町川に沿って高取山城の登山口まで歩き、そこで足が痛くなりタクシ−を呼び乙子城兵へ行き、帰りは再びタクシ−にて西大寺駅まで乗車した。

 タクシ−はグ−グルマップの音声検索で「近くのタクシ−」で電話して迎えに来てもらった。ヤットこの技を覚えた。しかし徒歩で歩けず年には勝てないのであろうか。



  砥石城


 徒歩での城廻は思わぬ場所にぶつかることが有る。 仁生田(荷蓋・にぶた)の攻防戦の地を見つけた。 宇喜多直家は浦上宗景に仕え戦功をあげて乙子城城をもらった。 1535年 砥石城主浮田山城守に謀反の様子があり宗景はこれ討つように命じた。 乙子城と砥石城の戦いは3年余りも続き、この地で合戦が行われたという。 直家は天神山勢とともについに砥石城を落とした。



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 仁生田(にぶた)合戦の地



 

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 千町川より砥石城を望む


 入り口から100m余りを歩くのだが、藪はないけれど石のゴツゴツし道になり、下りるときには滑りやすく適当な枯れ枝を使うことになった。

 

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 砥石城 入り口標識




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   砥石城  縄張り



 千町平野には備前国で栄えた西大寺や福岡の町がある。



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  本丸から見た千町平野



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  本丸







   高取山城

 1534年に砥石城主宇喜多能家(よしいえ)を高取山城主の島村豊後の上が夜襲で攻め滅ぼした。

 

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  高取山城 入り口


  今回は足のスネに痛みがきたので、入り口までで高取山城へ行くのは断念した。






  乙子城(おとご)


 吉井川河口部東岸、岡山市乙子にある。かつて児島は瀬戸内海に浮かぶ島であり、児島と岡山平野の間は、吉備穴海といわれる内海であった。

この内海は九州と畿内を結ぶパイプであり、源平の争乱の舞台にもなる重要な航路であった。乙子城は、この内海の東の入り口を押さえる拠点で

もあった。

 


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  戦国時代の乙子城 周辺図



 宇喜多直家は武功により宗景より新庄山城を与えられてここより移る。 そこから沼城、 岡山城と 大名に出世していく初めの城が乙子城である。





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  乙子城  登り口



 案内板に沿って登って行くと乙子神社に出る。神社にも案内板があり、進んでいくとお墓の中を登っていくようになる。

構わず進むと本丸へたどり着く。



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 乙子神社   2の丸だったともいわれる





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  本丸





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  乙子城 縄張りと古図



 帰りは吉川沿いの手すりと階段が整備されている道を下った。 こちら側が便利な世紀の進路のようだ。





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 この石垣は城に関係あるかどうかは不明





       2021-6-24
posted by 終活・克ヨット at 13:04| Comment(0) | 日記

2021年06月01日

新型コロナが本当にこわくなくなる

  

          松田学、井上正康さんらによる



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       方丈社刊





 自衛隊の広域と地元の申し込みサイトを何度も失敗してやっと地元サイトのワクチン予約ができました。 ヨット好きの小生は今年の春巡航の計画はまだすすんでいません。 緊急事態と蔓延防止の期間が6月半ばころまで3週間延長の動きです。  ワクチンを打つ打たないの議論がある中で、迷いながらも基礎疾患持ちの74歳としてはワクチンを打つことに決めました。 1000人に1-2人の感染で1000人ほどの死者の現況では、ワクチンの情報も偏りが見られるので、若い人にはじっくり様子見して最後の最後になってワクチン摂取を決めればよいと小生は考えています。 そのような訳で上記の本を読みました。
 テレビや新聞など日常的に接するマスコミは公正中立な報道には疑いがあります。ワクチンの是非を自分が判断する際にはYouTubeや書籍など違った意見にも目を通す必要があります。


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 毎日毎日感染者数が発表されて一喜一憂していますが、感染者数ではなくPCR陽性者数であるというのが真実です。 PCR検査の陽性は感染そのものを示すものではない。感染力のあるウイルスが検出されるのはPCR検査のCt値と呼ばれるサイクル数は20までとなっている。 (Ct値とは       )サイクル数の運用は20のニュ−ジ−ランド、30-35の台湾やスエ−デンです。40-45で運用しているのが英国、フランス、日本である。 35サイクル以上では感染力のないカケラばかりと云われる。 低いサイクルで運用している国が感染の抑え込みに成功している。
 PCR検査を感染症の診断に用いてはならない。この検査で見つけられた遺伝子のカケラ(陽性)はそれが感染力をもつウイルスのものであるかどうかは不明である。また、感染したからといって必ずしも発症するものではない。 無症状の人にはPCR検査を実施する必要はなく、症状が出たときにCT検査を行い肺炎の症状の時にPCR検査をすれば混乱がなくなる。

 日本は早い時期に集団免疫を獲得していた。 この時期になっても政府のコロナ対策を満足にしていないという世論調査が7割にも及ぶ。 昨年の春節前に中国からの入国者を止めればよいのに、入れてしまった。日本は運のよい国で先の原発事故の際にも幸運に恵まれたという。入国制限をしなかったゆえに新型の弱毒ウイルスに感染して、本来日本人が持っていた土着のコロナウイルスの免疫的基盤に加えてコロナ免疫力が強化された幸運になる。 その後入国してきた変異型強毒株に対処することができた。  まだファクタ−Xという欧米に比べて日本人が2ケタも被害が少ないことは研究中であるけれど。

 人類が初めて試す遺伝子ワクチンをこれから接種しようとしています。 英国やイスラエルのワクチン接種率の高いところでは劇的に患者数が抑えられていることは事実です。 日本でもこのままの接種率でいけばサザ波が凪になると云われています。 今後の事態は、人流の抑えや三蜜を避けること飲み屋の営業自粛が効果を上げることではなく、ワクチン次第であるといえましょう。

 しかし問題は今問題とされているアナフィラキシーショックや血栓の問題ではなくADE(抗体依存性感染増強)のリスクである。 ADEとは突然変異が激しいRNAウイルスの場合は、抗体と結合した変異ウイルスが白血球に取り込まれても分解されず、逆にウイルスが異常増殖してサイトカインスト−ムで、一気に重症化することです。新型コロナウイルスもRNAウイルスであることからADEが起こるリスクがある。 これをパンデミックで慌てて実用化した。 日本のような圧倒的に死者や重傷者が少ない国ではあえてリスクを冒す必要はない。 
生命保険はワクチン事故は補償しない模様、その代わりとして政府が保証するといっていますが。

 今回のコロナ騒動は、感染力が約6倍強くなった季節性ウイルスにより風邪を、世にも恐ろしい伝染病のようにメデイアが思い込ませたことによって引き起こされました。

追補


 日本の生命保険会社は今回のワクチン事故に関しての補償対象外とするということをウイキペデイアですが見つけられませんでした。


ごとう整形外科のサイトでワクチン事故を保証しないのではと述べています。

  https://karyukai.jp/column/3804

https://karyukai.jp/column/3822


日本の生保は補償するようです。 

      

       2021-6-2





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 松田学さんのYouTubeのチャンネルは松田さんと井上さんの動画が突然閉鎖された。その理由はAIによる検閲だったようだ。 松田さんが雑誌にプラットフォ−マ−が日本の言論を弾圧している。 それらのグロ−バルプラットフォ−マ−に対する国内法による規制の立法が必要であると松田さんの記事が雑誌に載った途端に、それゆえにAIより人によるチェックがなされたせいか、2か月余の閉鎖を解除されたと云う。 もうすでにAIで自由な言論を支配するデイストピアの世界に入りつつあるのか。

 政府の国内の緊急事態の適用云々を委員会にひっくり返されることがありました。 政府は決定を専門家に任せきっていた、又、医師会のポジショント−ク発言に振り回されている。 政府自身による政治判断がマスクを配ることなど笑止千万である。 政治が決断できない、責任を取りたくない。 後手後手に回りました。 政策決定がマスコミに誤誘導された庶民・老人による世論に惑わされる。  最近は高橋洋一さんによる事実による科学的判断を考えずに些末な表現を切り取り問題にするマスコミ。 松田さんによるとマスコミが作り上げた“コロナ脳”を捨てないと緊急事態から脱出ができない。

