2019年12月07日

下津井城


 JR児島駅からバスに乗り下津井に行く。 瀬戸大橋が出来た時にその予算で瀬戸大橋架橋記念公園ができる。公園内というか隣接して下津井城跡がある。

 そこは眼下に下津井瀬戸をのぞみ、その瀬戸は10ノットの急流速になるという。近くの島塩飽海賊の根拠地・本島もあり、瀬戸内の海上交通の要衛である。 ここは宇喜多秀家が築城した、関ケ原後に岡山・池田藩の支城として現在のように改修された。 一国一城の令により廃城となる。 西の丸、二の丸、本丸、3の丸、中の丸、東の丸と配置され、天守があった。 石垣が残っていてその規模が知られる。

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 下津井地図 下は下津井瀬戸


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 下津井城図


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  三の丸


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 二の丸


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 天守跡


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 西の丸


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 中出丸


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 二の丸下南面の石垣


下津井は現在は瀬戸大橋の本州側の一端である。城跡からは橋や島々の景色が良い。

 
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 城跡から眼下を望む


  2019-12-7

  


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2019年12月05日

引田・ひけた


 引田の町は小豆島から目的地の淡路島・都志へ航海するのに選んだ中継地でした。そこは徳島県にあるとカン違いしていたが、行ってみると香川県の東かがわ市にある街であった。

 歴史のある街で古い町並みが残っており、おまけに引田城もあり、満足のいくものでした。


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 赤丸は係留地 T字桟橋端、 赤線は町並み保存地区


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 T字桟橋端、 隣に2隻の養殖運搬船スペ−ス必要


 風待ちの湊として利用されたのは旧港地区で隣接した山には引田城がある。船待ちの湊ゆえ御多聞に漏れずに遊郭があったと云うが今は残っていない。 この旧地区には廻船業から戦後に機帆船の船主になった稼業が50もあったという。さすがに老生が船に乗った若いころにはそれを多く目にしたが、今は見ることが無くなった。


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 旧湊図、  ヨットを係留する適地は見当たらず


 古い町並み保存地区には 廻船問屋やしょうゆ業の屋敷が残る。佐野家では内部を見学できる(300円)。 外人のマニアにも引田は有名らしく、スイスからのひとりの老婦人がいた。


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 佐野家・讃州井筒屋・醸造業を営む、見学できる


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 佐野家居室


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 かめびし屋 醤油や


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 引田の町並み 


 現在の引田は「はまち」養殖が日本で初めて行われた地で、それが栄えている。港の入り口沖には大きな養殖地があり、入港には注意が必要。 老生は「養殖はまち」を食するのは好まない、それは最近ではエサの改良で「天然もの」より値が高くなっているという。漁師の数はここでは3軒しかないというけれど、養殖業者は多くある。

 大きな漁港の割にはふさわしいヨット係留地が少ない。


     2019-12-5

引田城  http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-650



 


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2019年12月03日

姫路城


 姫路城は先代ヨット「速魚」を造っているとき、46年も前に2週間会社を休み高砂にあるヨットメ−カ−に通ってその製作過程を見ていた時にそこへ行きました。 当時は今のように造船所に頼んで出来上がりを待つことも出来たのですが、ヨット建造にオーナ−が立ち会う古い慣習があった。
 造船所の休日に高砂から山陽電鉄に乗り姫路に行き、姫路城を見て来ました。当時は昭和の大改修とかで、姫路城はすっぽりと足場で覆われていました。 それから半世紀、速魚Uで木場ヨットハーバーに係留して、カミさんとそこを見に行くことができました。姫路城は個人的にヨットとの縁と感じています。


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  姫路城


 平成の大改修がほとんど終わりシ−トで覆われているところも少なく、予想していた漆喰がまぶしく白っぽい印象ではなく、程よい白さであった。


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 総構の姫路城モデル


 駅前から大通りをまっすぐ歩くと姫路城である。駅近くまで外曲輪があったようだがビルが立ち並んでいて面影はない。
 西国街道が城内を通っていてそこに中濠があり石垣が残っている。


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 車が通っているのが西国街道 中濠の石垣  本陣があった。


 大手門前には「い・ろ・は・に」と名称をつけた土産物店が並ぶ。ここから橋を渡って大手門を抜け、いよいよ姫路城だ。

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  大手門


 1000円を支払い、菱の門をくぐる、皆は天守方面に向かったが、左へ折れて西の丸へ向かう。


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 菱の門


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 西の丸図


 西の丸見学入り口でビニ−ルを借りて靴を入れて、長い渡り廊下を歩き化粧櫓の出口まで歩く、ここは秀頼の妻であった2代将軍秀忠の娘千姫が池田家へ再婚して、ここに暮らしたところであるという。この廊下の一室に暮らしたのではなく庭の中に御殿が建っていたのであろう。 天守よりもこの一角のほうが個人的には昔の城らしく感じた。
 ここから天守に向かう。


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 菱の門からは「い・ろ・は・に・ほ」の防御に趣向をこらした門をくぐり天守に出る。
姫路城は一回では堪能できず、搦手方向からも行ってみたいものです。


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 備前丸からみた天守


 天守内は他によくある展示物が少なく現存をそのまま良く見ることができる。老人には階段がどこの城も急こう配なので苦労するが、ここは中央にも手摺があり助かった。

 余談だが名古屋城ではエスカレ−タ−が有り建て替える際に問題になっているが、オリジナル重視が大事なことなので昔無かったものは再現できない。 バリアフリ−の問題は特別な日を設定してボランテイアに援助してもらい見学をしてもらう工夫が必要でしょう。

 現在の姫路城は池田輝政が主な形をつくったのだが秀吉や黒田が城主の時代があった。古い黒田官兵衛の石垣も残る。


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 黒田菅兵衛の石垣


    2019-12-3


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2019年12月01日

牛窓

 

 牛窓へは今回の秋のクル−ジングでは2回寄港する。 徒歩20分位で牛窓旧市街を訪れた。 岡山藩の海の玄関口で岡山までの街道があったという。


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 牛窓ヨットハーバー  ゲストバ−ス  中央奥のビルがホテルリマ−ニ

 リゾ−トホテルのリマ−ニ近くから旧市街に入る。 町並み保全が遅かったのか旧町屋が続いてあるわけではない。灯台や醸造業、造船街などが残る。


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 牛窓旧灯台


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 醸造業跡



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 牛窓旧市街


 牛窓も小豆島のオリ−ブのようにエ−ゲ海を売り物にしたいようだが、小豆島のように知られて広まってはいないように見えた。。


   2019-12-1



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2019年11月29日

備中高松城

 

 高松城や松山城というと香川県や愛媛県にある四国の城だと思っていました。最近に岡山にあるそれぞれ備中の付く城を訪ねました。 秀吉の水攻めで有名な高松城は備中にある。

 そこは岡山からJRももたろう線(吉備線)に乗り備中高松駅にて下車、徒歩10分あまりです。


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 備中高松城図


 備中高松城は今では田んぼの中にある場所で案内板が無ければ通り過ぎてしまうようなところです。 蔵造りの資料館があり、館内には城主の清水公の像があった。


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 資料館にある城主清水宗治像


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  案内板  蔵は資料館

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 本丸跡


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 2の丸跡


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  3の丸跡


 ここの城は土塁によって構成されていた関係で石垣の残った城跡ではない。秀吉は黒田孝高の進言で堤防を築いて水攻めをしたのだが、公園になった堰き止め跡が残る。


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 高松城水攻め築堤跡


 付近に切腹した城主清水氏の殉死した家臣の「ごうやぶ遺跡」がある。


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 ごうやぶ遺跡

ヨットで行く城巡り


   2019-11-29


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2019年11月27日

小豆島 バス一周



 小豆島池田港にヨットで立ち寄りました。 自転車で小豆島一周を考えましたが、カミさんとの同行でしたのでそれを断念する。 路線バスで一周することにしました。

 小豆島の中心は土庄(とのしょう)のようなので、まず池田港フェリ−乗り場(池田−高松便あり)よりそこへバスで向かいました。一日乗り放題券を購入。バスにリュックを忘れる失態を演じたが、終点ゆえにほどなく見つかりました。事務の方が親切な対応のおかげです。小豆島は離島のバスとは違うようで、バス代が安い。1時間乗っても300円です。一周しても二回で600円ですので、乗り放題券1000円は有難味が少ない気がする。ここではバス便しかないので料金が抑えられているのでしょう。

