2018年11月01日

関門海峡と進路警戒船


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 初代「速魚」による通峡

 40年前に初めて関門海峡を通ってから4回目になります。しっかりと潮汐表を準備しての通峡でしたが、サイトで調べられる時代になったので、表なしで今回は通航しました。

 新門司マリ−ナを出て2時間余りで門司埼・関門大橋の近くに着きます。 そこでエンジンの音が変わったので潮に当たったのだと思いました。速度も1ノット落ちて4ノットになる。その後に池島で潜ってその原因がロ−プのスクリュ−への巻き込みだと、2週間も過ぎて判明します。余りスキルのあるヨットマンではないとバレてしまいました。

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 その時に門司埼の方向から真向かいの行き会い状況に作業艇らしきものと衝突の恐れが生じました。法令に従い舵を右に切り避航動作をとる。 相手船はそのまま接近してきて、左に寄るようスピカ−で怒鳴るように
指示される。その船は巨大船の関門海峡通航にまつわる進路警戒船であった。 彼の意図は、海峡の最も狭くて潮流の速い門司埼でのこちらのヨットと巨大船の接近を避けようとするものであったのでしょう。 指示どうり左に針路を向けて、こちらの意図しない門司埼にごく近くを通航するハメになりました。こんなに近くても門司埼を航行できるものだと思いましたが。

 警戒船が自分の意図どうりにしようと思うなら、真向かいの航法が適用されるこちらへの接近は避けるべきでしょう。ヨットに左へ舵をきらせて、右舷対右舷での通航をさせたいのでしたら、ヨットへは警戒船の右舷を見せてヨットに接近すべきである。なぜなら真向かいの航法では互いに右に舵をきるからです。

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 この警戒船ではないが、進路警戒船には赤の吹き流しを揚げているようである。

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 関門海峡 通常は右側航行であるが、100トン未満の船は門司埼に近寄って航行できる特例

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 真向かいの航法

 元船乗りで巨大船に乗ったこともあるので、舵効きが遅くサイズの大きい本船では瀬戸内海などでは、本当に進路警戒船はありがたいと実感したことがある身の上ですが、今度は指示をうける小型船に乗ってみると、適切な行動をとってもらいたいと思うものです。

  帰りにも再度逆から通峡しましたが、ブイ近くを航行していました、後ろから追い越される船にブイの岸よりの浅いところへ追い込まれそうになりヒヤ汗を掻くことになる。 峡水路の通航の際には潮止まりの時刻を狙うことが多いのですが、関門では連れの追い潮4ノットでも行けるようです。

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 下関からみた関門大橋

   2018-11-1


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2018年10月05日

長崎と五島結ぶ定期船が突然運休



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長崎市と上五島(鯛ノ浦港)、佐世保市と上五島(有川港)、佐世保市と下五島(福江港)、長崎市と天草市(崎津漁港)の4航路でフェリーや高速船を運行

 朝日新聞デジタルによる記事
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181002-00000069-asahi-soci


 今年の初夏に上五島島の有川港で1週間程ヨット停泊滞在したことがあり、そこから世界遺産になった教会を訪ねました。

 今回報道の船会社のフェリ−や高速船にはヨットで訪れたこともあり利用しませんでした。 しかしその会社の企画ツア−で旧五輪教会や江上天主堂を訪れるものに参加しました。半日で1万円弱の費用で有川からタクシ-に乗り、途中で海上タクシ−で辺鄙な島々の孤立したような世界遺産の教会を見るツア−です。 ヨットでそこを訪れるのには日程・気象の都合があり断念した小生にはありがたい企画でした。困ったことは福江が終点でヨットのある有川へ帰ることでした。 フェリ−とタクシ−で帰るはめになり金銭的にも時間的にもつらいものになりました。


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 ツア−利用の海上タクシ-  若松島着岸


 五島列島に行って知ったことですが、それぞれの島には九州への航路とそのスケジュ−ルが思ったより充実していたことでした。おまけに島民には5割引きの運賃が適用され恩恵にあずかれます。 島内バスは料金が高いけれど多くの路線があります。これは自動車社会なので少ない利用のようです。部外者のヨット乗りには利用せざるおえませんでしたが。


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 有川旅客船岸壁より見た 我がヨット


 有川よりレンタルバイクで鯛の浦へ行きました。そこには予想外でしたが長崎行の高速船がありました。 今回運休した航路ですが、有川より自転車で15分程で行ける距離です。地理的には長崎への好立地ではあるけれど、そこの住民は少なく、採算的には厳しいものではと思われました。 この船は町からの無償貸与ということです。


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 鯛の浦−長崎 カタマラン高速船乗り場


 これから世界遺産でのにぎわいが予想されますが、それも数年のことかもしれません。今回訪れた宗像大島の中津宮も数年まえに登録されましたが、そこへ訪ねたときには観光客と思われる人はいませんでした。

 上五島島の奈良尾から長崎へのフェリ−と高速船もあります。 それらを想定して航路の再編がなされなければなりません。 部外者のおせっかいですが。

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 宗像大島 中津宮



   2018-10-5






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2018年10月03日

上関 その2 長島


 テレビで大阪の拘置所より脱走した男が上関の陸の駅で万引きする場面が放映されました。 自転車旅行・日本一周を掲げていたようです。

 ここで「上関 その1 室津」が見られますが、今回の九州クル−ズでも上関に2度立ち寄りお世話になりました。 その続編となります。

 室津の防長バスの停留所から終点まで乗る。 しかしそこは何もないところで、来た道を徒歩で戻りながら番所跡を捜した。なんのことはない橋を渡ってすぐの場所であった。
室津から徒歩でも行くことができる。昔の上関の面影を期待しましたが、瀬戸内の漁師町のひとつであった。

 上関大橋で繋がらない昔は長島が上関の中心です。 長州藩の三関、上関・中関・下関の一つで海の重要な拠点であった。上関番所やお茶屋で朝鮮通信使を迎えた。

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 旧上関番所(県指定文化財) 海岸沿いにあったものが移築された


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 お茶屋跡  


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 朝鮮通信使来航図  往時の上関がうかがえる


 ここは海の要地であることから村上水軍の能島水軍の上関城があり、そこへは訪ねることができませんでした。公園となっているようです。

 ヨットの停泊地としては長島地区はスペ−スも狭く、室津地区のほうがふさわしいでしょう。


   2018-10-3
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2018年09月24日

長崎出島ワ−フ海の駅


 長崎のヨット泊地には出島ワ−フマリ−ナがある。 そこは町の中心にあり観光に出かけるのには便利です。1泊5000円近い係留費です。この料金は電気代と水道代を含む。

係留ポンツ−ンの目と鼻の先に咸臨丸のような外輪船の姿をした港内クル−ズ船が見える。その隣は大型商業施設の「ゆめタウン」です。
 下記地図にお風呂屋「日栄湯」と「コインランドリ−」を印し。 ここで小生が興味を持って訪ねた場所も表示しました。
 銭湯については長崎駅から送迎バスのあるス−パ−銭湯もあり。観光案内所で時刻表がもらうことができます。

 出島ワ−フは戦前には中国との玄関で往来する客船のワ−フ・船着き場であった。現在はレストランが立ち並びヨットを眺めながら食事をとるオシャレなパッセ−ジとなっています。


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 「ゆめタウン」と外輪船

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 出島ワ−フ地図

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 入り口にある女神大橋 ここを抜けて1時間ほどでマリ−ナへ

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 大型客船が係留


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 三菱造船所で修理中の自衛艦  かって戦艦「武蔵」も建造される



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 出島オランダ商館跡 入り口


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 オランダ商館を望む


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 マリ−ナから見た夜景


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 外輪船の夜景


    2018-9-24



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2018年09月22日

宗像大島


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 沖ノ島と関連遺産群は世界遺産になっています。 ヨットで沖ノ島へ行った猛者もいるようですが、そこへ上陸する許可は普通ではおりないようです。天気の良い日に接近することは出来ると思います、そこへは対馬へ行く途中のプランとなるでしょう。

 関門海峡を抜けて福岡に向かうには大島は良い中継地になる。 「うみんぐ大島・海の駅」もあります。31fで4000円の係留代は高いようにも思えますけれど、そこで他の係留場所をさがすのも大変です。艇長の判断になりますね。「うみんぐ」では電気はとれます。 買い物は農協で可能ですが、品数も少なく弁当も無かったので、無理と思い事前に用意しておいた方が良いでしょう。