 MMPとは(マツダマナブプランの略)の詳細はこの本では書かれていませんが、日本の債務超過、過大な赤字国債を解消するプランであるらしい。 小生のような経済学の知識のないものには分からなさそうです。 行き詰まったかのように見える日本の財政経済運営にコペルニクス的転回でパラダイムシフトを起こす。 すばらしい形容詞がならんでいますが、小生には説明できません。 日銀保有国債を政府発行のデジタル円に順次変換してバランスシ−トを縮小させるプランだということのようです。

 新型コロナ・武漢風邪はスペイン風邪並みの強毒病原体ではなく感染力は強いが病原性は意外と低い季節性ウイルスであると分かってきた。これに対して国境封鎖、自粛,3密回避、8割減などがすべて無効であると世界的に証明された。 ウイルスに対して適度な暴露と軽度な感染をしながら、発症しても重症化しない免疫抵抗力を強化し続けることが大事である。

  小生が2人の著者の本をつたない要約をしたものですが、興味のある方はこの本をお読みください。


       2011-6-1


 

 ポルトガル政府、COVID-19の死亡統計を捏造との判決/裁判所:「政府発表は17,000件のところ、実際のCOVID死亡者は0.9%の152件/PCR検査の97%は偽陽性」

 昨年、ポルトガルの控訴裁判所は、PCR検査の信頼性は低く、PCR検査のみに基づいて人々を隔離することは違法であるとの判決を下した。

 裁判所は、PCR検査の信頼性は、使用したサイクル数と現在のウイルス量に依存すると述べています。Jaafarらの2020年を引用して、裁判所は次のように結論づけている。

 “35サイクル以上の閾値を使用したときにPCR検査で陽性と判定された人がいた場合(欧米のほとんどの検査機関でのルール)、当該人が感染している確率は3%未満であり、当該結果が偽陽性である確率は97%である。” としている。

 ドイツでは、訴訟問題で弁護士グループが入手した広範な電子メールのやりとりによると、ドイツ内務省が科学者を雇って、厳格な監禁を正当化するために偽のコロナウイルスモデルを開発させたことが明らかになっている。



   http://totalnewsjp.com/2021/06/29/covid19-79/



                  2021-6-29

 

 

 





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2021年05月28日

来島海峡の海難事故



 5月27日 2353 来島海峡西側で日本船籍・自動車専用船(11454トン)白虎号とマーシャル船籍・ケミカルタンカ−(2696トン)が衝突した。 3時間後に白虎は沈没した。日本人乗組員12名のうち3名が行方不明になっている。

 当時の潮流をしらべてみる。  潮流推算 海上保安庁ホームペ−ジ



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   潮流推算   (mlit.go.jp)  
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 来島海峡の航法で順中逆西の規定により神戸方面に向かう船舶は中水道を航行し下関方面へ向かう船舶は西水道航路を航行しなければならない。 報道では現況の詳細な記事はないので各船どのように航行していたかは不明です。
 1万トンの日本人の船長ならここの航法を間違えるはずはないので、西水道を航行していて衝突したものと思われる。 西水道は屈曲しているので少し見通しが悪い場所です。 相手船が外国人(韓国人)なら航法を間違えて西水道へ連れ潮で進入してくるのは大いにあることです。 日本船が相手船が中水道を航行するものとして急に右に舵を切って西水道に突っ込んできた場合には避けるチャンスが少ないものになる。 おまけに連れ潮で航行してきた相手船は舵効きが悪くなる傾向があります。


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 詳細な記事を待ちたいところです。

 数年ごとに事故がおきます。 いつも外国船がらみになります。 ここは外国船籍の総トン数1000トン以上の船舶には、強制水先区としてパイロットの乗船を強制する法律がが求められます。


    来島海峡  小生のブログより
 http://hayame.sblo.jp/article/177528669.html 

    貨物船沈没、船長ら3人が不明 現場は海上交通の難所
 貨物船沈没、船長ら3人が不明 現場は海上交通の難所 (msn.com)   朝日新聞


      2021-5-28


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2021年05月26日

杉山城 (初雁城)

  



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 赤線は橋





  東武東上線の武蔵嵐山駅より2kmを歩いて杉山城へ向かう。 年のせいか右足のかかとが痛むのでダマシだましの歩行であった。 近くの嵐山町役場まではバス便があるようです。 帰りはタクシ-で1300円ほどであった。 車の方は専用駐車場がある。

 この城の縄張りを頭に入れて見学するとしないとでは大いに違うので、事前に調べておくか大手口の出郭にある案内板にパンフレット常備してあるので手に入れると良い。 

 私は搦手口から攻めることになった。 山城では標高300mの山城へ行くのは大変であるが、今回の搦手登山口から搦手口まで行くのは大変ではなかった。この城は山城ではなくて平山城と考えてもいいように思う。 東の郭から攻める時も同様である。

 南の大手からの敵に備えるのが杉山城の防備の主力だと思う。 大手から本郭にたどり着くには、橋を渡り、食い違い虎口や横矢を十分に浴びながらの戦となる。 郭もいろいろ趣向を凝らして10余もあるが大手からの攻撃に備えているような縄張りである。  この城は複雑な構造の割にはコンパクトな大きさである。 500人ほどの守備勢力がふさわしい。 16世紀の後半のように万を超える攻撃陣との戦いだと、杉山城は長くは持ちこたえることが出来ないように思われる。 また、この大きさゆえに現在の城好きな人には1−2時間で見られるのでうれしいことである。 再びここへ来てみたい気持ちになりました。

 



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 杉山城 遠景






  搦手口から北3郭から北2郭、本郭北虎口へ




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 搦手口 登山入口





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 搦手口横土塁



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 北2郭虎口



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 本郭北虎口



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 本郭 城跡碑がある






  本郭東虎口より東2郭、東3郭へ




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 東2郭



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  東2郭虎口




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 東3郭虎口




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 東3郭を出ると平坦な土地へ出る。 この城の弱点と思える




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 東2郭より南2郭虎口受けに続がる帯郭



  出郭、大手口から外郭、馬出郭、南3郭、南2郭、井戸郭、本郭南虎口へ

 

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   赤線は木橋、 現在は架橋していない




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 出郭、から奥の大手口を望む




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 大手口




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 左は馬出郭から奥の南3郭の虎口を望む(坂道)




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 南3郭虎口




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  南2郭 食違い虎口




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 井戸郭より本格南井戸郭虎口へ、 木橋があったもよう




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 井戸郭の下部にある井戸跡のある帯郭




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 井戸跡 石の蓋がしてある




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 井戸跡帯郭と北2の郭より南に続く帯郭の間の竪堀、 右に高い本郭




  ここは山全体がひとりの持ち物であり、ここの見学に気持ちよく地主さんは協力してくれています。 行政とボランテイアの協力で立派に保守整備されていて皆様に感謝の気持ちが大きいです。
 

  この城の複雑な縄張りは戦国時代の教科書のようと評価されています。 それゆえに専門家の間では後北条氏のものではないかと言われて議論が起きています。 最近の研究成果で山内上杉家により作られた城と云われています。




  杉山城問題  古城跡探訪のサイトから

 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.turedure7.htm






     2021-5-26





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2021年05月23日

武城と三ツ木城

 




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 青線 城跡、   赤線  JR最寄り駅



 前回の加納城と菅谷北城に続き武城と三ツ木城へ行ってきました。この地域では他に石戸城や東松山城もご覧になれます。




    武城

  桶川市の川田谷付近はおそらく荒川(支流かも)が昔は流れていたと思われる川底とみられる地形がある。 大雨の時は冠水してそこを横断する道路は通行止めになる。本来の荒川はここより西に現存する。 その両岸は台地になっていて川下に向かって右岸にこの武城があります。  グーグルマップでは竹内美容室や鈴木医院が目標となります。 

 下写真のように右が美容室で左奥の木立の場所が武城になります。 標識はないので地図の位置で推定する。 大きな民家があり土塁と道路になった堀で囲まれている。本郭と思われるところには小さな神社があり、その南側にはぐるりと曲がった形の土塁があり。 民有地のようですので見かけたらお断りを入れる必要がある。




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 竹内美容室の横道を奥へと行く







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 左道が美容室に続く、 右道路が土塁と堀(道路)




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 土塁 ( 曲線を描く )




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 本郭と思われるところの神社






    三ツ木城

  かってここへ写真を撮りに行った記憶があるがブログに載せた覚えはない再訪である。

  ここへはJR桶川駅より川越行きのバスに乗り川田谷支所で下車。 三ツ木城は城山公園の南西側の一角にある。3角の台地の上にあり、南側は現在民家が立っており確認は不自由である。また、単郭であると言われるが公園外の土地でもあり整備もされていないので、周りから眺めるのみとなっている。 整備が望まれる。 二重の堀があったように見受けられるがはっきりとはしない。 誰が建てたのかも判明していない。 鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられている。