 土庄には岡山−土庄フェリ−便などがあり、にぎわいのある町です。観光案内所で小豆島のバス便情報を手に入れる。近くで世界一狭い海峡や大阪城築城の残石を見る。

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 小豆島路線バス一周


 福田へ行くバス便には南北の二系統がある。はじめに南周りにのって福田へ着く。ここは姫路よりのフェリ−が就航している。関西からは福田、中国地方からは岡山から土庄、四国からは高松より池田へと各地方より船便は振り分けて就航している。

 福田からの北回り便は二時間に一本位のバス便ゆえ近くを散策した。終点の小豆島中央病院で乗り換えてオリ-ブ園公園に行く。ここには温泉施設があり、ゆっくりとお湯を堪能した。ヨット旅行にはお風呂施設はありがたいものだ。この公園下から二四瞳で有名な映画村行の船便があるが、今回はそこへは行けなかった。

 バスで一周してみて自転車で行かなくて良かった。実際に若いサイクリストを車窓から目にしたが、きっちりスタイルを決めた人々で、本格的に自転車を愛好している人だと思われる。急な登り坂が多く、老人のチャリンコ乗りでは途中で投げ出すことになったであろう。


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 池田港近く、 これは城の石垣ではないがこの上に池田城があったという


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 土庄近く、 ギネスに認定された世界一狭い海峡


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 大阪城築城の折に石が切り出された。 採石場や残石が島内に多くある


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 福田港  姫路へのフェリ−がある


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 福田港近くの箕田八幡神社 応神天皇・神功皇后などが祀られている



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 オリ−ブ公園にある温泉施設

   2019-11-27




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2019年11月25日

都志  (つし)


 高田屋嘉兵衛の生誕地を訪ねる


 淡路島の西岸にある都志にヨットで訪ねました。 そこは、ここらあたりの海岸にひとつだけと云う大型風力発電機があるところで、最初からそれを知っていたなら,遥か沖合から見られたので、都志へのナビゲ−ションは容易であったろう。

 今回のクル−ジングの目的地であり、そこは司馬遼太郎「菜の花の沖」の主人公・高田屋嘉兵衛の誕生育った土地であった。 ああ、火曜日で資料館と記念館2つとも休館日で見ることはできなかった。働き方改革の今休みは大切だが、図書館と違い司書の専門職の人間が必要なわけではないこれらの施設はシルバ−の人でも配置して開館できないものでしょうか。それとも全国で統一してこれらの施設の休みを決めてほしいものです。月・火・水曜日あたりに散らばっていて要注意です。

 公園内にある温泉施設は休みでなかったので、ヨットの旅の汚れを洗い流すことができたのは幸いでした。

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 風力発電機


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 ゴロ−ニン提督と高田屋嘉兵衛の像


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 休館中の菜の花ホ−ルにあったポスタ−


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 高田屋嘉兵衛旧宅  洲本市五色町支所に隣接


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 貨幣が10年間築いた築港防波堤の跡


  2019-11-25


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2019年11月24日

更新 ヨットマンのための海の駅と泊地


  ヨットマンのための海の駅と泊地 を更新しました。

  http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-41

      2019-11-24
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2019年11月23日

引田城 (ひけた)



 ヨットを引田港に係留したので、引田城を訪れた。登山口も二か所整備されているが、港より遠いオ−トキャンプ場方面の登山口が登りやすいようだ。

 高松城の支城であった引田城と丸亀城である。引田城は1615年・元和元年に一国一城令で廃城となる。 室町時代より城はあったが、秀吉の四国征伐の功で仙石秀久がこの城主となる。仙谷は九州征伐の戸次川の戦いで敗れ改易される。その後に生駒親正がここへ入城して織豊系の城として現存する引田城をつくる。

 引田は風待ちの港として利用されて、その守りとして引田城は港と隣接する80mの山に存した。 丸亀城は天守も現存して威容を誇るが、引田城は一部に石垣が残るが忘れ去られた城となった。

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 引田城図


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 引田旧港・風待ちの港より引田城を望む


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 旧港近くの引田港側登山口


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 本丸


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 天守付近 案内板がない


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 北二ノ丸にある石垣 補修中で青いシ−トが掛かっている


 天守の案内板が見つからないなどもう少し見せる工夫が必要でしょう。 旧市街に比べて訪れる人は少ない。 天守を再興したり、大手口の整備をすればもっと観光資源のひとつになれそうな気がします。


   2019-11-23


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2019年11月21日

2019 秋のクル−ズ 東瀬戸内


 東瀬戸内海をクル−ズしました。

 10/19  倉敷着
 10/20 より 整備 バッテリ−交換等
 10/24  雨のため 備中高松城 見学
 10/25-28 道板製作
 10/29  プロペラにカキ多し判明、 潜って一部取り除く
 10/30  上架してペラクリン塗装
 10/31  倉敷−北木島 メンセ−ルをロフトに持っていく
 11/1   北木島−倉敷
 11/2  整備
 11/3  ジブセ−ル補修
 11/4  カミさん到着
 11/5  下津井旧街、下津井城 見学
 11/6  メンセ−ルリペア到着設置
 11/7  倉敷発-牛窓ヨットハーバー  旧市街 見学
 11/8  牛窓-小豆島池田泊
 11/9  小豆島 見学
 11/10  小豆島−引田着
 11/11  引田旧市街、引田城 見学
 11/12  引田発−都志着「淡路島」 高田屋嘉兵衛記念館休館中
 11/13  都志発―木場ヨットハーバー「姫路」着
 11/14  姫路城 見学  カミさん帰る
 11/15  木場発−牛窓ヨットハーバー着
 11/16  牛窓発−倉敷着
 11/17  旧オ−ナ−と坂出で会う
 11/18  整備
 11/19  帰着

ほぼ1か月の期間でしたが、整備に時間をとられすぎました。 今までの記憶と違い、最近はこの台風明けのシ*−ズンは良い天候が続きクル−ズには最適な季節と言えます。 かっては11月は季節の変わり目で悪天候であったような気がしていました。

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  2019-11-21
  


 
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2019年10月08日

子供を政治の世界に巻き込むな




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 グレタ・トウ−ンベリ さん  2003誕生


 グレタさんが英国・プリマスより大西洋をヨットに乗り15日間で横断してニュ−ヨ−クに着いた。 国連総会にて地球温暖化の演説を世界のトップの前で演説する。 環境大臣の進次郎さんがえらくそれをホメておりました。 しかし、演説後の反響は様々です。

 テレビニュ−スで報じていた演説の一部を見ました。 全部を聞いたわけではないのですが、その時に小生が受けた印象は、彼女が激しい表情・表現をしたからかもしれませんが、紅衛兵かヒトラ−ユ−ゲントの子供たちの演説を聞いているみたいな印象を受けました。

 小生は老人ヨットマンのはしくれなので、気象は少しは詳しいつもりである。台風18号が石垣島から朝鮮半島にむけて中国沿岸に沿って進行しています。 10月にこのコ−スを通るのは普通ではありません。7月−8月の想定される台風コ−スのようです。10月初旬には大陸から寒い高気圧が張り出してきたので、日本沿岸はるか沖を台風が通ってそのシ−ズンを終えます。 18号のコ−スであると、それまでにあと2−3回台風が日本へ来ないと終わりません。 実に今度の連休に新しい台風19号が日本に接近してくる予報がでました。まだ今月中は台風シ−ズンなのでしょうか。 こう考えると気象が通常ではないと思わされます。 しかし、地球には氷河期があったように、長いスパンでみると寒暖の幅があるのは事実です。 物事の説明に地球温暖化を小生も利用していた時期がありました。 ツバル諸島が沈んで無くなるような報道は事実では無いようです。 温暖化の問題は科学的には今でもまだ解決された問題ではないと小生は考えるようになりました。 既成の事実のように決め込まずに、もっと検討が必要でしょう。