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 うみんぐ大島海の駅 桟橋


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 フェリ-乗り場  宗像市神湊−大島

 この島では宗像神社中津宮と沖津宮遙拝所が世界遺産になっています。中津宮には行きましたが、静かなもので他の参詣者はおりませんでした。


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 宗像神社 中津宮


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 宗像三女神の次女神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る神社


 散歩がてらに買い物できる場所をさがしていると、夢の小夜島を見つけました。
連歌に歌われた島で恋人たちに何かありそう。
 
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 夢の小夜島  干潮時に陸と続がる


 道を尋ねた子供たちが農協まで私達を連れて行ってくれました。途中で「休みますか?」と、こちら・爺婆へ気を使ったお声がけ。自転車に乗ったばかりなのか左右に揺れながらも先導をして案内する。春前には幼稚園生だったに違いない子どもたちであるのに、やさしい気の使いよう! さすが神の島の子供です。 この島に訪ねて良かったと思えました。

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 神の子たち


   2018-9-22



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2018年09月09日

長府の街と藩・人


 今度の九州クル−ズで住んでみたいなと思った街は、先に書いた平戸とこの長府の街です。下関は既知であっても長府はボイラーの名でしか知りませんでした。功山寺を訪ねるのに訪れましたが、落ち着いた街並みには魅力を感じます。

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 長府地図  下関駅からバス23分

 長府藩は、1600年・関ケ原の役後に、毛利秀元が長府5万石に入府した。 現在は、高杉晋作の功山寺挙兵・回天義挙により「明治維新発祥の地」となったと街の入り口に記念碑を掲げている。 長府藩は長州藩の支藩であり、長府藩の支藩に清末藩・1万石がある。 維新後に豊浦藩,豊浦県を経て山口県に編入された。下関市の一部となっている。

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 維新発祥の地記念碑

 成人するまで名古屋に育った小生であるが、尾張藩の支藩に高須藩があるとは最近まで知りませんでした。支藩の大事な使命の一つは親藩の血が絶えた時に養子を出すことで、高須藩も長府藩も何人も差し出しています。

 坂本龍馬の護衛に三吉慎蔵が活躍しますが、彼は長州藩ではなく長府藩の侍であった。彼の墓は功山寺にある。

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 功山寺

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 忌宮神社


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 長府の町並み 写真3枚


 藩校「敬業館」の他に長府藩の松下村塾というべき藩校「集童場」があった。集童場は15歳以下の少年で、身分の別なく人材を育成しようとした。福田扇馬が自宅で開いていた私塾・「桜柳亭」を母体に熊野則之が福田扇馬や福原和勝らとともに創設した。そこでは乃木神希典などを輩出した。

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 集童場設立の地


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 私塾 「桜柳亭」跡 福田扇馬による設立



 主な長府藩の人物


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三吉慎蔵 1831-1901 小坂家の次男として誕生、三吉家の養子となる。 印藤聿の紹介で龍馬を知る。長府藩報国隊軍監になり第2次長州征討に活躍する。宮内省御用掛として北白川家の家令となる。

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 三吉周亮(みよしかねすけ)1842-1903 家老三吉家に誕生、5卿を功山寺にかくまう。功山寺挙兵で切腹を命ぜられるが、加藤司書のとりなしで中止、龍馬の理解者、維新後県参事・権令を歴任。

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 熊野直介 1847-1868 熊野家長男として誕生、福田扇馬と集童場を開き場長、報国隊参謀、龍馬と知り合い、小倉口に戦い北越戦争長岡軍の逆襲により戦死。 

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 印藤聿(いんどうのぼる)1831-1911 下村家の3男として誕生、印藤家の養子となる、報国隊軍監、龍馬と藩とのパイプ役、
維新後は製塩業を営み、衆議院議員となる。

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 乃木希典 1849-18   乃木家3男として誕生、報国隊で小倉口に戦う、西南の役歩兵連隊長、旅団長、台湾総督、第3軍司令、
 妻と殉死。

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右・福原和勝、左・山県有朋
福原和勝 1846-1877 村上家の3男として誕生、福原家に養子、報国隊結成を願い出る、初代軍監、小倉口で戦う、戊申戦争参戦、明治2年英国留学、陸軍教導団司令長官心得、西南戦争に別働第3旅団参謀、熊本で戦死。

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 福田扇馬 1846-1892 私塾「桜柳亭」を設立、龍馬の協力で若者を長崎に率いて英語を学ぶ。

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 瀧川辨三 たきがわべんぞう 1851-1925 集童場に入学、報国隊、北越戦争や会津戦争に参戦、マッチ製造会社を興し日本のマッチ王と呼ばれる。

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 服部潜蔵 1850-1886 江本家の次男として誕生、服部家の養子となる、集童場に学び、1867年第2次長州留学生として英国へ。
テムズ航海学校に入学、英国海軍見習士官となる。同郷の福原和勝が英国に留学しており英国から引き抜かれて官費留学生となる。岩倉使節団の渡英中の伊藤博文の説得により帰国、海軍に勤め海軍大佐。

  2018-9-9

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2018年09月04日

高杉晋作の終焉の地・下関を訪ねる


 ヨットで新門司に泊まり、玄界灘に東風が強く、3泊の待ちになる。そこで下関を訪ねました。

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 高杉晋作 1839-1867

 ここでは、すでに功山寺挙兵のこと、また、その地を訪ねたことを述べています。

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 功山寺にある高杉晋作像


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 下関駅より 高杉晋作関連地図

 JR下関駅から徒歩3分位で白石正一郎宅(中国電力ビル)に行ける。そこは奇兵隊結成の地でもある。残念ながら碑のみである。



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 奇兵隊結成の地  白石正一郎宅跡

 そこから徒歩5分位で高杉晋作終焉の地へ向かう。これも小さな公園に碑があるのみである。

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 高杉晋作の終焉の地

 今までほぼ駅より北に向かって歩いてきたのだが、続いて山陽本線に沿う形で厳島神社に出る。 ここにはかって小倉城内にあったが第2次長州征討での小倉口の戦いの戦利品として晋作が持ち帰り奉納した太鼓が鐘楼にある。


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 厳島神社の鐘楼


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 萩藩新地会所跡碑 左に晋作療養地220mの案内板


 この神社の脇に萩藩新地御用所跡の木碑がある。すぐ横の細道を歩き山陽本線のガ−ドを抜けて数分で高杉晋作療養の地跡に行ける。ごく普通の民家の塀にその碑があるので、気が付くのに遅れるかもしれません。 ここで芸妓を見受けした「おうの」や野村望東尼に晋作は看病された。正室「雅子」も訪れたという。


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 高杉晋作療養の地碑


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 長州砲(80斤カノン砲)レプリカ、壇ノ浦砲台



 晋作の墓は東行庵(下関市吉田町1184)にあり長府の先になり、今回は訪れておりません。

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  高杉晋作の墓

 「おうの」は死後に出家して東行庵で弔ったという。彼女の墓もここにある。

    2018-9-4


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2018年08月31日

幕末・明治の殉教 「浦上四番崩れ」


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 幕末・明治キリシタン殉教地図、 頭が島,鯛の浦、久賀島牢屋の窄殉教会


 ヨットで上五島を訪ねた時に、明治になってからのキリスト教徒の弾圧の跡を目にし、その事実を聞き及んだ。 帰航して調べてみると、明治6年にやっと解禁になったのであった。

 明治政府は明治元年・1868年5月17日に大阪で御前会議を開き、幕府の禁教政策を受け継ぎ「キリスト教徒の流罪」を決定した。信徒は流刑先で棄教を迫り江戸時代と同様以上の厳しい拷問をした。

 明治元年、世界遺産の「頭ヶ島」教会のある地では、訪ねてみると極めて少数の人が住む地である、そこで戸主十数人が逮捕拷問されたという。 

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 頭が島教会 世界遺産

「久賀島」では世界遺産の「旧五輪教会」を訪れたのですが、その島では同年に、6坪の信徒囚獄に200名の信徒が収監された(畳1枚で17人)。棄教させるために拷問が行われ劣悪な環境により8か月余りで42人の殉教者をだした。アウシュビッツにある収容施設より狭いところに押し込められて、座ることも出来ずに、人の圧力で皆が持ち上がる状態で、垂れ流しのありさまであった。現在その地に「牢屋の窄殉教記念教会」がある。

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 旧五輪教会  世界遺産・重要文化財


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 牢屋の窄殉教記念教会(ろうやのさこじゅん)

明治3年には中通島・鯛の浦教会近く「鷹の巣」では池川郷士による信徒6人の斬殺事件が起こる。 その地は有川から鯛の浦教会へ行く手前にあった。

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 旧鯛の浦教会


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 鷹の巣(鯛の浦) キリシタン受難の碑 信徒六人が斬殺された