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 公園にある案内板




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 地図




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 全体図





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 二重堀






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 東側の堀跡と見られている





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 堀跡と土塁




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  南側より望む



      2021-5-23

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2021年05月22日

加納城と菅谷北城

   


 早めの梅雨空の中小雨にぬれながらも武城と三ツ木城を訪ねた。 自転車で行きましたがコミュニテイバスなども走っておりそれを利用されるがよいでしょう。 桶川、北上尾や上尾のJR駅から出ていると思います。 詳しくないので地元で尋ねてください。



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 赤字 JR駅   青字 城跡





    加納城



  加納城は高速圏央道桶川加納インタ−の北西近くに位置します。 入り口は分かりに道路から少し奥まった駐車場にあります。 下記の写真にある石の案内標識が目安です。
 住宅街の南側に位置して北側土塁が残る。 住宅開発で堀などは消失した模様です。 内郭には私的な神社があった。 隣にある家のもののように見受けられた。 ここの本郭は現在の所有関係は明らかでないが隣の家の土地かもしれません。 ここを案内標識があるので訪ねても損はないでしょう。 

 ジャニ−ズ系の俳優本木さんは桶川の出身と聞いていました。 ここは岩槻の太田氏に仕えた本木氏の居城であったと言われており、どこかで彼はここと血のつながりがあるかもしれませんね。



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 石の案内標識



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 案内板にある地図





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 案内板にある古写真




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 北側にある土塁





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 内郭にある神社(私的なもののようです)





   菅谷北城



  国道7号線近くの埼玉中央青果市場の横“べにばな道り”を菅谷交差点まで行く。その北東100m位に菅谷北城はある。喫茶店山小屋をめざす。
 ここには案内標識が立てられていないので、とくに分かりずらい。 土塁と思われるものを最初に撮ったが、近くの地元の人に尋ねるとそれは土塁ではなかった。 彼に本当の土塁と堀跡、本丸位置を教えてもらうことが出来た。 彼の子供の頃はまだ城跡の痕跡がはっきりしていたそうである。

 本丸跡は住宅が建っており何もありません。 グーグルマップ上の城跡位置は公民館の敷地を示しているが何もない。 アウトドアカフェから20-30m先の交差点道路脇までまで土塁が残っている。 昔はその前には堀跡があったそうである。

 観応の擾乱で足利尊氏にくみした春日八郎行元sこの地菅谷村を拝領してこの城を築いたという。





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 本丸跡




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 公民館  グーグルマップ上の城跡位置





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  土塁





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 北東角地にある土塁



 首都圏近郊の30万都市上尾市でもここらあたりはまだ、開発されていない防風林を兼ねた雑木林があちこちに見られてそこには館跡があっても不思議ではない気がする。それでもここは開発されて城跡は余り残っていないのである。




     2021-5-21




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2021年05月11日

村上武吉



  

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      講談社刊




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 能島海賊 村上武吉の海賊城

        


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 青字 能島海賊城、 赤字 来島海賊城、 紫字 因島海賊城


 村上武吉は宣教師のルイス・フロイスにより日本の海賊王と評された。その村上武吉が書いた兵法書(村上舟戦要法)が秋山真之によって日露戦争での日本海海戦に貢献した。また、日本の海運業の主要部分を占める愛媛船主、最近の巨大コンテナ船がスエズ運河座礁事故を起こした船主の今治造船など現在にも彼の遺伝子は大きく日本に影響を与えています。

 村上武吉は因島、来島、能島村上家の頭領というべき能島村上家に1533年に生まれた。能島騒動と言われる家督争いで敗れて九州の菊池家に避難して育つ。叔父の笠岡に拠点を持つ村上隆重の支援を受けて能島に帰り当主を奪還する。陶春賢と毛利元就の戦い・厳島の戦い(天文24年・1555年)では毛利に加勢したと言われています。

 
 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。 当時の陸地勢力を概観すると九州の大友氏、中国の大内氏・陶氏,安芸の毛利氏、山陰の尼子氏、備中備前の浦上氏、四国の河野氏、近畿三好氏と織田氏らの勢力の伸長に影響を受け村上武吉は挙動した。 彼の最盛期には東は塩飽列島の本島、西は上関や下関の赤間に関を設け本拠地の能島とその支城群で瀬戸内一帯を支配した。


 毛利元就が死去すると村上武吉は毛利氏から大友氏につく。毛利の小早川隆景が能島城を攻めた。来島や因島村上は小早川に従う。孤立した武吉は降伏して毛利家に組み込まれる。 武吉は毛利と織田が対立した第1次木津川の戦いに出て勝利したが第2次では敗れる。豊臣秀吉の中国攻めでは来島村上家が秀吉につく。それで武吉は対立した来島を占領する。しかし本能寺の変後に秀吉と毛利は和睦し、武吉はこれに加わらなかったので再び小早川に攻められて能島を明け渡す。1588年秀吉による「海賊停止令」に背いたと詰問された。安芸竹原(鎮海山城)や筑前に移る。小早川家が隆景から秀秋へ代わると筑前を離れて、再び竹原に戻る。 能島村上の家督を嫡男の元吉に譲り、元吉は文禄・慶長の役で朝鮮で戦う、関ケ原の戦いでは西軍で戦い元吉は死亡する。毛利は防長2か国に厳封され三田尻で船手衆を務める。1604年武吉は72歳で死去。

 秀吉の全国統一と「海賊停止令」により独自の海賊衆としては終わる。 海賊といってもこの武吉の時代までには船荷を襲うようなことは無かった。 武吉の時代には海賊へ警固料を払って海賊を乗せる「上乗り」と呼ばれるシステムがあり、襲われないことの他に潮流の複雑なこの海域を水先人のように航行の安全をはかっていた。 武吉は文化的素養も高く大山祇神社で催された連歌会での多数の連歌が残されている。

 個人的には3年ほどかかってヨット巡行で訪れた地や城が関連付けられて、村上武吉によりまとまってきたように思える。 また、新たに訪れたいところが増えたようだ。



 村上来島海賊

  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-9 

 村上水軍まとめ

  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html 

  甘崎城

  http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-221
 

 笠岡城

 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-675 

 本太城

 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-704 

 鹿島城と得意通幸

 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#鹿島城 

 新居浜大島と村上義弘

 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#新居浜大島 

 上関

 http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-329 



 毛利元就の調略

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  2021-5-11





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2021年05月06日

深谷散歩

     



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 青点は散歩行き先



  ゴ−ルデンウイ−クの谷間の4/30に渋沢栄一の故郷深谷を訪ねた。 JRの駅にしてはお金をかけている深谷駅に着くとすぐにホームから東京駅風の駅舎が眺められる。



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 JR深谷駅



 駅中にある観光案内所でレンタサイクルを貸しているところを訪ねる。 2か所あるようだが10時代では深谷シネマにあるところを紹介された。 徒歩5分くらいの場所で元映画館にある土産物屋で貸してくれた。 市役所の横を抜けて深谷城をめざす。  城跡公園になっている場所で模造の塀があるようであるが重みは感じられない。 中学生が公園のあちこちで写生を行っていた。





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 深谷城跡公園



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 埼玉県立深谷商業高校



 深谷上杉氏がここ深谷城へ移る前の城である庁鼻和城(こばなわじょう)へ行こう。 その途中で立ち寄ってみたいような深谷商業高校の校舎が見られた。 その城跡は現在は国斉寺になっており本殿裏に土塁が見られる。大手門と物見櫓の跡は見つけられなくて訪れていない。




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 国済寺にある案内標識



 次は東方城である。 263号線をサイクルして北上するが危うく通り過ぎそうになり戻る、少しは城跡の地形を見極める力が少しあった。 城跡の案内様式を見つける。 その横にある土塁に上る。 城域は保育園の一部らしくかすかに園児の元気な声が聞こえた。 土塁は続いており2m程度の幅残っていた。



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 土塁



 続いて皿沼城に向かう。 そこは標識だけで城跡の感じはしない。 明治になって煉瓦の粘土採取のために土塁などが利用されたという。



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 皿沼城の標識と借りたサイクル


 いよいよ尾高淳忠と渋沢栄一の生家を訪ねよう。  道案内はスマホのマップに頼っていた、まだ習熟していないらしく反対方向へ行ってしまう。そこで、作業中の市役所の人に尋ねる。 かなり時間を要して尾高惇忠の生家に着いた。  ボランテイアのガイドさんより30分ほど詳しい説明を受けた。 なぜ討幕の尊王攘夷の志士が彰義隊や振武隊に入り幕府を擁護する立場に変わったのか質問を用意していたが、先の人が長引いていたので、ガイドさんいに聞かずに立ち去るこになる。