 気候変動の問題に限らず、グレタさんのような子供を政治利用することは止めようではないか。 ここには、彼女の写真は穏やかなものを上にのせましたが、彼女に批判的な人が取り上げている写真は、彼女の演説中の表情で口の両端にキバでもそえれば鬼のように見える写真を取り上げて、貶めるイメ−ジ操作をしています。

 世界のトップの指導者を前にして、彼らの貴重な時間を割いて子供の演説を聞かせるのは止めていただきたい。 この状況をプロデュ−ス・演出した人は誰だったのか知りたいものです。後ろにいる人は子供を利用するほど焦っているのかもしれません。

 

    2019-10-8




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2019年09月06日

別府



 別府へは2度訪れました。すぐ近くに大型ス−パ−や安い温泉がありとても良い。 最初の入港の時には入り口が分かりにくいので注意が必要です。 2度目の時は入港間際にホンダワラに突っ込んでペラにそれが絡みました。 上架してもらうつもりでしたが、あいにく船底塗りの先客があり、同時には上げられないようです。 ハ−バ−で潜って海藻を取り除きました。

 ここは別府駅にも近く申し分はないのだけれど、2000円位で係留費が済むとよいのだが。 他のヨットマンに聞いてもワイフがまた連れていってくれとせがむようなところだと聞いています。おもしろい夜のクラブ、妻同伴ですが有ると言っています。 ハ−バ−近くに温泉も100−200円で入湯できるものがあります。

 鉄湯・かんのわ温泉に行ってきました。 バス便があります。ここにも安く入湯できる温泉が町のあちこちにあります。 地獄めぐりに行きました。各地獄で500円程の入場代を徴収するので興ざめです。入場料をとるせいか、関係のない余計な展示物も見せられます。 各地獄をまとめてもっと安くする方法を採ってもらえないものでしょうか? これではいずれ人気が無くなるのではないでしょうか。



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 別府北浜ヨットハーバー 人気があるので予約が必要でしょう




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 竹瓦温泉  200円



 

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 鉄湯のあちこちにある温泉 100−200円



 

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 鉄湯 むし湯温泉



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 地獄めぐりのひとつ


   2019-9-6


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2019年08月07日

これで正気に戻るか 女子ゴルフ報道



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  渋野日向子   いいねえ



 ゴルフは生まれてこの方、一度もやったことがありませんが、これからプレ−することもなく人生を終えるでしょう。 それでも流れてくるゴルフのニュ−スは耳にします。

 最近聞いたのでは、男子の石川遼さんが長いスランプから脱出してきたのには安心です。 というのは震災の時に石川さんは、獲得した賞金を2億円余り寄付してくれました。 あのタケシ、サンマ、タモリですら、震災時にそんな高額の寄付をしたとは聞いていません。 石川遼さんは、ありがたいけど、やりすぎではと思っていました。その後に石川さんはパットしなくなり心配をしておりましたので。

 男子ゴルフのことではなく、今日、渋野日向子さんが全英オ−プンで優勝しました。前日からの報道で笑顔のカワイイ人だと注目でした。
 試合でプレシャ−に負けることもなく、見事栄冠をとりました。 テニスの大阪さんのようにこの後がたいへんなのかもしれません。

 ここで言いたいことは、日本の女子ゴルフの報道も新しいスタ−の誕生で、改心して正気に戻ってくれることを期待します。 というのは、少し前のたいした成績でもない韓国美人女子プレ−ヤ−の報道、さらに古くは不動裕理さんが絶頂で活躍していた時の報道が特にひどかった。不動さんが毎回優勝しても、下位のカワイ子ちゃんプレ−ヤ−ばかり取り上げていた。それはむごいものでした。 ゴルフに関心の無い小生でも、当時はニュ−スを目にして、大いにこれは「ひどい」と感じていたことです。

 他のマスコミも感心しない今日この頃だが、さわやかな新しいスタ−の誕生で女子ゴルフ報道は断固変わってください。



   2019-8-5

  余談

 カミさんにPINGの意味はときかれました。 彼女の帽子にPINGと書いてあるのだそうです。 気が付きませんでした。 というのは30年ほど前に友人と地中海で「PING906」というヨットを所有していたからです。 中古のオランダ人家族が乗っていたヨットを購入して船名はそのまま継承しました。「海底2万マイル」から名前をつけたと聞いています。 今回は{ピン}と呼ぶそうですが私たちは{ピング}と呼んでいました。

  下記の地中海クル−ズをご覧ください
  http://hayame2.sakura.ne.jp/details1044.html#地中海クルーズ

   2019-8-7




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2019年08月03日

新島襄と快風丸



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 新島襄 1843-1890


 新島襄は安中藩士に生まれた。安中藩は備中松山藩の分家です。 新島は幕府の軍艦操練所で学んだことから、備中松山藩が購入した洋式帆船(スク−ナ−)快風丸の廻航を頼まれた。 その縁で、快風丸の函館行の運行があり、米国への密航の思いで乗船し、函館に行く。 藩の乗船許可が下りないのでわざわざ備中松山藩から安中藩へ願い出て許可をもらう。 函館でアメリカ密入国をさせてくれる船を捜す。坂本龍馬の親類の沼部琢磨などの協力を得て、米船ベルリン号にて上海に渡り、ワイルド・ロ−ヴァ−号に乗り換えてボストンに着いた。
 その船主であったA,ハ−デイ夫妻の援助を受ける。この当時の米国の慈善はすばらしい。彼だけではなく他の日本人が援助を受けた話は耳にします。
 アマ−スト大学では学士を取得。札幌農学校に来日するクラ−ク博士の授業を受講。そのきっかけで彼は来日することになったという。
 新島は岩倉使節団の通訳として参加。ヨ−ロッパに渡り教育制度の報告書を提出し、それが明治の学制改革に大きな影響を与えた。 宣教師となり日本に帰国。 大河ドラマ「八重の桜」では、学校設立のために講演を行い5000ドルの寄付を集めるシ−ンがある。ハ−デイ夫妻が演説原稿を読みこの内容では寄付は集められないと、事前にアメリカン・ボ−ドの有力者に寄付を頼んだ故であるという。日本へ来て同支社大学を建設するくだりは皆様ご覧になってよくお知りになっているでしょう。
 彼は因縁の有る快風丸で備中松山へ行き、伝道しています。その演説で女子教育に活躍する福西志計子に大きな影響を与えた。



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 快風丸

  快風丸諸元

 155トン、全長31.5m、全幅 6.8m、 ニュ−ヨ−ク建造「ゴ−ウルノルワラス」 1862年・文久2・9月 18,000ドルで購入


    2019-8-3




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2019年08月01日

福西志計子・ふくにししげこ



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 1848-1898



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 山田方谷像  王陽明の一節、至誠惻怛(しせいそくだつ)真心といたみ悲しむ心・慈愛の精神を説く




 女性尊皇攘夷志を取り上げることが多いのですが、福西志計子は山田方谷から薫陶を受けた人ですので、幕末に活躍した人ではない。 牛麓舎が隣家であったから、父を亡くした後、母親・飛天子(ひでこ)が方谷に寡婦の娘と侮られぬよう、学問を身につけてほしと頼みにいった。

 「人の一生には思いがけない悲劇が来るものです。現在は動乱の中であるから多くの人が戦乱で亡くなっています。先行きの不安の中で生きている。そのような悲劇に打ち勝って生き抜かねばなりません。夫が死ねば妻が一家を支える事態も起こる。そのために強固な意志と技能を身に着けておかねばならない。今の福西家ではそのような悲劇に直面している。私・母には一家を支える手立てがないため、やむを得ずあなたを実家に連れ帰り生活することになりました。あなたが成人したら家の再興しなければなりません・そのためには技能を身に着けて生き延びることです、先に読み書きを学習することです。隣家の山田方谷先生は百姓の身でありながら学問を身に着け、元締役になり藩政を改革なさりました。学問を身にるけることこそ不安な時代生き抜く確かな手立てです。あなたは女子だから武士になることはできませんが、技能を身につけるためにも、学習をしておくことが必要です」 志計子は男の子と一緒に当時としては珍しく学問に励んだという。