 「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。


 幕末・明治のキリシタン年表

1840(天保11) 浦上のキリシタン5人発覚。
1853(嘉永6) ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
1856(安政3) 浦上キリシタン80人発覚。
1858(安政5) 日米修好通商条約締結。
1865(慶応1) 大浦天主堂竣工。プチジャン神父と浦上の潜伏キリシタンが出会う(信徒発見)。
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 大浦天主堂・創建時
外海、出津海岸にプチジャン神父ら上陸し、潜伏キリシタンと出会いキリスト教復活。
1866(慶応2)
五島列島に74のキリシタン集落があった。長崎港外伊王島のキリシタン長崎から帰島する。帰島しなかった吉富卯太郎外12人、和歌山、松山、伊勢、岡山に配流。
1867(慶応3)
 今村地区の潜伏キリシタン、浦上の信徒深堀徳三郎らと交流。当時今村地区のキリシタン500人、今村近隣のキリシタン868人。 今村の弥吉、大浦天主堂に行き、教理を学び受洗。後今村の9人長崎で受洗。キリスト教復活。 五島、水の浦の帳方久三郎、長崎に行き、クーザン神父と会う。
1868(明治1)
5/17 「五榜の掲示」の第3条で再びキリスト教の禁止が確認される、御前会議で 信徒の流罪が決定、 以後明治3年まで信徒は捕縛され流罪となった。流刑先で旧幕以上の苛酷な拷問・私刑が行われた。(浦上4番崩れといい明治6年まで続く)

五島、水の浦のキリシタン農民32人投獄。 五島、久賀島のキリシタン農民200人逮捕。うち42人牢死。 伊王島のキリシタン21名佐賀に護送され入牢。五島、頭カ島の住民が十数人の戸主が全員逮捕され拷問。ド・ロ神父長崎に上陸。
1869(明治2)
浦上のキリシタン3400人余全国年各地に配流。
1870(明治3)
1/27 五島、鯛の浦の鷹の巣キリシタン6人惨殺される。
1871(明治4)
戸籍法改正。 宗門人別改を廃止。馬渡島のキリシタン宣教師と接触。トーマス勘兵衛受洗。
1873(明治6)
 切支丹宗禁制の高札撤去。 長崎、神ノ島の漁師、海路天草下島の大江に上陸、 キリスト教を説き、道田嘉吉外長崎にて受洗。キリスト教復活。 九州各地の切支丹宗禁制の高札撤去。 浦上キリシタン釈放される。(流罪3394名のうち662名死亡)

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 津和野に流されていた信徒の浦上天主堂での帰郷記念写真

 迂闊にも、これらの事実を五島に訪ねるまで知らなかった。私が浅学なだけでは無いと思うけれど、後世にはよく知られていない。 なぜ、幕府以上の苛酷な弾圧をしたのか分らない。その廃止も欧米に渡欧した新政府の要人が非難を浴びて、不平等条約の解消にためにならないと知った故であるという。廃仏毀釈も起こるので、尊皇は神道の精神であり、他を排する思想であった故なのでしょうか?


  2018-8-31




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2018年08月27日

福岡城

 豊前中津16万石に構えた中津城より関ケ原の戦功により筑前52万石に転封になり、黒田長政が福岡城を1607年に竣工した。 はじめは名取城に入城したが、手狭なためにそれを廃し福岡城を築城する。


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 CGによる本丸再現(類推)

 天守の存在は議論されているようだが、最初はそれを作り幕府に遠慮して天守を取り壊したようです。 天守跡の石垣は残っている。

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 天守台

 城遺跡はあちこち広大な敷地に点在していて、見学していても、まとまりを感じられずであった。確かに50万石にふさわしい規模の大きなお城であったと思います。 行政による復元計画があるようで、角櫓や塀ができると、その規模から立派なお城になる予感がします。 下調べに留意してオリジナルなものを復元していただきたいものです。


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 多聞櫓 城内より  内部非公開 


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 本丸表御門  崇福寺へ移築された


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 下之橋御門(右)  潮見櫓(左)


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 潮見櫓(伝)


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 旧母里太兵衛邸 長屋門  移築されたもの


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 祈念櫓  鬼門の位置に建てられ僧が詰めていたという


   2018-8-25



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2018年08月23日

門司港レトロ地区


 天候待ちでマリ−ナ停泊が3日目になります、マリ−ナからの市内までの交通が不便なので、タクシ−代が毎日6000円余りかかり合わせて高めのマリ−ナ代の支払いは、年金ヨットマンには痛いところです。

 今日はすでに下関と小倉へ行ってきましたので、門司港にあるレトロが売りの場所に来てみました。 今はJR門司港は終着駅になっており、関門トンネルができるまでは、本土から九州への始発駅でした。現在は門司駅から下関方面への直通運転又は乗り継ぎになっています。

 幕末の馬関・維新戦争の華やかしころには門司港はありませんでした。NHKの朝ドラ「あさが来た」の女主人公・あさが炭鉱を買い、その積み出しに門司港を開発したのだといいます。それまでは下関の方が圧倒的に発展していた。 明治22年に国の特別輸出港に指定されて以来急速に発展する。 昭和17年にトンネルが開通したことや大陸貿易が途絶えたこと、荷物のコンテナ化が進んだことで、港がさびれてレトロな建物が残ったのです。

 バナナの叩き売りはドラマの世界でしか見かけませんが発祥の地です。労務者が好んで飲む、酒屋で飲む角打ち商法が今でも繁盛しているといいます。

 観光案内所は駅近くの旧三井倶楽部にあります。そこで地図をもらえば、徒歩1時間ほどで見てまわることができます。

 ヨットマンにはありがたいことに旧JR九州本社ビルに海事広報展示室があり、関門海峡の通狭の相談ができます。潮流速や転流時など航法も教えてもらえます。

 残念なことはレトロなことが点在する建物に限られ、町の一体感が乏しいことです。さらに跳ね橋を抜けると良い泊地があるのだけれど、長崎の出島ワ−フのようにヨットが着けられれば、レトロな建物とヨットとの風景になり、より風情がでるのでは。 ヨットマンには町に近くて便利な潮待の泊地となるのではないかと思います。

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 門司港レトロ地図


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 門司港駅


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 関門海峡と大橋


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 旧門司三井倶楽部


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 旧大阪商船


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 旧門司税関


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 九州鉄道記念館


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 国際友好記念館


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 三宣楼


    2018-8-23


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2018年08月21日

龍馬の船 晩年龍馬年表付


 坂本龍馬が亀山社中・海援隊において所有・運航した船と他藩の船でも乗船した船をとりあげます。

  龍馬関連年表(旧暦)