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 尾高惇忠生家  無料

  渋沢栄一記念館と中の家は公園沿いの川に並んであった。 記念館ではアンドロイドとかいうロボットが展示されていて、本物のように動くのに驚かされた。





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 渋沢栄一記念館 無料



 尾高惇忠の生家と比べて渋沢栄一邸は一万両の取引があった農・商家であったので倉も大きくさすがに豪農・大名主の家という感じであった。 父親が傾いていて困ったこの家に養子に来て一代でここまでになったのはスゴイことです。



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 渋沢栄一生家 中の家(なかんち) 無料





 予定していた岡部城と岡部藩陣屋跡へは午後4時半までのサイクル返却に間に合わせるためにそこへ行くのは断念した。 欲張りすぎるプランであったとも言えるのでしょう。帰りは4時半の期限までに自転車を返すのに大急ぎでこいでしまった。 片方の太ももがツリそうになってしまう。


      2021-5-6








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2021年03月27日

巨大コンテナ船のスエズ運河座礁

 



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 座礁した「エヴァギブン」



 総トン数219,076トン、 全長400m のマンモスタンカ−ばりのコンテナ船「エヴァ−ギブン」がスエズ運河で座礁し運河の通航を妨げて物流に大きな影響を与えています。 写真のように見事に運河を塞いでいます。 スエズ運河は400mの幅は無いのかと分かります。 かって日本の建設業者が運河幅の拡張工事を成功させたとの記事が想いだされました。


 老生は世界一周航路のバラ積み船に乗っていたことがあります。日本−豪州−喜望峰−欧州−米国−パナマ運河−日本を3か月の航海で石炭を運んでいました。 パナマックスという種類の船でパナマ運河を通航できる最大の船です。 そこでは左右の幅は30cm位のスキマしかなかった記憶が。 従い今までの船乗りでスエズ運河を通航した経験はありません。 また、欧州間のコンテナフィ−ダ−輸送、つまり小口で各港をまわり集荷してロッテルダムやブレ−メンハ−フェンの大型コンテナヤ−ドに運ぶ5000トン程度のコンテナ船に乗ったことががあります。

 モーリシャスで座礁漏油事故をおこした船も日本船主でしたが、今回も今治造船系の正栄汽船がオーナ−で船籍はパナマ、運航は台湾系のエヴァ−グリ−ンです。 便宜置籍船に問題があったのでしょうか? 乗組員がWiFiwを使いたいために、故意に幅寄せしたのではなかろう。 砂嵐による視界不良と強風により、船体が横向きとなったと報道されている。 もちろんパイロットは乗船していたと思われる。 15隻のコンボイ(船団)の5隻目であったとも報じられています。 他の14隻はどのように影響したのでしょうか? 今後の報道が待たれる。



 小生も恥ずかしながら先に述べた欧州でのコンテナ船の航海士として乗船中に、英国フォ−クストン出港の際に強風の横風を受けて操船が満足にできずに隣の小型船に接触した事故を起こしたことがある。自船のレーダ−マストを曲げてしまった。 この時はオーナ−は米国人、船籍はパナマ、乗組員は全員日本人であった。 船長はタグボ−トを要求せずに遠慮したのも原因のひとつであろう。今までの日本船の経験ではタグなしの出港離岸はない。 経費節約のための外人の要求に船長は判断を誤った。 船首にはバウスラスタ−が付いており、それは横へ水流を出すことにより船首の方向を変える装置である。 この事故の原因は、それを装備していたが、強い横風では思うようにその効果が減じられて船首が曲げ切らずに隣船に接触したということだ。 コンテナ船は在来船よりも横風の影響を受けやすい。 自船はデッキ上にコンテナ4段積みであったが「エヴァ−ギブン」は写真から数えてみるとデキ上にコンテナ10段積みのようである。 4000mの長さにこのコンテナ高さだけでも掛ければ膨大な風圧面積になろう。 

 コンボイは一定の速度を保って(おそらく12ノット)15隻が同速で航行するので、この船は20ノットの高速で走行できる能力を持つが速度を上げて舵効きをよくすることもできずに押し流されたのであろう。 コンテナ船の巨大化もこの事故でブレ−キがかかるのではなかろうか。 経済効率の追求も思わぬところで見直されることになる。いつも事故が無ければ見直しはないのであるが。 同様に自動車専用船の横面積は巨大であるが、コンテナほどの仕向け地向けのロッドが大きくないのであろう、コンテナ船ほどの巨大化は避けられている。



       2021-3-27













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2021年02月19日

仁尾 その2

  




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 仁尾の銭湯とスーパ−他


  瀬戸内にいると仁尾マリ−ナは台風除けにもなり、なじみのあるところになります。 おまけに、いつも天候に恵まれずにそこへ3−4日の滞在になることが多かった。 ここで仁尾の町とマリ−ナは紹介しています。 2020年秋にもここを訪れましたので報告します。




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 仁尾マリ−ナ ゲストバ−ス


 今回は加茂神社と父母ヶ浜へ行く。 最近に富に有名になった父母ヶ浜は海外でも注目され訪れる人が多いという。 有名な演奏家を招き浜にステ−ジを仮設して演奏会をやっていたが、あいにくその日は天気が悪く行われたのであろうか? この近くにコインランドリ−があり洗濯待ちの時間を利用して自転車で街を見学する。 加茂神社は由緒ある神社で境内に大きな連石がみられる。 近くの湊の入り口にあり通航に不便であった。 在住の資産家・塩田氏の援助によりこれを取り除きここへ奉納したものという。




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 加茂神社




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 本殿前の柱連石


 日の出日の入りの時期が美しいのであろうか、日中は遠浅の海岸がみられるのみである。 みかんの里として知られているのか、海岸道路沿いに直売店がある。



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 父母ヶ浜



  日曜日に詫間へ行き、城探索を計画したが、バス停で時刻表を見ると休日は終日運休であった。 市のコミュニテイバスの運行であっても少数の便が欲しいですね。ご注意あれ。




   仁尾
  http://hayame.net/custom13.html#spb-bookmark-13 

   仁尾城、天神山城
  http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-4 


    2021-2-19








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2021年01月31日

早島陣屋・早島城・天城陣屋




    倉敷の陣屋・ 早島陣屋、早島城、天城陣屋  




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早島陣屋、早島城、天城陣屋の図





 晴耕雨読ならぬ晴航雨城である小生。 倉敷にヨットを係留している。そこでクル−ジング準備・整備中の雨天は城廻りとなる。 今回はJR瀬戸大橋線の早島駅で下車して早島城・早島陣屋・天城陣屋をカサさして歩いて来ました。 写真は雨のために鮮明を欠くものがあります。

 駅を降りて早島公園に向かう。 ところどころに昔の民家風の建物がある。 また、宇喜多堤の案内があった。 悪名高い宇喜多氏といえども堤をつくり、後に教科書にも載る児島干拓の最初の一歩となり領地経営には力を尽くした。





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 早島町の民家




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 児島と早島  昔は瀬戸をなし水路を船が通行して水運の要所であった。




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 赤い線は堤の位置




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 宇喜多堤石碑




 早島陣屋を探す。 そこは現在では小学校になっていて、横に案内板があるのみであった。 別名戸川陣屋と言い200年間治めたという。 戸川記念館はあいにく休館日でを見ることができなかった。 戸川秀安は宇喜多直家の重臣で25000石を領した。国政を宇喜多秀家にまかされたが主君と対立するようになり、家康預かりとなる。 関ケ原では戸川秀安は東軍に参じ功を挙げて庭瀬29200石を与えられる。その後断絶したが、家名存続を許されて幕府旗本として明治まで続く。






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 戸川記念館




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  早島陣屋 1709年築  わずかに残る堀と石橋




 その小学校の裏手奥に早島公園がある。 そこは城山ともいい早島城の跡地である。 遺構らしきものは見当たらなかった。その城主は武井将監といわれる。 備中高松城の前哨戦で高松城の北にある支城・冠山城の戦いで将監は加藤清正と一騎打ちで戦い死亡したという。秀吉はあっぱれと金子50両を与えた。