 山田方谷は明治10年に死亡した。陽明学徒は明治になってキリスト教に改宗した人が多い。 明治12年に高梁(たかはし)にキリスト教が伝わった。方谷がキリスト教に理解を示したという伝承があり、小生にはわからないけれど、陽明学にはキリスト教を理解することが容易であったのでしょう。

 福西は方谷門下で身に着けた儒学的素養を基礎にしてキリスト教を受け入れた。 方谷精神に接ぎ木されたキリスト教徒といえよう。方谷の「至誠惻怛」はキリスト教の「人類愛」と矛盾することなく融合していた。

 福西は明治5.6年ごろから女子の覚醒ということを云い。女子も男子も変わらない、教育が悪いのだから女子教育が大切だ。必ず生活が出来るだけは心得ておかねばならない。

 藩主の中に天草の乱で死亡したものがおり、藩内ではキリスト教には厳しくあたるものがいた。福西は町議会からキリスト教の伝導活動と教職の矛盾を問われて、職を辞すことになる。 何度も町民に押しかけられて迫害を受けたという。ほどなく支援者の大いなる援助を得て私立裁縫所を開設した。

 生徒数が増えて手狭になってきたので、新築趣意書が書かれた「ここ7.8年の女子教育の実態を見ると、西洋と東洋の社会の違いを無視して、いたずらに欧米人の方式を模倣したため、女子教育には弊害が現れている。それは社会にも家庭にも役に立たないものになっている。学問は公演を説くだけで現実から離れ。芸術は実際の役に立っていない。ことに徳育では日本の婦人が、古来の優美で貞淑が失われているから、これでは役に立たないばかりでなく、社会に害をもたらす恐れがある。このような状況であるからこの2,3年女子教育は大いに衰微している。然しながら女子教育はおろそかにしてはならない。学問によって知識を磨き、徳を修め、技術は身を立て家族を養うものであり、妻は良妻たるべく、母となっては賢母でなければならない。わが校はこれを実現している。」この間全国に女子高は建設されては消えているが創立以来13年以来順調に順正女学校は発展してきた。趣意書を作り校舎建設資金の寄付金の募集をした。

 福西女史の活動はすさまじいものであった。資金の目途が立ち新校舎が姿を現すころ過労がたたって病勢が進んだ。衰弱がすすみ医師は余命は長くないと診断する。福西は「神様は今まで自由に働くことができる健康を私にお与えくださったので、不十分ながら活動して曲がりなりにも学校の順が着きましたから、今からは祈るようにとこの病気をお与えくださったのだと思います。それゆえ感謝しております」と述べた。病魔と闘いながら讃美歌を歌い、聖書を読み祈りの中で神の意志を悟って従容自若、満面に笑みをたたえて昇天されたという。



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 倉田和四生著  吉備人出版刊



   福西志計子・順正女学校 略歴

1848・弘化4   備中松山藩士の長女として誕生

1852・嘉永4   父と死別、山田方谷に学ぶ

1861・文久元年  14-5歳で井上助五郎を婿養子にむかえる

1875・明治8   29歳、岡山裁縫伝習所に入学、翌年卒業、高梁小学校付属裁縫所教師となる

1879・明治12  キリスト教徒になり、新島襄らに薫陶を受ける

1880・明治13  木村静と共にキリスト教婦人会設立。信仰か職かを町議会に問われて両人は教員の職を辞す

1881・明治14  34歳、私設の裁縫所設立

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1882・明治15  高梁基督教会堂設立に伴い洗礼をうけて正式のキリスト教徒になる。

1884・明治17  郡集が教会に押しかけて礼拝を3度にわたって妨害、プロテスタント史上最大であったと云われる。

1885・明治18  裁縫所に文学科を設置して順正女学校として改組。これは全国9校のひとつ

1887・明治20 上京して、神田職業学校に学ぶ、洋服仕立て、西洋洗濯、毛糸編み物、造花などを勉強

1895・明治28 頼久寺町に新校舎完成、裁縫科1棟、文科1棟、翌年に寄宿舎完成

1908・明治41 伊賀町に新校舎、講堂、割烹教室

1898・明治31 52歳で死去

1912・明治45 順正高等女学校となる

1921・大正10 県立順正高等学校と改称

   2019-8-1


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2019年07月26日

九州東岸・豊後水道・日向灘 ヨット泊地

 
  杵築

 杵築漁港は漁船の数の割には広い漁港である。中央の泊地の堤防の内側に着岸した。 始めはアンカ−を打って槍付けのつもりであったが、アンカ−が効かない、とうとう舵に引っかける始末。スペ−スがあったので最初から横付けにすれば良かった。潜ってロ−プを外した。 錨の効かない原因は底質が海藻であったようだ。 着けた防波堤の外側にもスペ−スがあるが、海を覗いてみると背の高い昆布のような海藻が水面近くに見える。干潮でも着岸が難しいと思われる。 漁船は1隻も利用していない訳だ。東風の強風が吹いたけれど港内は平穏であった。避難港には良いと思われる。

 買い物もスタンドも不自由です、橋のある道路まで20−30分歩くことになる。 杵築城まで歩いたが、帰りはタクシ−を利用した。

 

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 杵築漁港



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  赤印に着岸





   日出港


 日出港には停泊していません。杵築でアンカ−が海藻の底質で効かずに潜るハメになったので、ここを忌避して別府に入りました。どっこいその入り口付近でホンダワラがペラにからみ別府でも潜らねばならなかった。

 JRで別府から陽谷駅で降り。日出城跡に行く。城下カレイで有名な漁港が麓にある。ヨット停泊にはスペ−スの問題があるようだ。その対岸に岸壁があり、ここならヨットを着けられそうです。 

 

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 日出港  赤印は予想停泊地

 

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 日出漁港と対岸の商業岸壁




   臼杵



  臼杵港の下図赤地点に着桟したが、管理している臼杵港運で尋ねたところ、その岸壁を利用する商船があるということで対岸の青地点へシフトした。 この岸壁は商業港によくある下の部分が凹んでいて、干潮時にはヨットのハルがそこへ入ってしまうマズイ岸壁であった。 おまけにウネリも入ってくる。 徹夜でのワッチを覚悟したが、地元のヨットマンが隣の漁港板知屋を勧めてくれてそこへ移動した。 まったく静かでぐっすり眠ることができた。 買い物など不便であるがオススメです。


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 青は岸壁シフトした位置



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 青色地点へシフトした岸壁   サイドアンカ-を入れる必要あり



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 板知屋漁港に舫う



   土々呂


   蒲江


     2019-7-26



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2019年07月24日

因島散歩

  


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  因島マップ


 因島は本四連絡橋・しまなみ海道のなかにある向島と生口島につながる島です。造船業が盛んな島でもある。 以前に因島水軍城へ行きました。今回は注文したヨットの部品の受け取りに弓削海の駅より因島へ行く。

 往きは弓削より因島土生まで今治発の連絡船に乗る。土生で下船して、弓削にはホ-ムセンタ−がないので因島モ−ルまでタクシ−で行く。そこで工具等を購入した。 ここより土生発三原行の別会社の船便があり、乗船して途中の重井で下船した。 ここから因島マリ−ナへは徒歩になる。途中の民家は独特な作りで左官のワザなのか土蔵風の塗りこめの窓が珍しくこの土地だけのものなのかと思われる。



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 重井の民家その1


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 重井の民家その2

 
 丘を越えて次の入り江まで歩くのだが、途中の丘上には除虫菊畑があるようで、その入り口の看板があった。因島ではキンチョ−の島なのであろうか。 丘を下ったところにコ−プの店があり、弁当と水を購入。島の中でこの種の店をみつけるのは珍しいので、それなりの人口があるのでしょう。 ほどなく青木城跡の案内板を見つけた。 すぐ近くに因島マリ−ナがあり部品を引き取り一刻も早くそれをエンジンに取りつけて出港したいので城跡へ行くのは断念した。