文久2年・1863
     12/21 千葉重太郎、小笠原長行らと「順動丸」で兵庫着
     12/29  勝海舟と会う
文久4年・1864
      1/8  勝海舟と「翔鶴丸」で大阪着
     2/16  勝と「翔鶴丸」で佐賀関に入港、陸路長崎にむかう 
元治元年・1864
      2/23 龍馬は近藤長次郎、望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎らと長崎を初めて訪れる。
      4/4 神戸海軍操練所建設のため勝海舟と共に陸路兵庫にむけ出立。
    5月某日 京都でお龍に出会う。
      6/5 池田屋事件。望月亀弥太死亡
      6/7 「黒龍丸」に大阪で乗船
      6/17 「黒龍丸」で下田入港
      6/20 「翔鶴丸」で勝と大阪着
      7/19 禁門の変 
      7/23 第1次長州征討
      8/1  お龍と内祝言
      8/5 4国艦隊下関砲撃開始
     8月某日 勝の使者として西郷と面会
      11/10 勝海舟、軍艦奉行罷免される
    12月某日 薩摩は龍馬らを「船の手先」として雇い入れる
      12/16 高杉晋作の功山寺挙兵 
慶応元年・1865 
      3/12 神戸海軍操練所廃止
    4月某日 中岡慎太郎と薩長和解を策す
      4/12 幕府、第2次征長令を発す 
      4/22 西郷、小松帯刀に同行して「胡蝶丸」薩摩へ
      4/29 「胡蝶丸」 長崎寄港
      5/1  「胡蝶丸」鹿児島着
      5/16 長州への薩摩出兵拒否を伝えに行く、薩長同盟模索
     閏5/6 下関で薩長連合の件で桂小五郎と会見
     閏5/21 中岡慎太郎下関到着、西郷は下関に来ず、桂は憤激す。
     閏5/29 中岡と西郷説得のため京都へ
     6/29  西郷と会見、薩摩名義での軍艦・銃購入を許される
    7月頃  「亀山社中」設立 
     8/26  近藤長次郎の周旋によりグラバ−から銃を購入長州へ引き渡す
     9/26  兵庫で「胡蝶丸」乗船
     9/28  伊予青島寄港
     9/29  上関上陸
     10/7  下関の白石正一郎を訪問
     10/18 グラバ−から「ユニオン号」購入、「桜島丸」に改名
     11/24 長崎に向け大阪出発、 上関寄港 (11/26)
     12/3  下関着   
     12/14 長州と桜島条約を締結
慶応2年・1866
     1/1  長府藩士三吉慎蔵と出会う
     1/10  三吉と共に下関から兵庫に向かう 
     1/14  近藤長次郎自刃
     1/21  薩長同盟締結
     1/23  寺田屋事件で負傷
     2/5  薩長同盟の朱筆で裏書
     3/5  薩摩藩船「三邦丸」にお龍と乗船して薩摩へ
     3/8  長崎に寄港して近藤長次郎の墓参をする
     3/10 鹿児島到着
     4/12 亀山社中は「ワイルウエフ号」を薩摩の援助により購入
     5/1 桜島丸にえい航されてワイルウエフ号は長崎より鹿児島に出港
     5/2 ワイルウエフ号が座礁沈没
     5/28 勝海舟が軍艦奉行に再任
     6/1 お龍と「桜島丸」に乗船
    6月某日 「ワイルウエフ号」遭難地を訪れて弔い金を地元に渡す
     6/4 「桜島丸」が長崎到着、お龍を小曾根英四郎に預ける
     6/7 第2次長州征討
     6/14 下関到着、桂より小倉口参戦を依頼される。
     6/17 「桜島丸」(乙丑丸・ユニオン号)と長州軍船4隻で小倉渡海参戦
     6/20 高杉晋作と白石正一郎宅で面会
     7/20 徳川家茂が大阪で死去
     10/3 亀山社中、薩摩より月給として一人当たり3両2分を受け取る
     10/28 プロシア商人・チェルシ−から「太極丸」を購入
     12/4  小曾根英四郎宅に滞在
     12/5 慶喜15代将軍に就く
     12/7 山口で木戸準一郎に溝淵広之丞を紹介
     12/14 溝淵広之丞と共に下関到着
慶応3年・1867
     1/4 下関で伊藤助太夫宅に滞在  
     1/9 下関出港 長崎へ 船名不明
     1/11 長崎着
     1/12 長崎で後藤象二郎と会見、脱藩許される、
     2/10 龍馬とお龍が長崎より下関の伊藤助太夫宅に行く
     3/18 龍馬が御手洗で薩長芸土4藩の予備会談
     3/21 龍馬、新谷道太郎に会い下関に向かう
     3/22 下関着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
     4/8 伊予大洲藩蒸気船「いろは丸」 長崎到着
     4/14 高杉晋作死去
    4月上旬 「亀山社中」を改編して土佐藩付属の「海援隊」になる
     4/19 土佐商会に対して海援隊院へ一人当たり5両の月給を要求
         「いろは丸」長崎出港
     4/23 「いろは丸」紀州藩船「明光丸」と衝突沈没
     4/25 鞆の浦で「いろは丸」談判
     4/30 御手洗で鳥取藩士・川田佐久間と面会
     5/15 長崎で紀州藩と賠償交渉開始
     5/29 紀州藩より8万3000両の賠償金で決着    
     6/9 土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎やお龍と乗船、「船中八策」を作成
     6/11 兵庫入港
     6/22 「薩土盟約」締結、 龍馬と中岡陪席
     7/4  後藤象二郎が藩主に大政奉還を伝えるため土佐に向かうのを見送る
     7/6 長崎で「イカルス号」水夫殺害で海援隊に建議かかる
     8/1 薩摩船『三邦丸』(みくにまる)で大阪出港
     8/2 須崎で土佐藩船「夕顔丸」に乗り換える。
     8/12 「夕顔丸」長崎にむけ出港
     8/14  下関寄港
     8/15  長崎入港
     9/7  薩土盟約を解消
     9/10 イカルス号事件無実となる
     9/18 海援隊が芸州藩船「震天丸」長崎出港、土佐へ銃1000丁を渡す。
     9/20 下関で三吉慎蔵にお龍を預ける。
     9/22 「震天丸」で下関出港、お龍との最後になる。土佐へ向かう
     9/29  脱藩以来の初めての帰郷で最後ともなる
     10/5  土佐藩船「空蝉」で大阪に向けて土佐出港
     10/14  大政奉還が受理、討幕の密勅が発せられる
     11/1  福井で松平春嶽に会う、
     11/5  「新政府綱領八策」を草案
     11/7  御手洗で薩長芸土密約に龍馬立ち会う
     11/8  龍馬は御手洗を立つ
     11/15 近江屋で襲撃され龍馬死亡
     12/7  陸奥陽之助ら海援隊による天満屋事件起こる
     12/9  王政復古の大号令



 五島列島・中通島上五島町の有川にヨットで一週間ほど停泊しました。 フェリ−タ−ミナルのロビ−展示で大きな龍馬像がある。それを目にした時には、なぜ、ここに龍馬の像があるのか不思議であった。 あとで知ったのですが、亀山社中の船「ワイルウエフ号」が潮合岬(しおや)にて座礁沈没して社中の者が遭難死亡した。

 これには発見談があり司馬遼太郎「龍馬がいく」にこの遭難話が書かれており、興味を持った人が昭和43年の時代になり、探し求めて、ついに遭難者の墓を発見した。地元の人にも忘れられており、当時の俗謡を覚えている唯一の老人にもめぐりあったという。

「そど(騒動)よ、そど、 そど、 潮谷そどや、
 五月二日の明け六つに 異国の船とは知らねども
 どことも知れぬ、島見せぬ 島もだんだん見えるして
 かねの錨をつけこんで つけども錨がきかずして
 石に当たりて水船に 流れて行くのがどこなれば
 上口さしてぞ流れ行く 江ノ浜前にぞ 流れつく
 どなたも錦の対の衣装 こりゃ何事じゃと 村中が
 浜に騒ぎて大騒ぎ 国はいづことたずぬれば
 国は薩摩の鹿児島で 積荷は何ぞとたずぬれば
 大砲(おおづつ) 小砲(こづつ)つみまぜて
 かなきんなどを さしにして
 さぞやお世話じゃ 浦田さん」

  浦田さんは浦田運次郎は塩飽列島の佐柳島出身で咸臨丸渡米にも参加している船頭頭であった。

山下禎三郎 ワイルウエフ号遭難顛末記
 http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot15.html


 有川より世界遺産になる頭が島教会に行きました。定期バスで訪れたのですが、龍馬像をバスから写真を撮りました。 しかしその地の江の浜には降りることはなかった。今考えれば惜しいことをしたものです、なにせ1日3便しかないバス便であったので。初めはその地を観光便乗商法宣伝と思っていたのは浅慮でした。


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 潮合岬に立つ合掌した龍馬像
 

  龍馬の船


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1. 「ワイル・エフ号」 スク−ナ−159t プロシア建造 グラバ−から購入

 亀山社中の木造練習船であったワイル・ウエフ号が、長州から米を積んだ桜島丸(ユニオン号・近藤長次郎のあっせんによりグラバ-から購入)にえい航されて鹿児島に向かう途中、上五島中通島潮合埼沖で遭難した。社中の池内蔵田・黒木小太郎ら12人は死亡した。


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2. 「順動丸」 77m 405t 360馬力 外輪船  英国建造

3. 「翔鶴丸」 350t  外輪船  アメリカ建造 幕府船


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4. 「胡蝶丸」 薩摩から土佐藩船  外輪船  150馬力  旧フ−キン

5. 「黒龍丸」  越前藩が購入して幕府船に

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6. 「ユニオン号」 45m 300t、長州藩船  英国ロッテル−ヒ建造 1865年薩摩名義で長州購入 、薩摩名義「桜島丸」 長州名「乙丑丸」(いっちゅうまる)
6月17日 (旧暦) の小倉藩への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長となって実戦に加わった、大島口の戦いにも参加。


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7. 「夕顔丸」 65m 蒸気船 659t  土佐藩船 船中八策を起草
1963年に英国で建造、Shooeyleen号 英国商人オルチから購入

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 長崎にある 夕顔丸碑


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8. 「いろは丸」 160t 大洲藩 1866年英国バ−ミンガム建造アビソ号

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9. 「大極丸」  商人鳴海屋与三郎が買主、小曽根英四郎が保証人となって、プロセイン商人チョルチーより購入した洋帆船 遭難したワイルウエフ号と同規模の船。



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10. 「震天丸」 芸州藩船  薩摩より10万両借りて英国より購入、 薩芸同盟により長州と芸州の兵を御手洗から大阪に送る


11.「空蝉」 土佐藩船 146t 150馬力 蒸気船 建造場所不明 国産かも


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12.「三邦方丸」(みくにまる)  英国リクエブ−ルで製造、53m 410t 8万ドル購入、 西郷の遠島と帰還に利用された


   2018-8-21


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2018年08月19日

小曾根乾堂・英四郎を訪ねて


 小曾根乾堂宅跡と弟の小曾根英四郎墓を訪ねました。長崎出島ワ−フのヨットハーバーに停泊していたので、そこから徒歩10分位です。市電大波止ないし賑橋停留場より徒歩5分ほどにある。建物は残っていなくて法務局の一角に石碑が残っているのみです。 

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 そこには、なぜか龍馬の連れ合いのお龍さんの月琴の像がありました。 お龍さんは8か月小曾根邸に滞在した。その時に長女「きく」さんから月琴を習ったそうですが、短い期間であったので名手になったわけではないと思いますけれども。

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 お龍さんと月琴の像、 乾堂の長女キクが教えたという.