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 公園内の城らしい雰囲気の場所




 早島城の坂を下って今度は天城陣屋に向かう。 早島町は平成の大合併に加わらなかったので岡山で一番小さな町ゆえか趣のある民家が散見される。





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 早島から天城へ向かう途中の民家1




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 早島から天城へ向かう途中の民家2




  笹無山の案内板を見かけた。 源平合戦には詳しくないが、ここらあたりで藤戸合戦があったと言います。当時にはこの向こう側は海で瀬戸を挟んで源平が対陣していた。源氏は海が不得手なので対岸の種松へ行くのに難儀する。佐々木盛綱は地元の漁師に浅瀬を聞き、先導させて馬で海を渡り源氏の勝利に貢献した。佐々木盛綱はその浦人を殺してしまう。残された母親は笹と聞けば憎いと言い、笹を抜き取った、それからこの地では笹無になったと云う。






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 笹無山




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笹無山   藤戸合戦説明板




 なかなか天城陣屋を見つけられなかったが、高校の隣山にあるグランドであると分かった この陣屋は―国一城の制で岡山藩の下津井城が廃城になり、池田由之はこの地にお茶屋と称して陣屋を立てた。

 池田由之(1577-1618)は池田恒興の嫡男元助の嫡男として誕生。小牧長久手戦いで父・祖父ともに戦死。幼児であったので叔父の池田輝政が家督を継ぐ。長じて32000石で下津井城番になる。本家の国替えとともに播磨・鳥取・岡山とその居を変えた。最後は恨みに寄り大小姓に殺害された。






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 天城陣屋跡  現在は天城高校グランド


 駅を降りてJR3駅ほど雨天を歩いたことになる、途中にタクシ−やバスを探すが見つからず。さすがに疲れて帰りはGoogl mapでバス停をみつけて帰る。




      2021-1-31

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2021年01月29日

閑谷学校


            閑谷学校(1673より)




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 閑谷学校の地図




 かって日本史を学校で学んでいた時に足利学校とか閑谷学校を知ったのですが、その内容にはおぼえがありません。 受験の弊害か熟語・歴史的タ−ムのみ記憶しています。 今度、 閑谷学校を訪れてみた。 JR山陽本線和木駅で下車、そこからバスに乗って閑谷学校へ行きました。 マイカ−で行かなければ不便なところです。 2時間に1本くらいのバス時刻には注意してください。 なかなか自然豊かな場所で紅葉の時期にはとても美しいという。

 閑谷学校は3名君・水戸光圀・保科正之・池田光政(1609-1682)の一人、岡山藩主光政が日本最古と言われる庶民学校として築いた。あくまで庶民のためで藩校は別にある。 手習い所は123か所ある。学校には領地を持ち政策が変わっても存続できるようにした。 明治3年に藩政改革により閉鎖される。 明治6年に山田方谷の発意により再興。 講義が漢学に偏っていたために生徒数が減少して明治10年に休校。 明治14年西毅一らにより英語、数学、漢学を教えて再興。その後公私立を経て中学、高校と変遷して現在の県立岡山閑谷高校・和木高校(統合)の校舎となる。昭和39年にこの地は閉鎖されて教育の場としての歴史を終えた。

 講堂は国宝でほかに24棟が重文に指定されている。





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 校門(鶴鳴門)





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 講堂と小斎  瓦は近隣の閑谷窯で焼かれたもの、 300年は持つといわれている





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 講堂内部





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明治38年の新校舎、 閑谷学校の資料館

 



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  山田方谷はここにも関わった。 資料館展示 





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 文庫と火除け山  1847年火事で宿舎などあ焼けて火事にも気配れている





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 孔子廟と閑谷神社





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 閑谷神社  



       2021-1-29












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2021年01月27日

岡山城


 

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 岡山城 再建天守


 岡山城へは確か航行の修学旅行でいったはずなのだが定かではない。当時は今のような興味が薄かったのか感慨も覚えておらず。半世紀以上前にもなる話です。  
岡山城は1597年豊臣5大老のひとり宇喜多秀家が築城する。黒い板張りの外観から烏城とも呼ばれる。 小生が生まれ育った我が名古屋城や広島城と共に戦災で焼失した。現在のこの城は再建コンクリ−ト建造されたものである。それが耐震対策を施す必要や現在のものに不満があるので木造・名古屋城の再建プランがあります。

 岡山城は5重の堀で囲まれて2の丸、3の丸を持つ。 本丸が背にする旭川の東には何も防備が無く、ひたすら西方からの敵に備えた城である。安土城を模したつくりと言われる。それは宇喜多秀家の正室の豪姫が前田藩の出であるので、加賀の大工の協力を得たといわれるが、彼らは安土城に関わった人々だということからである。 また、安土城がゆがんだ多角形の天守と言われるが同じく多角形平面を持つ岡山城天守である。

 宇喜多氏は関ケ原では西軍に属して敗戦したので八丈島に流刑となる。小早川秀秋に代わり入城したが2年で急死し、池田恒興を祖とする池田氏系の藩主が明治まで続く。


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 月見蔵・現存  重要文化財


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 不明門・再建


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 廊下門・再建


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 旭川から見た天守


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 目安橋


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 旧天守礎石



  岡山城・磯田道史氏による歴史解説  12分
https://www.youtube.com/watch?v=68QQeld9bDQ 

  宇喜多秀家と岡山城 戦国の名城と名将   6分
https://www.youtube.com/watch?v=W-J_nBBkBhE 



    2021-1-27



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2021年01月24日

魚島

   



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 備讃瀬戸を東西に航行していた時に、島にビルが建っているのを見かけたので、気になっていた。 今回新居浜より弓削に行く機会があったので、立ち寄りしてみる。
魚島は愛媛県上島町に属し瀬戸内の真ん中にある島であるが、交通は本土方面の因島と弓削島より町立の連絡船があり、 愛媛県・弓削島には上島町の役場がある。



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   魚島   南方より眺める



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 魚島港入り口風景  離島にしてはビルが目立つ


 港内に入って少しウネリがあるようなので、予定していたところより奥へ行った。 漁具の手入れをしていた老人に尋ねて、その人の勧めでポンツ−ンに係留しようと1本のもやいを取った後でスグに、これの持ち主と思われる漁師さんから怒られてしまう。 しかし、好意により明日までの係留は認めてくれた。 無断で自身の所有のポンツ−ンにヨットを係留されれば怒るのはもっともである。 一応、地元の漁師さんに聞いたつもりであったのだが。 
シングルハンドであるとヨットの着岸は一発できめたいものである。 いつまでたっても着岸に習塾しない小生にも問題ではあるが、ロープを舵にからめてしまった。 11月の海中に潜ってはずす羽目になった、思ったより水温は温かかったけれど。



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 青丸 予定係留地   赤丸 実際の係留地




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 港内 


 洋上から目にしたとビル群は離島振興法で出来た建物であった。観光センタ−や住宅に使われていた。



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 赤丸 係留場所   養殖業者のポンツ−ンに係留させてもらいました



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 青丸 予定していたの係留場所  小さいウネリが入っていた


 最初にイヤな思いをすると後にひきずるもので、この島の印象は個人的に良いものではなくなった。 あとの時間も有効に活用することもなく終わってしまう。残念である。機会があれば気を取り直して訪ねてみたいものだ。


   2021-1-24









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2021年01月22日

川之江城

   



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 川之江 地理的位置




 ヨットから見たお城で今までに印象的であったのは40年ほど前に見た松前城そして最近の平戸城それに今回の川之江城である。これからもヨットで訪ねる城廻は続けたいものです。





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 川之江城





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 模擬天守  過去を復元されたもののではない 犬山城をモデルにしたとか



 個人的に南北朝の戦いには余り興味が薄いのでその歴史には詳しくない。 河野氏方の伊予の豪族で川野通政がこの城を築かせたものという。 川之江の地理的位置が土佐、讃岐、伊予を結びおまけに海で備中ともつながっていた。 従い、いろんな勢力から攻撃を受け落城している。戦国期には河野氏、三好氏、長曾我部氏、小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏とめまぐるしく城主は変わり、1600年の関ケ原の戦いの後で加藤喜明により織豊系城郭と改築された。一国一城の令により喜明が伊予松山城に居城を移し廃城になった。