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 青木城跡 海抜50.6m


 重井まで来た道を帰り、土生までの乗船時間が長いので、バス便にして土生まで帰った。 島の常だが交通の乗り換え待ち時間が長く、今度は弓削の船便を待つ間に、船具屋に立ち寄りバルブ関連の用品を買う。 その向えにホテルがあり、そこは村上水軍の長崎城跡です。 ちょうど昼時でランチをやっていて2800円也とのこと。 部品代にお金が掛かったおり、分不相応と辞退しました。


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長崎城  海から眺める


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 長崎城

  海賊城は見張りが重要で、船舶の動静を常に監視する必要がある。従い、水道・水路の脇には城跡があることになる、今回は見ることができなかったが、荒神山城、島前城、山伏山城、天神山城など因島には多く城・砦があるようです。弓削に立ち寄った際には自転車で見て歩きたいと思っております。



    2019-7-24



 
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2019年07月21日

高梁散歩


 新幹線を岡山で途中下車してでも、寄りたいところ山田方谷と備中松山城の高梁(たかはし)へ行きました。 広島県から岡山県へヨット本拠地を移す。 さっそく、そこを訪ねた。 岡山駅から伯備線に乗り、JR高梁駅まで行く、東京から鎌倉へ行くような距離と感覚です。伯備線は1時間のうちで鈍行と特急それぞれ1本位の運行をしています。 帰りは特急を利用しました。

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 山田方谷像 至誠惻怛(しせいそくだつ)真心と慈愛の精神を説く、


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  特急やくも

  お城への乗合タクシ−出発まで少し時間があり、駅より高梁川の方向へ行く。郵便局で用を済ませて、橋のほうへ歩いた。 城下町らしく弓之町、鉄砲町の地名があった。名残を求めて探してみたが、落ち着いた街並みがあったのみ。 時間も無くなってきたので、駅に戻る。 タクシ−で城へいく途中に山田方谷の塾跡の看板を見つけた。帰りはそこで降ろしてもらい高梁のまちを散策する。

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  弓之町

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  山田方谷家塾跡  牛甍舎跡 隣家の寡婦になった娘(福西志計子)に学問を教えた


 方谷塾跡は藩主からこの地を受領したもの。隣家の主人が死亡したので、寡婦の娘とあなどられないように残った娘の教育を方谷は頼まれた。その娘は藩士の男たちに交じって方谷から教育を受け、長じて福西志計子として明治の女子教育にの草分けになる。 ここから坂道を少し下ると、平時は藩政をしたという御根小屋跡に着く。現在は県立高梁高校になっている。しかしここには福西女史が創立した女学校が転じたものである
という。

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 元御根小屋・県立高梁高等学校 福西志計子の順正高等女学校の伝統を受け継ぐ


 ほどなく武家屋敷群が見られる。旧新井家と旧植原家が見学できる。 籠入れの土間が珍しかった。山田方谷の資料も豊富である。1本下った道には商家屋敷群が通りに沿って見られる。 現在も魚屋で営業している店があった。

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 武家屋敷の町並み

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 商家の町並み

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 魚屋で営業中


 紺屋川に沿って登っていくと、河井継之助が宿した花屋跡があるが現在は郵便局で案内碑があるのみである。塵壺(平凡社刊)という河井継之助日記の本にはここの滞在の様子が書かれている。 すぐ近くの幼稚園は旧藩校有終館跡があり、今は子供たちのにぎやかな声で包まれている。ここでは方谷が40近くまで教えていたという。

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  花屋宿 案内板 河井継之助の滞在宿

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 武家宿 花屋跡 現在郵便局

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藩校 有終館跡 現在幼稚園  山田方谷が教えていた


 また、すぐ近くの角に高梁基督教会堂がある、木造による教会では日本で2番目に古い建物である。中を見せてもらうが、昨年の五島の教会群を見た身としては内部は質素な雰囲気である。五島の人々はここよりは貧しかったのであろうが、ステンドグラスや装飾には信仰の熱意が感じられた。

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 高梁基督教会堂  福西志計子が通う


 頼久寺の庭園を見て、郷土資料館に入ったが、ここは個人的に興味が薄かった。隣に山田方谷記念館があり500円の割には大いなる期待に応えてくれませんでした。 最近に出来たものらしい、方谷の資料はあちこちに散逸しているようで、他の見学場所でも見られます。集中してここへ持ってくる努力を期待いたします。

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 頼久寺 庭園 小堀遠州の作庭という


 駅に向かう途中に松連寺・薬師院があり、まるでお城の土塀のような風貌です。いざという時の防御拠点として機能したのでしょう。 ほどなく駅に到着して、特急「やくも」にて帰路につく。

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  薬師院・松連寺  応急の時には砦として使うつもりであったのか




 コンパクトにまとまった地域で散策しやすい。さくらの春や紅葉の秋にはさぞかし良いのではと思われます。下記地図・写真参照。


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  高梁散歩図  青線を歩行

     2019-7-21
































 








 



 
















     


 
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2019年07月19日

備中松山城 


 天守の残る唯一の山城、日本の現存10天守の一つである備中松山城に行く。JR高梁駅にある観光案内所で情報を得て、乗り合いタクシ−の手配をしてもらいました。 麓からも行けるでしょうが、健脚に自信のある方のみです。 時期によりますが、ふいご峠(8合目)までのバスもあります。 そこでタクシ−を下りて天守に向かう。 登りは思ったよりキツク休み休みで時間がかかった。2時間ぐらいの見学時間だったが、登り降りの帰りの時間も含むことから思いを残す状況になった。待ち合わせ時間が迫り急ぎ降りることになる。 じっくり見たいのなら車が便利ですが、利用できる時期があるようなので下調べが必要です。

 雲海に浮かぶ城でも有名ですが、城を望む隣の山から見ることになり、時期と行程は観光案内所で尋ねてください。また、案内所のある駅と一体にになった図書館は、洒落た建物で同じ設計者なのか宮崎県延岡駅でも似たものがあった。

 この城は鎌倉時代からの歴史があり、北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその 頂を中心に全域に及んでいます。

 現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430M)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二 重櫓、土塀の一部が現存している。

 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。

 この藩には山田方谷が有名です。彼の行った藩政改革は幕末までのモデルと言われている。司馬遼太郎「峠」の河井継之助は方谷から学ぶためにこの地を訪ね花屋に泊まった。 方谷は後に明治政府が行った殖産興業と軍制改革を先立って行う。 藩主は譜代の老中筆頭を勤めた板倉勝静であった。最後の将軍と共に大阪城より江戸へ船で逃げ帰ったほどである。 しかし、方谷は体面を保つ形で恭順をして、備中松山城を無血開城した。 また、函館にいた藩主を撤収させて謹慎させる。藩の存続を許された。



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 天主



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 本丸入り口



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 天守から見た本丸





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 重要文化財 2重櫓



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 復古図





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 新しい守将 本丸にいる 先の豪雨でここへ迷い込んだという



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 2の丸





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 野面積 城内で一番古い






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 御膳棚跡



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 4の平櫓跡





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 厩門跡





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 黒門跡



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 3の平櫓跡



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 足軽箱番所跡



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 重要文化財 3の平櫓土塀



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 NHK 真田丸で使用された風情



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 上太鼓丸





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 御根小屋復元図





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 御茶屋橋と高梁高校



   2019-7-19




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2019年07月17日

西国海道 草津まち散歩


 草津城を見て川沿いを南に下ると、西国街道沿いの町並み保存地区に至る。 草津湊は埋め立てられたせいか、痕跡は見られなかった。草津は古くは軍津(いくさつ)呼ばれていたようで、水軍の地として栄えた。

 明治天皇が休憩したという小泉酒造の小泉家、幸福稲荷、大釣井、西楽寺、福溝稲荷、西氏功徳碑などを見て回ることができます。



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 西国街道  草津まち地図  赤マ−クは写真あり

 