高知県芸西村教育委員会主催のイベントで月琴を奏でて、「面白き女と妙な男の夫婦物語」がおこなわれた。

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月琴での龍馬の手紙 高知県芸西村



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小曾根乾堂 1828-1885


 小曾根乾堂はレオナルドダヴィンチタイプの万能文化人で絵画、書画、篆刻(御璽・国璽)、陶芸(亀山焼)、音楽(月琴)、など業績を残している。 彼の墓地は晧台寺にある小曾根家墓地ではなく太平寺の墓地にあるという、今回は訪ねておりません。

 彼は次の言葉を残したといいます。冷静に維新を眺めて政府の高官になることは無かった。

「冷眼視世(れいがんしせ)」”冷めたまなこで世の中をみよ”

 
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小曾根英四郎 1840-1890

 勝海舟と弟の英四郎は海軍伝習所で同窓であった。元治元年・1864に龍馬と勝の紹介で会っている。英四郎は海援隊に入る。いろは丸の衝突事故の際には乗船していて紀州藩との交渉に活躍したといいます。龍馬が死んでからは世界の海援隊は夢と消え、明治になってから幕府が薩長土肥に代わっただけです。彼は不満を持って生活していて、酒色に溺れたといいます。妻は実家に帰り、孤独な晩年を過ごした。

 彼のお墓を見て来ました。 有名な眼鏡橋から山の報に登ったところに晧台寺(こうたいじ)があり、そこに墓地の所在の案内板があり英四郎の墓に行くことができる。小曽根家の墓地内に近藤長次郎の墓もある。

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晧台寺  


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 小曾根英四郎墓  


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近藤長次郎墓 右隣は小曾根英四郎墓

 近藤の墓は別にあったが良き保存のためにここへ移築された。墓碑名は龍馬の字だという。


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 幕末長崎関連地図

  龍馬の最後の4年年表 大竹仁一さんによる
  http://www.gajoen.jp/ryoma_den.html


  2018-8-19



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2018年08月17日

平野国臣



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 1828-1864

 
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 福岡市西公園にある像


 大河ドラマの「西郷どん」で僧月照と入水自殺するシ−ンがありました。西郷を助けた人をこのテレビドラマでは描かれていない。同行していた平野国臣によって救助・救命されたのです。
 
 平野国臣は足軽の2男として生まれる。小金丸の養子に行く。江戸で国学漢学を学ぶ。水戸の会沢正志斎に触れ尚古主義になる。それゆえに大刀をさげて古風な烏帽子・直垂姿で街を歩く、これを見て皆笑ったという、これには養家も迷惑し、彼は離縁された。

 宗像大島でお由羅騒動により薩摩から逃亡して保護されていた斉彬の側近・北条右門(村山下総)と親交を持つ。北条を通して西郷隆盛と知り合う。 安政の大獄から逃亡していた僧月照を彼は北条より依頼されて鹿児島まで同行する。 その際、月照・西郷入水事件で西郷を救命した。 安政の大獄がさらに吹き荒れたので備中に隠れる。 白石正一郎邸に移り、彼は薩摩・水戸浪人と井伊直弼暗殺計画を話し合う。 平野は藩主に大老が暗殺されれば混乱するのでその準備の建白書を提出した。 桜田門外の変が起こり、藩は驚愕して事前に知っていた国臣の捕縛を命じる。 村田新八・有馬新七らの手引きで彼は薩摩に逃げるが、久光に嫌われて薩摩から退去させられた。 その後に肥後や天草へ逃れる。 久光の上洛に合わせて有馬新七ら急進派と彼は京に上る。 寺田屋事件が起こり、有馬は死に国臣は捕縛される。福岡藩に引き渡され牢獄に入る。 長州が尊攘派公卿と朝廷を牛耳ると彼は釈放された。 8.18の政変で長州が京から退去させられる。 それで彼は生野の変を計画した。失敗して京で獄舎に入る。 禁門の変が起き京の大火災が獄舎に及び、未決であったが斬首された。


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辞世の句 「憂国十年 東走西駆 成敗天有 魂魄歸地」


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「大君に ささげあまりし 我いのち いまこそすつる 時は来にけり」

 野村望東尼が彼の死をいたんで祠を作り石に歌を刻んだ。乙丑の獄で彼女は遠島になりウヤムヤニなったが後に見つかり平尾山荘に小詞がある。

 彼は志士であり文化人で歌人でもあった。時により良い歌を残している。


 現在お騒がせのボクシングの会長・日大の総長みたいな夜郎自大なタイプになっていたのか、維新まで生存すれば、平野国臣はそのように見える誤解を受けたのかもしれません。しかし、禁門の変・蛤御門の変で死んだ久坂玄瑞のように平野国臣も惜しい人を亡くしたものです。その後に起こる乙丑の獄があるが、そこでは彼が生き残れたかは難しい問題ですね。

 今回は西公園にある像を見たのみであるが、福岡にはまだ平野神社や生誕地などのゆかりの地もあるようだ。機会があったら訪ねてみたい。


    2018-8-17


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2018年08月11日

伊藤助太夫・九三 1830-1872


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   中央は龍馬、右は伊藤助太夫、左は伊藤家使用人

 坂本龍馬は脱藩後に白石正一郎邸を目指したといわれている。ここで白石のことはとりあげています。下関にはもう一人の豪商の龍馬支援者がいました。 龍馬が書いた手紙で現存している数では、乙女姉さんへの手紙が多いその次は伊藤助太夫である。 

 不覚にも小生は彼についての知識が欠けていて、下関にある白石ゆかりの地は訪ねた、赤間神社・阿弥陀寺へも行ったが、すぐ近くというより彼の広大な邸宅の中にその神社があるほどであるのに、伊藤関連の地へは行っていません。

 彼は長府藩赤間関の大年寄である。本陣伊藤家の当主で、下関を代表する豪商です。龍馬とは慶応元年・1865にあって以来交友が深かった。彼が長府藩のお歴々と龍馬を繋げたという。
慶応3年・1867竜馬はお龍をつれて長崎より下関に来る。伊藤家の一室「自然堂」を借りて夫婦の部屋とした。妻のお龍さんはここで龍馬の死を三吉慎蔵から受けとった。
 慶応3年・1867 9月20日、龍馬は久しぶりに伊藤家に泊まった。後年伊藤の妻がその時のことを語った。
 「坂本さんは、普段は汚い風をしておって、顔つきも恐ろしい人だが、この間は顔もきれいに肥え、大変立派になっていらした。きっと死に花が咲いたのでしょう。間もなく(2か月弱)亡くなられた」

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  伊藤助太夫宅跡碑

  龍馬の最後の4年年表 大竹仁一さんによる
  http://www.gajoen.jp/ryoma_den.html




   2018-8-11


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2018年08月09日

大浦天主堂  国宝・世界遺産


 ここへは市電で大浦天主堂駅下車してすぐにある。 グラバ−邸も隣です。 前に行っているので、今回は訪れなっかった。

 元治2年・1865にフランス人の礼拝堂として建設される。1か月ほどして隠れキリシタンの信徒が密かに名乗り出る(信徒発見)。 見学者も多いので、教会の説明はちゃっかり、ツア−の案内者の解説を隣で聞いてください。 個人的には、ここが今度のクル−ズにおいて教会見学の最後となったのか、五島での汗して登った僻地の教会のような感銘と比べて薄いものであった気がしています。 今年に世界遺産に登録が決まった。ますます多くの人が押し寄せるでしょう。
 