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  城門  歴史的にどうであったかは不明




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 本丸より川之江港を望む  小さく愛艇が見える




    2021-1-22







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2021年01月20日

ヨット泊地選びの成功と失敗

  
 現在のヨットクル−ジングには、スマホを使ってNew pec smartで航海支援、Windyで気象支援、さらにGoogl mapの航空図で泊地選びをされていることでしょう。  クル−ジングで成否を決めるのは泊地選びにつきます。 オールドセ−ラ−なので、かっては小型船用簡易港湾案内のみしかヨットの泊地選びには選択肢がなかった。 今では、スマホ1個で航海できるようになりました。

 今回の秋巡航でのヨット泊地選びの成功と失敗をここに述べます。 係留地の選択にはスマホ以上に大きなものがあります。 それはそこに行ったことのある経験者から情報を得ることです。これがあれば事前のスマホによる泊地確認することで事足ります。 今度の中部瀬戸内の巡航での川之江の泊地と新居浜大島での泊地選びの成功と失敗を述べます。

 余談になります、小豆島(香川))から上関(山口)までのヨットの航路選びのことですが。 来島海峡を通るつもりなら、小豆島−仁尾マリ−ナ―今治−上関になるか、小豆島−弓削海の駅−大三島海の駅−上関の2つの航路になるかと思われます。 他に弓削−鼻繰りの瀬戸−御手洗−上関もあります。



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  中部瀬戸内実用ヨット航路



 上記の標準的航路から外れるせいなのか、新居浜マリ−ナはともかく川之江や新居浜大島の泊地情報はなかなか手に入るものではありません。そこでスマホの衛星写真から川之江と新居浜大島の泊地を選びました。



 1.川之江泊地  失敗例

 西風の強風が2−3日続いていたので、川之江の奥地のふ頭(赤矢印)を選びました。そこに行ってみると下記写真のごとく潮の加減のせいか岸壁の背が高くビットも少なく「もやい」をとるためにとてもシングルハンドでは岸壁に上がることはできなかった。



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 赤矢印は最初に選定地   青矢印は実際の泊地




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 赤矢印の予定岸壁   3-4mの潮汐がある






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 赤矢印の予定岸壁地  反対側から見る




 そこで急遽新港の漁港桟橋に向かう。地図の青矢印地点は黒ゴム製のフェンダ−を兼ねたものが桟橋に4−5か所あったので、その一つにもやいを持って岸壁に上がり、無事係留することができた。 ここは漁獲物を上げるために出来たものであるが、水産物加工業者が参入しなかったので、空きのある岸壁になっている。地元の漁船は反対側の5つほどあるポンツ−ンにとめている。出口近くにあるポンツ−ンにはヨットを着けられそうな気配があったが、確かめていない。 潮の高低があるのでそこのポンツ−ンががベストのような気がしています。

 



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 青矢印の着岸桟橋




 2.  新居浜大島  成功例



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 新居浜大島は上図の新港に着岸した。 旧港は航空写真を見て適当なスペ−スを見いだせなかった。実際に現地で見ても予想どうりであった。
ここは強風が予想されるときには近くの新居浜マリ−ナを利用することになりそうです。




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 ゴム製はしごフェンダ−のある位置にヨットをつけた。





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 旧港  フェリ―桟橋がある



   ヨットマンのための海の駅と泊地
    http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-41 


    2021-1-20














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2021年01月18日

青木城・小丸城


 因島の城 その2 

    小丸城


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  因島村上家の第2家老稲井氏の城。居館は現在の対潮院にあった。いつものように何人かの人を煩わせた。ありがとうございます。地元の人にも古い人はともかく若い人には小丸城のことは伝わっていない模様。  裏の墓地への階段を登って行く。 途中に南北朝の戦いで釣島箱崎箱崎浦合戦の供養碑があちこちにある。 海上戦とも言われる戦いで亡くなられた方がここに弔われたということであろうか。 その時に今のような墓地があったわけではなく、この城もあったかどうかは分からない。 山頂と思われるところまで墓があった。 それより歩行困難であったので終わりとした。

 ここは海岸近くというわけではなく因島の東岸や西岸への好立地であるので、求めに応じて加勢するためのものではないでしょうか。



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 墓地の裏の山が小丸城跡


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 登り口  対潮院の裏


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 あちこちにある釣島箱崎浦合戦で戦死者を弔う碑


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 本丸と思われるところ





   青木城


 一昨年に弓削海の駅でヨットの漏水事故が起きて、その修理備品を待って5日ほど滞在した。 部品を引き取りに隣の島因島マリ−ナに出かける。 行く途中で青木城の案内板を見つけたが、先を急いでいたので残念を持ったままであった。 今回は自転車でここを訪ねた。



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 青木城と付け城の馬神城



 1567年に因島村上氏6代村上新蔵吉充が向島余崎城より青木城へ移った。 吉充は信長と対戦中の石山本願寺へ兵糧を掘んだことで知られている。

 ここは三原の瀬戸を押さえる位置にある。青木城は海に囲まれた海城であった。 昔の地形が定かではないが隣の馬神島であった。海峡を隔てたそこに出城の馬神城があった。今回はそこへ訪れていない。


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 模型


 
 本丸から続く北側に大手門、東へ尾根つたいに2の丸、3の丸、搦手と続く。


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 この理容店の横を登っていく



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 青木城  標高51m



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 石垣



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 本丸の柱石



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 本丸にある竜王神社  ここで昼食する


 帰りには自慢のオリンピックで購入したフリ−パワ−の自転車がパンクした。 あいにく日曜日で修理が出来ず。 タクシ−を呼び、折りたたんで後部トランクに積み、土生港へ行き、連絡船で弓削まで帰った。



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 パンクした自転車


      2021-1-18


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2021年01月16日

美可崎城・千守城・島前城、  因島


 因島の城 その1  美可崎城・手守城・島前城


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 美可崎城、千守城、島前城

 ヨットを係留した弓削海の駅より船に積んでいた自転車で因島城探索に出かけた。 上弓削よりフェリ−にて(自転車100円)因島家老へ渡る。

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 上弓削の因島家老間の上弓削 フェリ−乗場

  美可崎城

 因島東岸を走って地蔵鼻へ向かう。そこは恋人たちの聖地とかであるが、今回はそこにはいかず岬の先端に美可崎城を訪ねた。

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 美可崎城の入り口ゲ−ト


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 美可崎城図

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 本丸へ

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 本丸から向島を望む


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美可崎城  船隠し

 美可崎城は因島村上海賊の家老南氏が金山氏に通行料を徴収するための見張り城であった。 鞆の浦や尾道からの船を見渡せる位置にある。
石田造船のある道を登ってきたのだが、ここの帰りは反対側の道を一気に下って降りた。



  千守城・ちもりじょう


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  千守城

近くの千守城に向かう。なかなか登城口が分からず、いつものように地元の数人に尋ねた。安楽寺の傍から登って行く。気を付けていくようにと注意を受けたが案外と険しいものではなかった。 標高79mの地に本丸を囲んでほぼ円状に4段に築かれている。石垣の残っているものと井戸を見つけた。 山頂の本丸には社が祀られている。
南北朝の時代に竹原小早川氏の一族が居城し、戦国期には因島村上氏の家臣篠塚貞忠の居城という。


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 安楽寺


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 縄張り図


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 石垣


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 井戸


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 千守城本丸からの眺望



     島前城と亀島城(出城)

  因島南部に東岸から西岸へ島を横断する道路があり、そこを自転車で走行する。 途中大山神社がありガソリンスタンド横に釣島箱崎浦の合戦跡の碑を見つけた。 釣島は今は鶴島と呼ばれている。 新居浜大橋で述べた村上海賊の祖が死亡して娘婿と言われる今岡通任が因島へ進出、島前城に本拠を構えた。 信濃の国より村上師清は瀬戸内に下向した。讃岐塩飽を支配し能島に進出。
鶴島箱崎浦の海戦で勝利して因島に上陸し今岡方の武将を破り義弘の明晰を継いだ。この村上師清が能島・来島・因島の村上海賊の祖となる。
 

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  釣島箱崎浦合戦地図

  いつものことであるが、ここもたどりつくにに苦労した。すぐ横の崖の上にあるとわかっているのだけれど何人かの人に尋ねた。
ここだと思って登って行った山は隣の山だったようで藪を書き分け書き分けて行ったところはテレビアンテナを引いているだけの山頂であった。


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  間違えた登山口



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 島前城跡配置図。田中稔「因島史考」による


  因島市民会館と芸予文化情報センタ−(図書館)で尋ねて図書館の横の階段を上った空き地だとわかった。

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 海岸道路から見た島前城


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 本当の入り口  土生町図書館横


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 本丸


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 北西方を望む

 島前とは海峡を挟んで亀島がありそこに出城の亀島城があったがゆえの名称であろうか。

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 亀島城

 
     2021-1-16

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2021年01月15日

湯の郷温泉散歩

  