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 西氏功徳碑 広島藩の支藩三次藩の飛び地であったので西氏は三次藩医の家系であった。



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小泉家と記念碑 明治天皇と皇后が小泉家で休憩された記念碑



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小泉家 酒造



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 福溝稲荷と地蔵



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 大釣井 塩分少なく共同井戸



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 西楽寺



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 幸福稲荷大明神


2019-7-17




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2019年07月15日

草津城・安芸

 
 スマホのグ−グルマップを利用していると、城跡がよくのっています。それで草津城へ行ってみました。 瀬戸内海沿岸の地形は海岸近くまで200-300mの山がせり出していて、平地の部分は限られている。 そこで近代化が進むと、その土地は鉄道や道路用地が土地を寸断されてしまう。 この草津城も山陽線、広島電鉄、道路で分断された。すぐ高層のマンションも隣接している。

 草津城は麓にある草津湊(現在は埋め立て)を水軍の拠点として重きをなしていた。 城主は厳島神社、安芸武田、大内・陶、毛利と変遷した。毛利氏になって、水軍の将である児玉氏が治めた。大阪の本願寺に米を届けたのもこの児玉氏である。明治の児玉源太郎は子孫にあたる。 関ケ原以降は福島正則が受領して、ここに大門を作り、城を廃した。



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 草津城跡、 道路が迫る



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 山頂本丸跡にある城跡石碑と案内板



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 草津城登山口


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隣接するマンション



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南海側から草津城を望む

  2019-7-15





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2019年07月13日

西郷陣屋  宮崎延岡北川


 土々呂・延岡市に整備天候待ちで4日ほど滞在した。延岡城、高千穂峡、西郷陣屋などを訪ねることができた。

  延岡の北に西郷隆盛宿陣跡資料館があります。延岡の観光案内所にそれをを尋ねると、電車やバスで行くには不便なところであった。それでタクシ−で訪れることになる。 帰りのために、タクシ−を30分待ってもらい、取り急ぎ資料館を見ました。

 大河ドラマ「西郷どん」で妻イトがここを訪ねる場面がある。それはドラマを盛るためのフィクションであるという。 ここで西郷は軍の解散をして、少数の従う人間と伴に鹿児島をめざした。 大将服をこの近くで焼いたというが、その地には碑がある、今回はそこを訪ねていない。

 資料館は2つの建物に渡って展示されている。最後の軍議の場面を人形を使って再現している。無料の割には充実している展示である。

 西郷を見る人の器量次第で、彼のことが大きくも小さくも見えるというが。 今だに、小生は彼のことが分からない、納得がいかない。 大人情の人であるが、目的を遂げるためには大非情の人でもあった。 小人には考えが及ばずと言ったところでしょう。




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 資料館


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 軍議の場面


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 陸軍大将服


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 展示物


    2019-7-13


  西郷隆盛  磯田道史による


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2019年07月11日

ホンダワラのプロペラへの絡み

   
 温暖化の影響か?、今年のホンダワラの繁殖が異常に多く、他のヨットマンも同じ考えのようだ。 瀬戸内海では、まだそうでもなかった。別府に入るころより、プロペラに絡み始めて、1日おきの頻度で潜りそれを取り除く事態に陥る。

 今年のクル−ズプランでは、昨年は九州一周を西回りで計画し、台風の影響で長崎で断念したところから、東回りをすることにした。 別府から佐賀関を回って豊後水道を日向灘へむかった。 もし、昨年と同じ航路を取ったとしても、玄界灘でスクリュ−大量に絡みつき、洋上で潜って取り除いたというヨットマンの体験を聞かされたので、同様に難儀したであろう。

 シングルハンドであると、なかなか前方をワッチするのは完璧にはいかず、舷側にそれが流れていくのを見てハットすることも多い。また、それを取り除くにも、洋上で潜ることはシングルハンドでは、はなはな危険な行為である。体をロ−プで縛って流されないようにヤルとしても、波で船体に頭部をブツけたり、潜って浮き上がった時には船体から離れていることがある。 ヨットの事故で意外と多いのは、泳ぎと飛び込みに自信があるの人なのでしょう、かっこよくヨットから飛び込んで泳ごうとして、船上に上がることができずに遭難することです。 というのは、舷側がクル−ザ−では予想以上に高く、デインギ−と違いハシゴなしでは上がれませんから。 小生は港に着岸して潜ることにしています。若い頃にはオホ−ツクの海でロ−プがからみ、震えながら潜った経験がありますが、それ一度キリです。

 大分佐伯・大入島から宮崎細島を目指して航行中、豊後大島と鶴御崎の間の元ノ間海峡通過までは順調でした。前日に海の駅桟橋で潜って取り除いていたので、ペラの絡みは無しで出港した。速度が4ノット3ノットに下がっていき、深島をなかなか交わせない。日向市沖のやっと枇榔島近くまでやっと来たら、エンジン音が変わり止まりそうになる。 4-5mの大きなウネリの中でした。 また、藻が絡んだなと考えました、入港して潜らねばなるまいと。 エンジンが止まるとなると、メインセ−ルを揚げていないので、ジブだけではセ−リングが満足でない。おまけに二馬力の船外機は取り付けておらず、それにそれの始動が気ままです。大きな揺れのなかで船尾に船外機を取り付けるのは難しい。 毎日のように海藻取で潜るため、船尾ハシゴを使うことを想定して、船外機を取り付けてなかったのです。どちらかしか使えない装備です。  メ−ンセ−ルは下記写真のようにガンジガラメに縛ってあり、すぐには揚げられない。夕方になり日も暮れそうです。 絶対絶命ではなくても大いにコマッタなと思っていたところ、そこへ「どうかしましたか?」と漁船が近寄ってきて声をかけてくれました。 九死に一生を得る、絶体絶命の危機に「救世主」が間髪を入れずに現れるとは、まさにこのことです。日頃の行いが悪いにもかかわらずに。 地元の元ヨットマンが漁船の廻航業務をしていて、ジブ縁が赤い色の知り合いのヨットだと思い寄ってきたものでした、すぐに異変に気が付いてお声がけしてくれて、助かった次第です。

 今回は事故にならずに済みましたが、起きる時には二三重にミスが重なるのでしょう。 と云うより、今まで、おざなりにしてきたもの、怠けてやっていないもの、不完全や欠けた知識によるもの、こういったものがヨットでは何かのときにキッチリと詰めてくるように思います、思い知らされます。 なにせ、自然相手ですから。

 写真のように延岡・トトロまでえい航してもらい無事着岸しました。土々呂のヨットマンの人々がその後数日にわたって門川にある温泉の送迎をわざわざしていただきました。ありがとうございます。

 土々呂漁港で翌日に潜り、午前中いっぱいかかって写真のように大量のホンダワラを取り除きました。 潜ったらスクリュウ−の形をとどめないほどまん丸く絡みついていた。 エンジンは12時間ほど回した関係で燃料消費が多くなり、タンクの底の燃料を使った関係で燃料供給が悪くなったのが原因と思われます。えい航中にはニュ−トラルにしていてエンジンは止まらずに回ってました。 ヤンマ−1GMがが新造時の規格で前オ−ナ−が2GMに換装しています。燃料タンクは1GM仕様で30リットルであるので、連続12時間は燃費を考えるとを廻しすぎであった。手持ちの燃料用予備ポリタンクが8リットル容量なので、5時間程度のエンジンを使用して、このポリタンクで補給すれば丁度よいと思われる。以後航海途中でも、5時間で補給することに決めた。

 他のベテランヨットマンに対策を聞きました。いずれも航海中に作業可能なもの。

1. 一番よさそうなものは写真のようにペラの上に穴を空けて、デッキから取り除く方法、ハルの形状により出来ないものもありそう。工事代金が50−60万円ほどかかるといいます。

2. 潜望鏡のような底を覗ける器具を作成して、船尾からそれで覗いて長い鎌を利用して取り除く。 これもスタ−ンの形状ヤヨットの大きさにもよる。

3. 船側からハシゴを固定して、そこに腰かけて水中のスクリュウ−を見ながら、長い鎌で取り除く。

 ご老体にムチ打って潜ることは、季節に限りもあるし、できることではない。 クル−ジングの大きな問題となっています。いろいろ自分のヨットにふさわしい方法を見つけることが必要です。