 隣接して旧羅典神学校が見ることができる。中はキリシタン資料室として公開されています。

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 創建時の大浦天主堂

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明治8年・1875から明治12年に大改造 国宝指定


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 側面

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 内部



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 羅典神学校(左)

  今日は長崎原爆の日です。 ここは被害を受けずよく残ってくれました。合掌。




  2018-8-9



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2018年08月07日

壱岐 郷ノ浦フィシャリ−ナ


  福岡と呼子から、また長崎と平戸からの良い係留地です。 少々の時化と強風には安全に停泊できます。 

 連絡先 090-1979-2578 林田さん

 停泊費用もきわめて安価です。 ポンツ−ンは3個あり、中央をすすめられます。入り口近くは大型船を想定しているようです。

 オフロはフェリ−タ−ミナル近くのホテルが利用できる。 ス−パ−はあるけど奥まった感じで、近くにいても見つからず、地元の人に聞きました。

 コインランドリ−はバスで10分ほど、観光案内所の美人のスタッフが親切に教えてくれた、ス−パ−とホ−ムセンタ−と併設されている。


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 壱岐 フィシャリ−ナ ポンツ−ン3台あり


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  郷ノ浦  フィシャリ−ナ 最初のポンツ−ンに着けた


 フィシャリ−ナから町まで徒歩10分位かかるのでフェリ−タ−ミナル横の岸壁を着けることができる。


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 フェリ−タ−ミナル横  別の係留地



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 入浴できる ビュ−ホテル壱岐 500円


 ホテルの裏手に春一番で遭難した記憶を留める碑がある。五島沖の喜三郎曽根へ はえ縄漁船はここから出漁していた。幕末安政6年・1859に春一番で53名が遭難する。冥福を祈るためこの碑を建てた。旧2月13日は休漁にしているという。

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 春一番の海難碑


  2018-8-7


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2018年08月05日

小倉城


 新門司マリ−ナからタクシ−で山越えをして門司港に出る。そこからJRで小倉まで。小倉城を訪ねる。

 現在残っている規模の小倉城は細川忠興が造る。 天守閣の屋根に破風が無く唐造りと呼ばれる。(破風は今でいうド−マ−のようなもの)

 14世紀から大内氏、菊池氏、高橋氏、毛利・森氏、の持ち城となり関ケ原の功で細川氏のものとなる。細川氏が熊本に転封になった後は譜代の小笠原氏が幕末まで続く。 天保8年・1837に天守と御殿が焼失。

 幕末に第2次長州征討で高杉晋作に攻められてあっけなく開城して逃げ去ったのは不思議である。それなりの本丸・松丸・北の丸・2の丸・3の丸を持つ総構えの城であったのに。
幕臣の志気が低かったということでしょう。


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 復元天守には 大入母屋破風、千鳥破風、唐破風がついている。


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 西の口門


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 鉄門跡 一般家臣のと城門、 旧第12師団司令部正門


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 着見櫓 現在は漬物店が入居


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 大手門跡

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 堀


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 下屋敷の場所にできた庭園と書院を復元した。


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 りゅう弾砲


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下関厳島神社にある太鼓 高杉晋作の戦利品


  2018-8-5



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2018年08月03日

月形洗蔵と加藤司書


 福岡のマリノアに停泊した。月形洗蔵と加藤司書ゆかりの地を訪ねた。

  月形洗蔵

 月形半平太の舞台でのセリフ「春雨じゃ 濡れていこう」の句は良く知られている。月形半平太は月形洗蔵と武市半平太をモデルにしたと云われる。 土佐の武市は有名ですが、それに比べて福岡の月形は知られていない。

  月形洗蔵は藩需・朱子学者深蔵(100石)の長男として生まれる。長じて馬廻役になるが辞職して尊王攘夷運動に奔走す。藩への建白書や批判で幽閉される。文久元年・1863に執政加藤図書の進言により帰宅するも蟄居を命ぜられる。元治元年・1864に罪を許された。

 第1次長州征討において、五卿を擁して戦おうとする長州を説得して藩外に出す難しい議論を成功させ、月形は征討中止に貢献した。五卿を長州功山寺へ迎えに行き太宰府まで案内をする。第二次長州征討では藩論が一転佐幕派になり、乙丑の獄で斬首された。

 司馬遼太郎が描いた龍馬以来、薩長同盟は龍馬の功績として流布している。明治のころには、その功は月形が知られていたという。 幕末の筑前福岡藩の藩主は薩摩島津から婿養子に入った黒田斉溥(ながひろ)である。2歳年上の島津斉彬とは兄弟みたいであったという。彼は斉彬の薩摩藩主相続の仲介の労をとった。長州征討中止の運動をしていた福岡藩としては薩長の同盟画策は自然な動きであった。 薩長和解の話は筑前が元である。 坂本龍馬は月形の唱える同盟に賛同した。 

 西郷隆盛に「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と言われたのだが。


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 少林寺

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 月形洗蔵の墓  少林寺門を入りすぐ左


 



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加藤司書 1830-65

 加藤司書は、先祖が黒田官兵衛の荒木村重に幽閉されている時の有岡城牢番で、救出の世話をした功で代々中老の職に就く。2800石の上級藩士。 彼は選ばれて長崎でのプチャ−チン警備に当たる。「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、征長軍解散を決めさせることに成功する。その功で家老になり月形洗蔵と共に筑前勤皇党の首領格。 西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い、薩長同盟の実現に向けて活動。 穏便に攘夷を進めようとする加藤派と過激な行動をとる月形派に分かれて内紛を起こす。 乙丑の獄で切腹する。
 何を読んだか勘違いして司書のお墓を聖福寺にあると思い出かけた。規模のでかい由緒ある寺なのかお墓の有る庫裏へは拝観謝絶で向かうことができなかった。実際は隣の節信院にある。


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 聖福寺 総門  名島城移築


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 仏殿



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 庫裏



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 方丈  名護屋城から移築といわれてい


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  節信院


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 加藤司書墓


   2018-8-3



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2018年08月01日

平戸


 平戸はヨットで訪れたが住んでみたいと思わせるような街であった。

 平戸は観光バスでもヨットでも訪れると、徒歩で回れる素敵な観光地です。行政も電柱を地中化するなど景観に配慮をしていて、力を入れているのが感じられます。


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 平戸は遣唐使や空海渡海の時代から日本の出入り口を担った歴史があります。 フランシスコ・ザビエルが平戸に来て布教をした。 来航記念教会がある。


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 ザビエル記念教会

 ポルトガル人との宗教と貿易との諍いで、宮の前事件がおこり、ポルトガル船は横瀬浦に去る。 松浦鎮信が家康より6万3千石が安堵され、松浦藩が確立。 オランダとの国交が1609年にされ、平戸に商館を設置。 1641年に長崎出島に移転まで続く。 オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など遺構が残る。 吉田松陰が平戸を訪れた時に14−5隻の唐船を目にしたと記していることから、平戸において中国との交易は幕末まで続いた模様である。

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 宮の前事件がこの先でおきたという 案内板あり


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オランダ商館


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 オランダ井戸跡


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 オランダ塀


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 オランダ商館倉庫跡  平戸川内町 平戸より バス10分


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 英国商館跡の碑


 オランダ船リ−フデ号は豊後に漂着した。ウイリアム・アダムスこと三浦按針はその船の航海士で250石の旗本に取り立てられた、家康亡き後は不遇で平戸で死去した。


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三浦按針の館跡  お菓子処 カスド−スで有名


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三浦按針終焉の地


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 三浦按針の墓


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 松浦資料博物館 500円 陣屋跡


 山鹿流兵学の祖。山鹿素行の孫が平戸藩に仕えた。 吉田松陰は兵学師範の家を継いだために、修行のため平戸へ行く。 山鹿流軍学の家元へ入門する、彼は50日滞在したようであるが、陽明学の葉山左内の蔵書を読んで過ごしたという。松浦博物館には山鹿流陣立ての屏風が展示されていて興味深いものであった。


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 吉田松陰宿泊紙屋跡



  2018-8-1

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2018年07月31日

平戸海の駅


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 ポンツ−ンからみえる平戸城


 西日本のヨットの聖地と聞き及ぶ停泊地は弓削・上関・平戸でしょう。それらは料金が安くて便利、しかもオフロがとれるところです。また、中継地としてふさわし地理的な位置を占めるのも聖地としての条件でしょう。