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 湯の郷温泉


 ヨット上架中には船中泊ができないのでホテル泊になる。 幸・不幸は分からないけれどGoToキャンペ−ンを利用して岡山美作の温泉湯の郷に行ってきました。 温泉好きの連れ合いには泉質がイマイチのようだ。 そこには、ひなびた温泉の風情は感じられない。 昼食にクーポンを利用しようと探したが、適当な食事処は見つからなかった。 3流グルメの小生ではあるが、結局ホテルのランチを食す。
 
 

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  JR姫新線 林野駅  2時間に1本程度の運行


 湯の郷温泉に2泊したのであるが、翌日はJRで帰るので偵察を兼ねて林野駅まで散歩する。 吉野川と梶並川を沿うように歩いた。 街並み保存館をめざしたが、休館の旧銀行跡をそれと間違える。近くの寿林寺をのぞいた。



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 旧銀行跡


 
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  寿林寺



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 街並み


 林野城・倉敷城を気が付くことなく、それを右に見て歩くことになった。 そのことは家に帰ってから知る。事前の下調べが大事であります。 そこから美作市役所を過ぎJR姫新線の林野駅に着く。明日の帰りの時刻表を見る、すきまだらけのもので事前に時刻を知っておく必要がある。

 美作市なのに美作の名が付く駅が見当たらない。ここらあたり昔は河川を利用した集積地で倉敷と言い、明治になり有名な倉敷市と混同されて荷物が届かないので林野に変えたという。


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     2021-1-15





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2021年01月13日

三星城 美作





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 美作の周辺国  三星城の位置



 戦国時代の美作は背後に毛利氏、尼子氏、織田氏などがいて、それらが攻めぎ会った土地で在郷の小領主がそれらに影響を受けて存続を争った地である。小生はまだ、その歴史を了解するには至っていない。

 湯の郷温泉からJR林野駅まで散策した。 駅周辺で昼食をしようにも閑散としていて、望みのものはなかった。 行きは温泉までバスで来たので、帰りはJRを使って岡山まで変えるつもりで時刻表をみる。2時間に1本くらいの感覚である。 どおりで静かな訳だ。 近くに三星城があるのでタクシ-に尋ねたが不明瞭であった。 近くだが登り口と思われるところまでそれに乗る。最低料金だった。 山道を登っていくが雑草に邪魔されることなく城跡の案内板を見つけた。




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 三星山



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 案内板



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 本丸案内 城館跡かもしれない。 山頂という場所ではない





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 明見三星稲荷神社  近くの神社

  


 後藤又兵衛(1560-1615)は後藤基次とも言い三星城主の後藤勝基(1538-1579)と関連するものは見つけられなかったが基つながりで関係があったと思われる。後藤家は南北朝から200年間三星城を居城としてきた。勝基が当主となってから尼子氏が衰え始めたので1560年にその配下を離脱し備前の浦上宗景と組んで尼子氏の倉敷城を攻めたが失敗。




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 三星城と倉敷城・林野城



 1563年に備中の三村家親に攻められるが浦上氏の支援で撃退。東美作を掌握。 1571年に浦上宗景と対立して毛利と結び籠城して和睦。 1575年に宇喜多直家が主君浦上氏を追放して美作に侵攻。 1579年今度は宇喜多氏と対立して三星城に攻められて落城する。


      2021-1-13






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2021年01月11日

矢掛の街

   


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  岡山駅よりJR伯備線に乗り、倉敷を経て清音駅で井原線に乗り換えて矢掛へ向かう。 井原線は私鉄のようだけれど単線の高架を走る、1両のみの運行です。


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 伯備線と井原鉄道の乗換駅 清音・きよね


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  井原鉄道

 矢掛駅よりまっすぐ南下して徒歩7−8分で西国街道・山陽道の古い街並みの残る矢掛の街です。


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  街並み その1


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 街並み その2

全国の宿場町で唯一、本陣と脇陣が江戸時代そのままの姿で現存する。 参勤交代を紹介するテレビ番組では矢掛の町が取り上げられていた。 本陣の石井家は現存するものは江戸時代中期から後期に建てられたもので大名の宿泊施設や家業の酒造業の建物がある。薩摩の殿様が残して取りに来ないという殿様専用の風呂桶が見られる。また篤姫が宿泊した記録がある。


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  石井家家本陣見取り図


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  殿様専用出入り門 御成門


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 殿様用 上段の間 一段床が高く作られている。


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 残された薩摩島津家の殿様用風呂桶


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  本陣内部


 本陣には殿様が宿泊し脇人には家臣が宿泊する。 本陣から東400mに脇本陣高草家がある。 高草家は、金融業を営んでいた。


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 脇本陣高草家


     2021-1-11




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2021年01月09日

新居浜・大島と新居浜マリ−ナ


1. 新居浜・大島

 
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 赤丸 ヨット係留地



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 旧港 連絡船乗場


  川之江から新居浜・大島へ向かう。 ヨットの係留場所は連絡船乗場のある旧港に行けばそのスペ−スは無かった。 予定どうりの新港の漁港物揚場岸壁に係留した。
瀬戸内ゆえに潮汐は3mほどの高低があるので、乗降りを考えてゴムはしごのある位置にヨットを着けた。 地元の人に係留の可否を問うたが、空いているようで3−4日はOKとのことでした。



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 新港 係留場所

 村上海賊の発祥の地ゆえ大島城と街並みを散策した。


 2. 新居浜マリ−ナ


 翌日はすぐ近くの新居浜マリ−ナへ向かう。 瀬戸内海をヨットで西航する際には小豆島や仁尾マリ−ナから弓削海の駅ないし今治海の駅へいくのが妥当な航路であると思う。従い川之江や新居浜によることは少ないでしょう。 新居浜マリ−ナでは水と電気の補給ができます。 しかし電気代が1時間100円と以上に高く、冷房でも使用するのでなければ早くバッテリ−をフルにして切り上げたいところです。 町への交通は案内所でよく聞いておく必要があります、不便です。 シャワ−の利用もできます。

 

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 大島と新居浜マリ−ナ



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 ゲストバ−ス・給油さんばし



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 マリ−ナ

 ここでは1日で3つの城跡をめぐった。


      2021-1-9

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2021年01月08日

新居浜大島

   




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 赤星印はヨット係留港



 新居浜大島に行きたかった。 2020年秋のクル−ズの目玉として期待した。 村上海賊の発祥の地である。 村上義弘がここ大島城に拠点を築き、そのご発展して伊予大島に本拠を移した。瀬戸内の地図を俯瞰すればより適地を選んだということであろう。






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 瀬戸内海賊拠点




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 案内図と地図番号

 C 村上邸・ 庄屋跡・1360年頃 村上義弘活躍
 H この北に船隠し・ 水軍船つなぎ場
 O 大島城本丸
 P 城の鼻・ 大島城出城
 




 この時まではGoogl mapでの城跡さがしの欠点を承知しておらず、点線で示される城跡までの山道を探すことになる。二の丸跡へ行こうとするがすぐ横の海岸道を歩いて来たが登山口は見つけられない。 近くの観音堂へ行ったが、そこは城の鼻の出城であると後に分かった。





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  写真右は海岸で左は山崖でその奥が二の丸跡





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 観音堂



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 城が鼻



 近くの老人を見つけてお城のことを尋ねてみた。 子供のころは本丸跡で遊んだとのこと、人口が少くなって耕作放棄するようになり、そこは農地であったが今はとても行けないだろうとの返答を得た。 それゆえに二の丸と本丸を分ける山道が有りそこへ行ってみた。





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 写真右は二の丸で左は本丸



 古くから開けた連絡船乗場のある集落に行った。 村上義弘ゆかりのこの島の庄屋邸・村上邸を見る。そこの当主と思われる人が出て来られたのでその尊顔チラと拝見した。信長の子孫のアイススケ−タ−の顔が現存する信長肖像画にその面影があるように見えるのだが、失礼ながらそうであろうかと勝手に想像した。



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 村上義弘邸跡



 船隠し跡など島の北側にあるけれども陸路から行くのは困難で、ヨットで行くにも水深の確認を要するので断念した。



       2021-1-8







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2020年12月24日

黒山城・倉敷

 