 釣り客を乗せて営業している釣船の船長さんに尋ねたところ、馬力が大きく、スクリュ−も大きい自分の船では問題になっていないとのことでした。海藻などブチ切っているのでしょう。 30年近くの間隔があるけれど、今までの2隻はロングキ−ルの船体であったのか、ロ−プの絡みいがいで潜る経験は無かった。ハルの形状も関係していそうです。

   

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 えい航される


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 絡みついたホンダワラ 少し乾いてカサが減る


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 少量のホンダワラの時 この程度は問題なし


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  コックピットに空けたペラ穴



    2019-7-11




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2019年07月07日

野崎家旧宅・児島


 岡山県倉敷市児島にある野崎家旧宅・旧野崎家住宅を見てきました。 児島市がいつのまにか合併して倉敷市になっている。 児島は瀬戸大橋の本土側ですが、架橋熱のほとぼりも覚めたので、今では児島ボ−ト位しか認知されていませんのでしょうか? ここをさほど期待していなかったのですが、500円の入場料以上のものがあります。近くに行った方は是非ご覧になるのをオススメいたします。

 児島半島(かっては名のとうり島であった)の南側を中心とした広大な塩田開発を野崎武佐衛門が行い塩田王となり大きな資産を築いた。瀬戸内の塩田はどこもそうだが、おもかげはない。ここ跡地を埋め立てて広大な敷地が生じたせいか、今は広々としたJR児島駅になったり、ス−パ−マ−ケットが量販店やたらと多く、さぞかし激戦区になっていることでしょう。

 明治になり納税額の多さによ貴族院の議員に選ばれている。 その彼が3000坪に及ぶ敷地に長屋門や蔵、枯山水庭園、茶室、42mの奥行のある居宅などがみられます。 台所も、浴室、便所なども当時のままに残っております。 また調度品や豪華な漆器など貴重なものも見られます。


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  野崎武佐衛門 1789-1864



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  国指定重要文化財 



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  豪華な調度品



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 庭  珍しい石がある 


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 茶室 


  2019-7-7



 
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2019年07月05日

スタンチュ−ブ交換


 2019年春のクル−ズを終え、新ホ−ムポ−トへ入った後で、ビルジの点検をしてみるとバケツ2杯で多い。 前日の弓削で冷却水ポンプを交換したばかりです。 そこからの水漏れはなし。 スタンチュ−ブからの水漏れであった。 新しい係留地・岡山に来たばかりなので、修理するところののアテはない。 近くにマリ−ナがあったので、そこで聞いてみると、ここでは修理作業はしていないとのこと。 そのマリ−ナで紹介されたヤンマ−の代理店に行く、状況を見てもらえることになった。 しかし、様子を見た後で、スタンチュ−ブの修理はできないと断られる。どうも、その業者はヨットは得意でないらしい。

 地元のヨットマンの紹介で神戸の業者に修理をしてもらうことになる。 ヤマハ31フェスタのスタンチュ−ブの資料を前のオ−ナ−からは受け取っていない。製品名も分からず。 その部品はヤマハには無いようなので、新しい他社の製品を取付ることになった。 シャフト径とスタンチュ−ブ径が部品注文には必要でした、25mmと2インチと判明して、注文することになる。あいにく土日で今回も冷却水ポンプ交換の時と同じく日数を要した。

 作業はヨットの常で狭いところに頭を突っ込んでの作業。 ハンマ−を振るのにもスペ−スが狭く大変のようだった。小生は見ているだけでしたが。とても根気のいる作業です。それでも、朝から始めて4時ごろには修理を終えて、マリ−ナから係留地に戻ることができました。 費用は部品6万,作業代10万を要し年金ヨットマンには大きな負担であった。



 作業手順

1. 旧シャフトシ−ルを取り外す

2. プロベラシャフトとエンジンとの接合をはずす

3. 旧をシャフトから抜き, 新をスタンチュ−ブに取りつける。

4. 新をシャフトへ通して、シャフトをエンジンに接合する。

 旧シャフトシ−ルを外すことと、プロペラシャフトをエンジンから抜くことが大変だったようです。シャフトを抜いて30cmほどのスキ間がないと離脱取付ができない。 プロペラと舵は同一直線状に普通はあるので、その距離が短い時は、今回の工事はどうするのだろう。舵も抜かねばならないのであろうか?



 

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 交換前に使用していたもの 取り外す   製品名不明

 


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 スタンチュ−ブ 2インチ(約51.5mm)、  シャフト25mm



 

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 新シャフトシ−ルを取り付けて、これよりシャフトをエンジンに取りつける





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  新しいPSSシャフトシ−ル( 02-25M-200)


 

 製品説明サイト

 http://www.samtech-japan.com/product/item03.html



   2019-7-5



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2019年07月03日

延岡城


 JR延岡駅は素敵な図書館が付属したモダンな駅舎があります。あとで備中松山城を訪ねたときにJR高梁駅も同じ作りであったので、改装パタ−ンのひとつかと気が付きましたが。 そこからバスで10分くらいで延岡城へ到着します。

 延岡城は五ヶ瀬川と大瀬川の合流地点にある城です。1601年に高橋元種によって築かれた。本丸には3層の天守があったが1683年に焼けて現存しない。天守台跡に鐘付き堂があり、決まった時刻に鳴らすことから、市民に親しまれている。そのことをテレビで見て知っていた。

 高橋元種は秋月種実の次男として生まれ、高橋鐘種の養子となる。秀吉の九州征伐で降伏して、延岡に53000石を与えられ、延岡城・縣城を築城した。 関ケ原では大垣城に籠城し西軍が敗れると内応して、家康に所領を安堵された。1613年改易となる。その後は有馬氏、三浦氏、牧野氏と続き、内藤氏で維新を迎える。

 高橋家  高橋元種1587-1613 | 改易

 有馬家  有馬直純1614-1641 | 有馬康純1641-1679 | 有馬清純1679-1692 | 越後糸魚川藩に転封

 三浦家  三浦明敬1692-1712 | 三河刈谷藩に転封

 牧野家 牧野成央1712-1719 | 牧野貞通1719-1747 | 常陸笠間藩に転封

 内藤家  内藤政樹1747-1756 | 内藤政陽1756-1770 | 内藤政脩1770-1790 | 内藤政韶1790-1802 | 内藤政和1802-1806 | 内藤政順  1806-1834 | 内藤政義1834-1862 | 内藤政挙1862-1871 | 廃藩置県

 西南戦争の時には内藤家旧藩士は西郷軍に加わった。熊本で敗れたので本営を延岡に移す。延岡付近で激戦が行われたが、延岡の街は良き交渉により戦火をのがれたという。



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 延岡城と城下町図


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  千人殺しの石垣  ひとつを外すと崩れるという


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 天守台にある 鐘とその管理人の家


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  北大手門

 
   2019-7-3




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2019年07月01日

臼杵城・丹生島城

 
 ヨットで臼杵に入ったので海岸方面から城に入った。 案内が不十分で天守跡も最初は分からず、反対側の大手から戻って天守跡にたどりついたほどです。 あとで公務員風の通行人に家内が苦情を述べたが、人違いでとんだご迷惑をおかけした。その彼は市に申しておきますと良い対応をしてくれたのだが。 大手方面から見学をすれば印象が違ったのかもしれない。 城下町の雰囲気を残した地域もあります。

 大友宗麟が1556年に府内の館・大分から臼杵丹生島城へ居を移した。 キリシタン大名として栄え多くのキリスト教施設があったというが、往時の面影は見あたりませんでした。 三浦按針がめざしたのもここで半ば漂着みたいに、臼杵湾の一角の黒島に上陸した。今回はそこへは訪ねることはできなかった。