 平戸海の駅は3日間まで利用でき、観光案内所に届けが必要ですが無料です。電気は500円・日で1隻のみ使える。

 ポンツ−ンハメインとサブの2か所ある。 メインは案内所近くで、サブは湾奥になる。
 詰めれば総計10隻ほど係留できる。

 お城や観光ポイントは近くにまとまってあり、ガソリンスタンドやコインランドリ−も近い。
お風呂はオランダ商館の坂を登ったホテルが800円で利用できる。 夜6時より開く、角打ちの酒屋さんで楽しい一時を過ごせた。

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 メインポンツ−ン、 この右側には大型フェンダ−があり大型船に向く

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 サブポンツ−ン  湾の奥に位置する


   2018-7-31

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2018年07月30日

功山寺


 関門海峡を抜けるために、新門司マリ−ナに滞在した。 あいにく東風の強風が続き、玄界灘は海況が悪く4泊することになった。そこで下関、小倉、新門司を訪ねる。

 下関の観光の目玉の一つは思いもよらぬ高杉晋作であった。 功山寺は長府の街にあり、下関からバスで訪れた。 長府は5万石の長州の支藩である。 訪れてみると町並みに風情があり、小さくまとまった、お勧めできる良いところです。


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 国宝 功山寺仏殿

 維新のタ−ニングポインントである高杉晋作の功山寺挙兵については、奇兵隊すら賛同されない中で、わずか80人で挙兵した地である。 詳しくは、ここですでに取り上げています。 
 
 功山寺は長府藩祖毛利秀元の菩提寺であり、毛利元就に追われた大内義長が自刃した地、坂本龍馬の護衛を勤めた三吉慎蔵の墓もある。 また、京都から落ちた五卿はここに滞在したことがある。


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 総門


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 境内にある晋作騎馬像


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 長府藩士 三吉慎蔵の墓

   2018-7-30



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2018年07月28日

唐津城・舞鶴城


 博多より糸島市・船越までヨットで向かい。午前は、野村望東尼が流された姫島に行き、午後は唐津城に行きました。 福岡で知ったのですが、唐津へは東京から横浜へ行く感覚で地下鉄に乗り行けるのだと分かりました。

 唐津城は慶長13年・1608に完成した平山城です。 寺沢広高が築城し名護屋城の解体資材を用いたといわれています。
 城は本丸・2の丸・3の丸・外曲輪に分かれています。寺沢以降は譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城。寺沢の12万石で始まり廃藩前は6万石でした。

 寺沢広高(1563-1633)は尾張の生まれで、秀吉に仕え取次として活躍、長崎奉行になる。朝鮮出兵では補給や輸送の任務を勤めた。 石田三成のように武断派からは嫌われたが、関ヶ原で家康につき4万石(天草領)の加増をうける。 この領地石高が実際より過大なものであったので、大きな負担を領民に課すことになり、天草の乱の原因となった。 没後嫡男の堅高が継いだが島原の乱の責任で天草を没収され自殺する。子が無く断絶した。

 広高は1000石取りの家臣を40人も抱えるほど有能な家臣を大事にしたが、そのために日常は堅実で家臣と同じ飯を食うなどして慕われたという。


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 唐津城下町絵図


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 復元天守

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 天守から唐津湾を望む


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 3の丸 辰巳櫓


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 辰野金吾(1854-1919)生誕地 日銀本店などを建てた建築家



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奥村五百子(1845-1907) 尊王攘夷運動に参加、愛国婦人会を創設


  2018-6-28





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2018年07月25日

宇久島


 宇久島は「五島ではない佐世保である」という人がいます。五島列島を形成する北部にある主要な島です。地図をながめれば佐世保という人はいないでしょう。現在の行政区分では佐世保市に属します。

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 文化的に他島と違いがあるのでしょうか、中通島や福江島などの島に多々ある教会が宇久島にはない。
 観光案内所でこの島の自然以外の歴史的な見るものを教えてもらい、レンタサイクルで見に行きました。

 平清盛の弟・家盛りが壇ノ浦の戦いに敗れてこの島に拠点をつくり、五島一円に勢力を伸ばし宇久氏(五島氏)の祖になったという。


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 平家盛 宇久島上陸像


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 平家森の宇久島上陸地


 観光案内所から教えてもらった、半日歴史的見どころコース
   電動自転車利用

1. 宇久平フェリ−タ−ミナル出発
2. 神島神社
3. 東光寺
4. 毘沙門寺
5. 旧神浦中学校
6. 厄神社
7. 家盛上陸地
8. 八幡神社
9. 宇久島神社
10. 若宮神社
11. アコウの巨樹
12. 宇久平タ−ミナル 終

 道は整備されてはいるが山の登りが多く、電動自転車でも難儀である。50ccのカブでも欲しいところです。

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 神島神社  五島神楽がおこなわれる

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 後藤神楽 神島神社掲示


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 支石墓  宇久松原遺跡出土


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 東光寺  家盛公以下7代の墓がある


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 毘沙門寺


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 厄神社 古くから住民の信仰をあつめる、巨岩のパワ−


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 八幡神社 家盛の氏神


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 宇久島神社 しゃぐま某引き・大名行列を模したものが行われる


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 アコウの巨樹  マムシに注意


 大規模な自然エネルギ−の開発計画があるのでしょうか? 風力発電反対の看板を多く目にしました。ゴルフ場も牛の放牧に使われているようにも見受けられ、観光も成功しているようには思えない。 地元の人に太陽光や風力の自然エネルギ−の利用計画にどういった理由で反対しているのかは聞きたいところです。

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  2018-7-26


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2018年07月24日

鄭成功  1624-1662


 ヨットで平戸を訪ねた折、誕生日・7月14日に行われる鄭成功祭りのポスタ−を見かける。6月末に航海を終えたので、祭りを見ることができませんでした。 彼のゆかりの地平戸・川内へ路線バスで行き、記念館を見るつもりが、あいにく休館日で見学できなかった。

平戸で父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれた。7才で単身明へ渡海して、21歳の時に明の隆武帝より「国姓」「朱」を賜ったことから、「国姓爺」と呼ばれた。清が勃興してくる中で彼は戦い、台湾のオランダ人を駆逐して拠点を台湾に拠点を置いた。台湾ではそのことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。病により39歳で没した。 近松門左衛門の「国性爺合戦」は彼を主人公にしたものである。


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占領地と影響圏


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 鄭成功門

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 記念館


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平戸 川内の町並み


   2018-7-24



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2018年07月22日

大浦慶 を訪ねて



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1829-1884

 長崎の油商人の娘として生まれる。大火で損害を受けてたが、日本茶貿易を先駆けて企て成功した。困窮する龍馬たちのような脱藩浪士に、パトロンとして金銭的な支援をして何かと面倒をみた。 開国となり、他港が発展していくと長崎は衰退していく。元勲たちは、もう過去のことと、彼女に振り向きもしなかった。浅はかだったと彼女は後悔したという。

明治になり、たばこ貿易詐欺の被害者になり、3000両もの負債を死ぬまでに完済した。死ぬ間際に茶輸出の功績を認められて功労金20円を賜る。

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  国指定重要文化財 本堂厨子


 長崎の大浦慶のゆかりの地を訪ねました。 市電に乗り正覚寺下終点で降ります。京都にある清水寺の僧・慶順により元和9年・1623に創建された清水寺に向かう。掃除をしていた住職さんに大浦慶のお墓の場所を訪ねた。この裏にあるとのことだが、いったん階段を下りて接している道に至る。左に山手の方向に2−3分歩くと案内の看板があった。長崎お決まりの坂道を5−6分行く、左へいく案内板があり4−5分登るとお墓がありました。

 新鮮なお花がそえられていて、長崎の人に今でも見守られているようです。

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大浦慶墓地 案内板


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大浦慶墓

 市電の1日乗車券は500円で安くて便利。正覚寺下より次の駅は演歌の題名になっている「思案橋」です。そこで降りて2−3分のところに大浦慶の居宅跡があります。昔と同じ町名・油屋町にあります。 そこはリフォ−ムしているのか新築工事なのかわかりませんが、足場を組みテントで覆われた片隅に石碑はありました。

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大浦慶居宅跡

 龍馬がそこへ行ったとか行かないのか、「思案橋」の由来は丸山にあった遊郭への思案のしどころからきた名前なのでしょか? 油屋町の市電を挟んで反対側が丸山町・寄合町になります。現在はどうなっているのでしょう? 見ていませんので報告できず。