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  黒山城付近図


本太城を訪ねてバスにて黒山城へ向かう。( 水島臨海鉄道の福井と浦田が最寄りの駅になる) いつものように城位置をグーグルmapを使用してスマホに表示して山道を登る。 携帯の山上アンテナ施設があるだけで城跡の気配はない。ふもとに降りて地元の人に尋ねた。 子供の頃にはそこで遊んだことがあるということで親切にも入り口まで案内してくれた。 
 胸まで届く高さのあるヤブを手で折り分けて進む。 とげのある蔓が混ざっているので時々ささって痛い。 木の生えていない日光が当たる場所がこのような植生になるようだ。搔き分けカキワケ40m位進んで木立になりブッシュを抜けた。


  ご注意!
 Googleマップで城跡までのル−トは点線で表示されるところ、主にふもとから山頂までであるが、単なるル−ト表示であり、山道・登山路を示しているのでないことに注意が必要です。




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 入口付近のブッシュ状態




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  縄張り図





 現在は倉敷市の街中にあるけれどもそこは海と湿地に囲まれた要害であった。 毛利氏と三村氏、宇喜多氏との戦いがあったようだ。 案内板もないのだが、それにしては土塁、堀、桝形虎口などよく残っていて、今秋の城廻では一番のものであった。




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 かって島であった児島の北西端にある黒山城。西の連島とは海峡があった。




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 堀







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 所々に多くのお地蔵さんが忘れられたように建っていた




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 お地蔵その2


      2020-12-24










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2020年12月16日

大原美術館

   
   


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 大原美術館は倉敷の美観地区にある。 それは倉敷の絹織・紡績で財を築いた大原孫三郎(1880-1943)が、自身の奨学金において養成して見出した洋画家・児島虎次郎に収集させた芸術品を展示したものである。
小生は高校のクラブで油絵のマネごとをしたことがあります。 その当時は、ミロのヴィ−ナスやモナリザなど世界の名品が日本の美術館へ、それが例え単品での出品であっても、当時の人々には稀有な機会で盛大な観客を集める時代であった。 また、親戚が海外旅行に行くのに飛行場へ父親が見送りにでかけることがあり、それを考えても、とても海外渡航に出かけることは稀有で縁遠い時代であった。また、成人になっても友人はシベリア鉄道経由で欧州に出かけたほどだ。
 教科書に載っている有名な作家の作品を直に見られない時代であり、 それゆえに大原美術館はあこがれの的であった……. 
 今回は実際に行く機会があり、大原美術館を見て大いに期待外れであった。 学生の時から半世紀以上も経てしまったので、海外旅行も高度成長期に急速に普及して、小生でもプラド美術館、ル−ブル美術館、大英博物館などは現地で見たことがある。 テレビでもウフィツィ美術館なども詳細に放映している時代になり、 毎年のようにルネッサンス時代の画家の単独企画展が催されるようになった。 これらの理由でその気持ちは、時代が急激に発展した時期があったがゆえに受容する側が変わってしまったからであろう。あくまで個人的な感想にすぎないのだけれど。 期待が裏切られたと感ずる個人がいたとしても、大原美術館が変化したわけではない。

  貧しかった時代に地方の一個人が私有財産を投じて蒐集してくれた美術作品を現在から判断するのは良くないことだと思う。 限られた予算で海外の一流作品を買うことは無理な話である。 我々は素直によくやってくれたものだと感心しなければなりますまい。 大原孫三郎さんはノブレスオブリ−ジな人だと思います。 孤児の救済や行員の福祉向上、病院の設立など業績もそれに値するものです。



  大原孫三郎の略歴


1880・明治13   倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の3男として誕生
1897・明治30  東京専門学校(早稲田大学)入学
1901・明治34  放蕩のすえ退学し倉敷へ、孤児の救済をしていた石井十次を知り社会福祉活動に興味を持つ。倉敷紡績入社
1902・明治35  工場内に尋常小学校設立、倉敷商行補習校設立、大原奨学会を開設。
1906・明治39  社長就任。 飯場制度を改める。社の利益数百億円をのほとんどを日露戦争で増えた孤児救済にあてる。
1914・大正3  大原奨農学研究所設立し農業の改善を図る、後に名産品となるマスカットや白桃を開発
1919・大正8  大原社会問題研究所設立。 マルクス経済学研究の中心となり、特高ににらまれる
1923・大正12  倉紡中央病院設立
1928・昭和3  幼稚園を作り市民に開放
1930・昭和5  大原美術館開館
1939・昭和14  引退
1943・昭和18  死去62歳

  ここに少数の作品をかかげておきます。 日本人の作品は充実したものがあるように感じます。




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 児島虎次郎 



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 岸田劉生

 

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  青木繁




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 モデイリア−ニ


 
 https://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3b04.html

     2020-12-16


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2020年12月11日

本太城(もとぶとじょう)

 

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 児島周辺図

 児島と云っても、それどこ?と聞かれる。 小生のような古い世代には児島の干拓の名前には義務教育で習った記憶があるので、その内容はとっくに忘れても児島は聞き覚えがある。 児島市と水島市は倉敷と合併して現在の児島は倉敷市の一部です。 瀬戸大橋の本土部分の接続地点でもある。
 児島は昔は島であった。本土とは藤戸の鳴門といわれる海峡で隔てられていた。 本太城は児島西岸にある本太岬の要害にあり、北に本太湊を備えた山城と海城の複合城郭であったという。
 永禄11年・1568にこの城で能島村上水軍の村上武吉の家臣島吉利(しまよりとし)・と讃岐の香西氏が争った。村上が勝ってこの城を奪う。しかし今度は三好氏の後援を受けた香西氏の反撃を受け大友氏の仲介で和睦した。能島村上氏は豊後の大友氏と組み反毛利となったので、小早川隆景により落城した。天正8年1580まで存在したがその後は不明である。


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 案内石碑

 Googl mapはまだ習得していないが、この時は成功した。 児島駅より倉敷行きの下電バスに乗った(2系統の倉敷行きがあるので水島に寄るバスに乗る)。 車内でスマホのマップで太本城をクリックして特定し、バスの運行にあわせて現在地の表示がその位置に接近したところで停車ボタンを押し下車した。 ほどなく案内の石碑を見つけた。


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 この武家屋敷風の建物の上の山が太本城

 一帯が公園になっており遊歩道を上がっていく。 本丸を囲む低石垣があった。


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 本丸を囲む石垣


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 山頂には天満宮がある。 この階段は利用しなかった。

 海側の崖を望むとすぐ近くに水島工業地帯の工場がある。操業している音がまじかに聞こえる。事故で爆発したら危ういなあと思いながら散策した。


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 水島の工場群


   2020-12-11


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2020年12月09日

讃岐広島(香川県丸亀市)




 香川県にある中部瀬戸内海の広島へ行きました。 ヨットで備讃瀬戸をよく航行したことがあるが、讃岐広島は比較的大きな島で沖から眺めるとビルもあり一度訪ねたいと思っていた。
ちなみに、発音は「ひろ↑しま↓」と発するようで広島県のは「ひろ→しま→」は平坦に発声するという。





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 丸亀沖の備讃広島



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 江の浦  赤丸は停泊位置



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 連絡船の反対側に係留



 讃岐広島は丸亀市に属するので丸亀より江の浦への連絡船がある。その反対側のフロ−テイング桟橋に今回はヨットを係留した。 1年ほど無駄に積み込んでいたフリ−パワ−の自転車をすぐに桟橋に降ろして島1周をもくろみ意気込んで、まず時計回りで東海岸へサイクルする。



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 広島案内図



 江戸時代の廻船問屋であった尾上邸を見た。 すぐに坂道が続くようであったので、早くも東岸よりにて島一周するための北上を断念して引き返すことになった。



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 城を思わせるような尾上邸



 南岸沿いに行く。 沖からからよく見えていた小中学校は10年前に廃校になっていて、どうりで校庭が静かな訳だ。 大きな島の割には人口が少なく450人ほどである。



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 元小中学校  現コミュニテイセンタ−



この島は青木石の採石で有名、あちこちに関連の施設が見られる。



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 青木石の採石場



 かって海技試験を受けてものにはなつかしい、試験によくでる問題には備讃瀬戸の航法がある。  海上交通安全法施行以前であったと思うが、「波節岩(はぶしいわ)を左舷にみて航行する」は必須の知識であった。 その岩礁と灯台が大島の南岸沖1kmにある。



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 波節岩 灯台



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 大島西岸からの風景




     2020-12-9



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