 大友氏は九州探題と云われるほど6か国を支配する大国であった。しかし朝鮮の役で敵前逃亡の罪により、秀吉に改易され滅んだ。

 稲葉貞道が5万石で入国した、幕末まで外様として続く。 稲葉氏は美濃で斎藤氏仕え、信長、秀吉に従う。関ヶ原では当初西軍に属し犬山城を守備する。その後に東軍へ寝返る。

 城は丹生島に築かれたので4方を海に囲まれた要害であった。現在は埋め立てられている。大友氏の時に島津から攻められてポルトガルから輸入したフランキ砲を利用して撃退した。本丸に配備されていたという。レプリカが城跡にある。

 


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 三浦按針が上陸した黒島



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  本丸付近図


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  大手付近


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 卯寅口門脇櫓


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  島津軍を追い返したフランキ砲


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武家屋敷


   2019-7-1


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2019年06月30日

こだま キテイちゃん列車


 新しい係留地の事前視察のために、広島から岡山へ行く、たまたま、ホ−ムにピンク色の列車が入線してきた。 新大阪−博多間を運航しているJR西日本のハロ−キテイ号であった。 岡山に行くのにはちょうど都合がよいので乗車してみた。 「のぞみ」なら一駅でいけるのだが、安くて急ぐ旅でもなし。

 外装はリボンをモチ−フにデザインされている。1号車はハロ−プラザとしてギッズを売るスペ−スもあり。2号車はおしゃれにかわいくキテイを飾り付けた内装です。子供連れの家族で乗るなら最高です。

 見かけたところ、日本人より外人ツ−リストが多い。 キテイは世界的なブランドになっているようだ。

   運航スケジュ−ル 

新幹線 こだま730号 博多 6・42発−−−新大阪 11・13着

   こだま741号 新大阪 11・29発−−−博多 15・38着

 特別な切符は無く、2号車は自由席で乗車できる。


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 ハロ−キテイ号 


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 キテイちゃんの車内インテリア


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 専用グッズを販売している車両 その1 

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  1両目すべてを使用       その2



   2019-6-30


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2019年06月29日

冷却水ポンプ交換



  弓削海の駅に着いて、ビルジを抜きだすと、くめどもくめどもバケツにビルジが溜まります、なんと20杯にもなりました。前日の大三島宮浦海の駅では2杯です。いつもエンジンを止めるとビルジを汲みだしているのだが、それは1杯程度ですので、大三島でも少し多いなとは思っておりました。 5時間艇程機走して弓削に着いた割には多すぎです。 エンジンボックスを上げて点検して見ますと、冷却水ポンプのエンジンに向かう接手からポタポタと海水が漏れていました。 ここだと思いビニ−ルホ−スを外してつないで止め金具を締めましたが状況は変わらず。普通はインペラの破損を疑うのですが、インペラの蓋ボルトには水漏れの気配がありません。
 他の係留しているヨットマンに尋ねると、それはアッセンブリ−の一体交換でないかとアドバイス。 的確な助言で、インペラの交換など無駄なことをしないですみました。 彼はボ−トショ−でエンジン保守の講義をしたことのある経験豊富なベテランヨットマンでした。 クル−ジングをしているヨットマンは、60代でキャリア10年以上のベテランが多く、小生の劣化したキャリアとは違いなんでもできる人が多い。

 ここ弓削には珍しくヤンマ−を取り扱う業者がいません。隣の因島にあるマリ−ナで2GMの冷却水ポンプを取り寄せてもらうことになる。その日は金曜日でしたが、あいにくヤンマ−の研修日にあたり休日、月曜日の部品発注になりました。火曜日の昼にはそれが着いて、因島マリ−ナまでとりに行く。往きは連絡船を土生(はぶ)で乗り継いで3時間。帰りはバスで土生へ、今治行の連絡船で弓削に到着、しめて5時間ほど要した。待ち時間が長いので時間がかかります。マリ−ナの人もどうやって来たのだと云われました。 

 交換作業は短時間で終わりました。ビニ−ルホ−スとのつなぎには金具で締めるのみでOK、シ−リング材も必要なしです。 

 旧ポンプは予備にしてとのアドバイスでしたが、児島のヤンマ−に出しましたが、費用が新品が4万8千円なのに、4万ほどかかるということなので、それを断念しています。 冷却水ポンプの本体にはドレンの穴があり、ベアリングやシ−ルの破損でそこから大量の水漏れが生じることがあり、今回の故障の原因です。 冷却水ポンプからの水漏れに注意しなければならないと学ぶ。 それを取り外してみてびっくり、ベルトが首の皮1枚で繋がっていました。すぐにも切断したでしょう。さっそく交換する。ベルトの締め具合もきつく締めすぎないとアドヴァイスがありました。本体のベアリングに負担がかかるからです。ヤンマ−のインペラも他社と違い1−2年では壊れないとのことです。


 

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 新旧の冷却水ポンプ



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 切れかかったベルト

   2019-6-29


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2019年06月27日

佐伯城(さいきじょう)


 佐伯・大入島海の駅へヨットで行き、そこからマリンバス200円で佐伯に着く。 佐伯城を訪ねる。 徒歩30分くらい、JR佐伯駅からは徒歩20分程度で行ける。甍には武家屋敷の雰囲気の残る通りを歩いて登城口・登山口に至る。帰りはタクシ−を利用した。

 天守や櫓、塀は余り残ってはいないけれど、石垣は多く残っているのでお城の雰囲気は大いに感じられてよい。再建したら面白そうである。

 毛利(森)高政が一六〇六年に城を完成させた。2万石の外様であるけれど、城の規模は石高から想定されるより大きく感じた。山上の本丸と2の丸は焼失し、甍に3の丸を増設してそこに居館をつくり藩の運営をした。 高政の親は信長に仕え、高政は秀吉の近習として仕える。秀吉の光秀討伐の大返しの際には、兄弟で毛利に人質になった。その際に毛利輝元に気に入られて毛利姓をもらう。関ケ原では最初は西軍に属したが東軍に投降した。1601年に佐伯2万石に転封になり佐伯城をつくる。



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 佐伯城 案内図


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 三層の天守があったが一六一七年焼失した


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 本丸へ登山口



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 3の丸櫓門

 

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 本丸入り口

 

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  2の丸 




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 本丸から望む


  2019-6-27


大分・佐伯城跡から4層階段状石垣 専門家「特異な構造」
毎日新聞 2019/07/04 10:36



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コピーライトマーク 毎日新聞 本丸の外曲輪下で見つかった階段状の石垣=大分県佐伯市の佐伯城跡で2019年7月2日、衛藤親撮影


 大分県佐伯市の佐伯城跡から4層の階段状をした石垣が見つかった。佐伯市教育委員会によると、18世紀前半に大雨のために崩落した斜面を補修した際に築かれたもので、自然石を使う穴太(あのう)積みの技と、堤防などの石組みに似た技術が合わさった特異な構造という。専門家は全国的にみてもきわめて珍しいと指摘する。【衛藤親】
 石垣は、本丸下の外曲輪北側斜面で見つかった。土や雑草を取り除いたところ、高さ13メートル、幅約30メートルにわたる大規模な石垣が現れた。石垣を補強する際に築く縢巾(はばき)石垣が4層の階段状になっている。また、各段の上は水平ではなく斜めにせり上がっていて石で覆われている。石垣の隅が斜面の地形に沿うようにカーブを描いているのも特徴だ。
 市教委によると、1734年(享保19年)の「御城修理絵図」に、大雨で外曲輪東側の塀や石垣、斜面が大きく崩れたと記載されている。今回4層の石垣が見つかった場所と一致するため、独特な石垣は復旧のために築かれたとみられる。
 城郭に詳しい佐賀大学の宮武正登教授は「縢巾石垣が4層にもなっている例は全国にない。保存状態も良く、極めて貴重だ。河川の堤防など治水事業に使われる技を城郭の補強工事に取り入れたと考えられ、これも例がない。高度な技術で本丸を守るために工夫されたのだろう」と語る。
 佐伯城は1601年に佐伯藩に封じられた毛利高政によって1606年、八幡山(現在の城山)に築かれた山城で、「鶴屋城」と呼ばれた。








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