    2018-7-22



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2018年07月20日

亀山社中・海援隊


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 龍馬の海援隊根拠地である亀山社中跡を見に行く。長崎によくある坂道を登っていかねばなりません。 行ってみると、想像していたより小さな建物でした。 隊員がこの部屋に集まれば、さぞかし狭かったことだろうと思われます。 今と違いバスや車で行くわけにもいかないので、船着き場や倉庫から、ここへ行くには坂道で徒歩30−40分といったところでしょう。

 記念館の展示には龍馬が着た黒紋付、今見ても良い生地・絹でしょうか、仕立てられています。また月琴がありますが妻・お龍さんが使用した楽器なのか不明です。

 年表によると亀山社中が出来て2年、海援隊になって1年で解散ですので、幕末の極めて短い間のことであったと分かります。

 龍馬・亀山社中・海援隊年表

元治元年・1864 2/24-4/4 龍馬は勝海舟の長崎出張に同行し、長崎滞在
慶応元年・1865 夏頃 亀山社中結成
       7月−10月 薩摩名義でグラバ−から小銃や艦船を購入長州へ輸送 
慶応2年・1866 1/21(22) 薩長同盟締結
        1/23  龍馬は寺田屋で負傷、近藤長次郎は小曾根邸で自刃
        3/8 薩摩船で鹿児島に向かう途中に長崎に立ち寄る
        5/2 ワイル・ウエフ号が五島で遭難、池内蔵太・黒木小太郎ら死亡
        6月上旬 妻・お龍を小曾根家に預ける
        6/17 下関で長幕海戦に参加
慶応3年・1867 1月上旬−2月下旬 後藤象二郎と会談 、脱藩許されてる。     
        2/10 お龍を下関伊藤家に預ける
        2月頃 土佐商会開設
        3月 岩崎弥太郎が長崎に来る
        4月上旬 海援隊発足 
        4/23 いろは丸が紀州藩船と衝突沈没
        5/29 いろは丸賠償決着
        7/6  イカルス号水夫殺害
        9/10 イカルス事件 おかまいなしの裁定
        9/14 オランダ商人から小銃1300挺購入
        10月 大政奉還
        11/15 近江屋にて龍馬死亡
慶応4年・1868 1/14 長崎奉行が脱走、海援隊奉行所西役所を占拠
           沢村惣之丞自刃
        4月 土佐商会閉鎖
      閏4/27  海援隊解散



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 亀山社中 玄関


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 龍馬着用紋付


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 月琴など展示物



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 龍馬のブ−ツ像   このブ−ツを履いて眼下の長崎を眺める


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 土佐商会跡  市電西浜町ア−ケ−ド前停留所脇


   2018-7-20

海援隊士
 http://hayame.net/custom32.html#spb-bookmark-503






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2018年07月18日

名護屋城


 名護屋は秀吉が尾張中村の出だから、名古屋と関係があるのかと思っていました。よく考えてみれば名古屋は、秀吉死後の関ケ原以降に家康が作った名古屋ですので、関係がないと分かる。 当時に尾張の中心は信長以来の清州だった。

  松浦水軍である波多氏一族・名護屋経述(つねのぶ)が領した垣添城がここにあったとされる。それゆえに名護屋城と命名されたのか。

 秀吉の朝鮮出兵の前線基地として、わずか5か月で築城された。大阪城に次ぐ城であったと云います。 地図を見るとこの位置が、朝鮮・対馬・壱岐・名護屋と一直線になる。朝鮮への出兵へ、この立地は好都合であった。 秀吉の死と共に廃城となる。わずか7年余であった。城の周りは諸大名の陣屋があり10万とも20万人が住んだといわれる。島原の乱のときに原城のように利用されるのを嫌い一層破壊された。 唐津城や仙台城に遺構が一部移されたという。

 この地がその後も開発利用されることがなく、長い間忘れさられていた。 幸いにも、最近よく目にする、本丸に野球場や役所・学校等が建つこともなく現在まで残る。城の遺構が櫓や天守は無いけれど、そのまま残った。 入り口には博物館があり、まずそこを見学するとよいでしょう。陣屋跡は時間が無くその詳細を見ることはできなかった。由緒ある広沢寺も行けませんでした。


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 名護屋城博物館


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 大手門


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 本丸大手


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 天守台


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 天守柱石跡


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 天守から望む


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 遊撃丸


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 馬場跡


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 搦手口


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 馬場櫓台


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 2の丸長屋建物跡

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福岡 聖福寺 方丈  名護屋城から移築


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 博物館の展示 安宅船


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 丹羽長重陣屋跡

  2018-7-18


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2018年07月16日

生月島 オラショ紀行


 幕府下でのキリスト教禁教のときに棄教しなかった信徒たちを「隠れキリシタン」と呼んでいる。明治になって解禁後も、カソリック教会に属さず守ってきた信仰を維持している人々を「カクレ(かくれ)キリシタン」と呼ぶことがある。 禁教下の信徒総称を「潜伏キリシタン」とし、合流しなかった人を「カクレキリシタン」と区別しているという。 教徒でもない爺には、そのことはどうでもよいので、今までのように「隠れキシタン」を使っていきます。

 6月に「潜伏キリタン関連遺産」が世界遺産になると報道がありました。それには生月島の遺産が、それより外されています。 その理由に、カソリックに復帰しなかった信者が、この島に多かったからではないかと言われています。

 ここに「オラショ」で、爺のこだわりを書いていますが繰り返しません。若い頃より訪ねてみたかったところでした。


 http://www.yk.rim.or.jp/~guessac/orasho.html

 ヨットで行くことはできませんでしたが、平戸からバスに乗りました。曲がりくねった山道を走行します。今は橋で平戸島と繋がっていますが、それまでは大変だったでしょう。

 生口島にある平戸市博物館には隠れキシタンと昔栄えた捕鯨の展示が見られます。そこでは、秘かに隠し持ったマリア様 ちょんまげヨハネ様の掛け軸や踏み絵など貴重な展示物があり、往時の家屋内の信仰風景が再現されています。
 この後で五島に行って世界遺産の4教会や他の教会も多く目にしました。しかし教会内部では生口島の山田教会がピカイチでした。写真は現役教会では撮影禁止ですのでありませんが。


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 生口大橋

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 キリスト教墓地


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 生口観音   キリシタンに対抗したのか? 大きなものです


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 山田教会


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 踏み絵


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 キリシタン信者の移動と分布


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 隠れキシタンの農家を再現

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 ちょんまげ ヨハネ様


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 マリア様


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 千人塚  殉教した人々が埋められた。


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 生口島と平戸島の間にある聖地中江之島(世界遺産)
  聖水をここで採取するという。


  2018-7-16




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2018年07月13日

平戸城


 平戸瀬戸を航行している時に見る、また平戸に停泊しているときに、ライトアップされた平戸城をキャビンから望むのは格別のものである。 ブランデーやワイングラスを手にしていたら、さらにと云ったところでしょう。

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 松浦鎮信(まつらしげのぶ 1549-1614)が城建設を開始。関ケ原では子の久信が西軍に属したが、東軍に与し疑念を招かないように城の一部を焼却した。家康は壱岐と松浦郡6万千石を安堵した。慶長12年・1607に大火で平戸城は全焼した。これも幕府に疑念を持たれないような行動ゆえとも言われている。100年後に幕府の許可を得て、宝永4年・1707に再建された。再建にあたって赤穂城と並んで山鹿流の城郭といわれる。


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幸橋(重要文化財) オランダ式のアーチ石橋

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天守

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地蔵坂櫓


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北虎口門(搦手門)

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見奏櫓


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乾櫓


  2018-7-14


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2018年07月12日

池島 旧池島炭鉱跡



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フェリ−桟橋の反対側に係留 2隻のヨット


 平戸と長崎の中ほどにあるので中継港としては良い位置です。小生は五島の有川から出て、ここを利用しました。 軍艦島が有名ですが、ここも同様に池島炭鉱の島として栄えました。2001年に廃坑になる。
 小さな島にもかかわらず、廃墟のビル群が遠くからヨットで眺めることができる。 トロッコで廃坑に入るツア−も行われているようです。

 歩いて坂を登って、住宅跡の中心地を見にいきました。連絡船の到着時間に合わせて、100円のコミュニテイバスがある。バスを利用して高い地点まで乗っていけば、楽をできたと思われる。
 ヨットマンにはありがたいことに、低額(200円?)で夕方から銭湯があります。 買物や燃料は補給できない。 人口100有余人の割には連絡船の便が多いのでそれに乗って買い出しができるかもしれません。

 ビジタ−の係留は連絡船桟橋の反対側になります。工事船や警備船が着くこともあり、一番奥が推奨です。

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往時の説明をした案内板


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積み出しロ−ダ−



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トロッコ



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住宅跡


  2018-7-13



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